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清明山の晴明神社(愛知県名古屋市)

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 ナゴヤドームの横の山(というか丘)にあります。

 政争に破れた安倍晴明が住んでいた場所で、江戸時代までは清明屋敷と清明井がありました。桃山時代には大阪を追い出された陰陽師がたくさん住んでいたそうです。
 安永7年(1778年)、晴明神社が建てられ、明治に入って京都の晴明神社からの御分霊もうけています。宮司さんは、安倍晴明が菅原道真を祀ったという近くの上野天満宮の宮司と兼任です。

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キャッチコピーは、

 ──名古屋で1番可愛く、1番願いが叶うパワースポット

です。熱田神宮からクレームが来そうなので、「当社調べ」とした方がいいかと。
 熱田神宮のご神徳は、ご祭神が「三種の神器」の草薙剣ですから、「戦勝」(あの織田信長でさえも、熱田神宮で戦勝祈願してから桶狭間へ向かったです。晴明神社のご神徳は、「マムシ封じ」ではなく、なんと、なんと「恋愛成就」!

※桜花学園高校で「恋の三社巡り」(晴明神社城山八幡宮(連理木。末盛城跡地)、高牟神社(「高牟」とは「鉾」のこと。出船八幡、古井八幡)の3社を巡拝すること)が発案され、JR東海が採用したが、現在は晴明神社のかわりに山田天満宮を参拝する。


  晴明神社 安倍晴明公 御事歴
御祭神晴明公は孝元帝の皇子大彦命の御後胤にして幼時より甚だ御賢明な方にて万の道に秀でられ、特に天文暦学の道に通達し神道自在の妙術を得られた。長ずるに及び天文陰陽博士として朱雀帝より六代の帝の側近に仕えられ数々の功績をたて給い、中にも村上帝の御代に進んで入唐し、城刑山にて伯道仙人の神伝を承け帰朝するや我国独特の陰陽道を確立され朝廷の祭政、民族生活の基範を定められた。今日我々が日常生活の基準とする年中行事、暦術、占法等、皆この時を創りとする。晴明御霊神として祀られるや、我国陰陽道の祖として広く世の崇敬を受けられ祈るに任せて皆々奇偉なる霊験に浴し、方除守護、火災守護、進学、開業、結婚、病気平癒等、疑いなきものなり。
晴明神社の起源
寛和2年(九八七年)晴明尾張国狩津荘上野邑に来住、長養寺乾街道北一丁余松樹五、六株あり。里人伝えていう「往古安倍晴明住居跡なり」と。晴明此処に在りし時当邑蝮蛇多きを見て加持して是を封ず。是より一村蝮蛇を見ず。然るにその後蝮蛇を見る事あり、寺に請い彼の跡に標木を立つ安永戌年七年(一七七八年、今から二百二十年前)晴明の神霊を勧進し密噴を修し、法楽をなし再び蝮蛇を見ずという云々。
之が当地晴明神社の起りであるが、現代に至るまでこの神社の霊験について数々の逸話が語り伝えられている。
 ☆晴明桔梗印
当社の神紋は俗に晴明桔梗ともいわれ、晴明公の創められた独特のもので陰陽道に用いられる祈祷呪符の一つである。
天地五行を象どり宇宙万物の除災清浄を表す。ギリシャ語でペンタグランマと称し西洋諸国にても魔除の印しとしている。旧日本陸軍を初め各国軍隊が星の紋章を使用し又幔幕の縄通し、衣服の一端に縫い込まれるのも皆厄除け開運を願う故なり。
   新年元旦祭 一月一日
   例祭    九月二十六日

 ──現代に至るまでこの神社の霊験について数々の逸話が語り伝えられている。

 具体的に知りたいものです。
 たとえば、第二次世界大戦の時、「晴明」と彫られた石が発見され、それを粗末に扱った兵士が奇病を発したり、戦後、付近の住宅工事で事故が相次いだり・・・安心して下さい。現在は厳重に祀っているので、そういうことは起きていないそうです。

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