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【神社雑記】秋葉信仰の聖地へ(2)可睡斎

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 可睡斎の「秋葉総本殿」の内部は薄暗くて、異空間のようでした。

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秋葉三尺坊は時として神輿に乗って外へ出られる。

これを「神輿渡御」という。

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 ──「秋葉神社」という山奥の神社の存在をなぜみんな知っているのか?

 ──なぜ大流行したのか?

秋葉神社の「一の鳥居」は、どこにあると思いますか?

普通は社殿の少し前ですが、秋葉神社の「一の鳥居」は、

東海道の掛川(上の浮世絵と写真)と浜松にあります。

「一の鳥居」から秋葉神社へ向かう信仰の道を「秋葉街道」と呼び、

無数の「秋葉灯籠」(通称「龍燈」)と呼ばれる街灯が並んでいました。

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★「秋葉山三尺坊大権現道」(通称「秋葉街道」「秋葉道」

                鳳来寺────────秋葉神社───────小國神社
      湯谷温泉                        |                             森
            |         小松                        |
       豊川稲荷       (二の鳥居)      |
       |        |        |
  ───東海道「御油」───東海道「浜松」───東海道「掛川」───              
              (一の鳥居)   (一の鳥居)

・上の写真は、御油の「秋葉山三尺坊大権現道」終始発点。石標のみで鳥居はない。
・遠江国には、鳳来寺に向かう「鳳来寺道」、奥山半僧坊に向かう「半僧坊道」、豊川稲荷に向かう「豊川道」があるが、「全ての道は秋葉に通ず」と言わんばかりに、古街道の名称が「秋葉道」に置き換えられ、柳田国男が憂慮している。上に最も有名な「秋葉道」を示したが、実は「秋葉道」と呼ばれる街道は24(研究者によっては26)筋ある。

秋里籬島『東海道名所図会』「秋葉山道法(みちのり)」
 上方京師より詣するには、
 江戸の方より参詣するには、
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765195/6
■司馬江漢『江漢西遊日記』 掛川~森~秋葉山~鳳来寺山~御油
 27日(注:天明8年(1788年)6月27日)。朝より快晴。暑し。朝、掛川を出立して、宿はづれに鳥居あり。秋葉路なり。山路にして2里程行き、流あり。歩(かち)にて越す。また1里行きて川あり。歩にて越す。夫(そ)れよりと云ふ宿(しゅく)なり。一ノ瀬と云ふて3里あり。森宿は好き所にて、富商あり。番茶を仕出す処なり。此の処より流れ川を渡ること6瀬なり。(後略)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1194191/27

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そして、東海道で行われたド派手な「神輿渡御」によって一躍有名に。

「神輿渡御」は、今は11月3日の「文化の日」にちょっと行うだけです。

話を戻して、「秋葉総本殿」を出た神輿はどこへ向かうのか?

普通、「神輿渡御」と言えば、旧鎮座地へ戻ることです。

「このまま、後をついていったら、秋葉山の秋葉寺へ行くのか?」

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と心配したら、「奥の院」迄でした(よかったー)。

「奥の院」は、竜頭山の秋葉神社奥之院「不動明王堂」を移築したものであったが、放火により焼失したので、新築された新しい建物である。

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「奥の院」へ行く途中で曲がっていて入口を見つけにくい洞窟を発見!

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 境内図には「出世六の字穴」とある。

 「6」のように曲がっているからか・・・と思ったら、

 語源は「六道」「六観音」「六地蔵」の「六」だとか。

 そうか、まだアラビア数字が伝来していない時の話か・・・。

 でも、それって「穴」であって、「六の字穴」ではないのでは?

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 この洞窟は、「一言坂の戦い」後、徳川家康が隠れた洞窟ですとー!!!

 「東へ」はあり得ない!!!

 「一言坂の戦い」後、徳川家康は「西へ」、浜松城へ逃げ込んだはず。

 異説としては「北へ」で超巨大な藤棚に隠れたという伝承があります。

 南は太平洋で、「東へ」、可睡斎へってことは、

 武田軍に突進して突き破ったってことか? だったら凄いぞ!

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