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出典にあたる必要性

瀨戶内海には島の牧、殊に多かりき。熊谷直好の帰国日記に、
  赤駒に黒ごままじり遊び来る島の松原面白きかな
と詠じたるは、今の何島の事なりやは知らざれども、安芸の海中にも馬島と称して野馬の多き一島ありき。但し、之を取還らんとする者あれば、其舟、必ず覆沒すと云へば〔有斐斎箚記〕、世用(せよう)に於ては、益無きなり。(柳田國男)

【大意】 瀬戸内海には馬島、情島など島の牧が殊に多い。
熊谷直好の帰国日記に、
  赤駒に黒駒交じり遊び来る島の松原面白きかな
と詠んだとあるのは、今の何島の事であるか知らないけれども、安芸国の海中に「馬島」(芸予諸島の島の1つ。愛媛県今治市に属する。江戸時代には今治藩が馬の放牧を行い、これが島名の由来となった)という野馬が多い島がある。但し、この馬を捕って持ち帰ろうとする者の船は、必ず転覆するというので〔有斐斎箚記〕、その島以外で、その島の馬に乗ることはできず、世用(世の中で役立つこと)とは思われない。

 馬島の話には『有斐斎箚記』と出典が書かれているが、熊谷直好の帰国日記についてはタイトルが書かれていないばかりか、「今の何島の事なりやは知らざれども」とある。こういう場合は怪しい。手元に出典を置かず、暗記していた事を書いたのではないか? 実際、熊谷直好は「馬島」と明記しているし、「赤駒に黒駒」ではなく、「赤駒に白駒」である。また、「安芸国」とあるが、今治藩の管轄なので伊予国である。

 「有名人が書いた本だから」と内容を鵜呑みにしないで、出典にあたりたい。(しっかりとした出版社には誤字を修正する「校正」以外に、内容の誤りを著者に教える「校閲」がいる。)

 さて、瀬戸内海には島の牧が殊に多い理由は、①島が多い、②馬が逃げ出せないので、柵を設ける費用が節約できる、ということであろうが、明智左馬助の「湖水渡り」(東国武将がよく練習する馬術。馬を舟、槍を竿に見立てて馬を操る)を挙げるまでもなく、馬も海を泳げる。


 島立の駒は海をも渡るべし 荒き波にも常に馴れつつ  (熊谷直好)
(島育ちの馬は海をも泳いで渡れるのではないか? 荒波にも常に慣れているので。)

 姫島(愛知県田原市片浜町)は、神宮を伊勢の地に置いた倭姫命の墓(古墳)があることから、今は「姫島」と書かれるが、以前は馬が海を泳いできたことから「飛馬(ひめ)島」と書かれていた。

 波瀬村より一里許海上に有。『統叢考』に云。「往昔、右大将・頼朝卿、宝飯郡丹野村御堂山に馬を奉納あり。其の馬出でて、「引馬」の若草をはむ。夫より「引馬」を「御馬」と号す。彼の馬、蒼海を游きて南方の島に至る故に其の辺を「飛馬島」と号く」と見ゆ。

『三河国名所図絵』「飛馬島」

【大意】  波瀬村から約1里海上にある島である。渡辺富秋『統叢考』(『引馬誌』は『統叢考』の増補改題本)によれば、「昔、源頼朝が、建久元年(1190年)の上洛の帰途、赤坂駅に至ると、大願成就したことを感謝して三河国初代守護・安達盛長に命じて建てさせた「三河七御堂」の1寺である御堂山全福寺(愛知県蒲郡市相楽町)に馬を奉納した。この馬は、翌年、寺を出でて、「引馬」(『万葉集』の「引馬野」。語源は「低沼野」)に留まり、数ヶ月間、若草を食べていた。この時から「引馬」を「御馬」という。この馬は、ある日、一声いなないたかと思うと、海(三河湾)を泳いで南の島に着いたので、その島を「飛馬島」と名づけた」とある。


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