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浦島太郎9世孫 or 娘の真名井御前

淳和帝第四妃・真名井御前(出家後は如意尼)については、
・浦島太郎と同じ日下部氏
・浦島太郎の9世孫
・浦島太郎の娘
・丹後一之宮・籠神社の宮司・海部直雄豊の娘・真井御前
の4説あります。

 天長元年(824年)の有名な「興福寺(西寺とも)の守敏と東寺の空海の雨乞い対決」では、空海の名声を妬む守敏が、国中の龍神を瓶に閉じ込めたので、空海は雨を降らすことが出来ない状況でしたが、天竺にいた善女龍王を呼び寄せて雨を降らせ、勝利しました。
 別伝では、浦島太郎の9世孫の真名井御前が、先祖伝来の玉手箱(※)を空海に渡し、空顔が呪文を唱えながらふたをあけると、紫色の雲が湧き出て雨が降り、空海が勝利したとなっています。これで玉手箱の効果は消えしまったのですが、翌天長2年(825年)に浦島太郎が現れ、新たな玉手箱を真名井御前に手渡したといいます。この浦島太郎は、真名井御前の父親だそうです。
 つまり、上の3説の全てが史実であり、浦島太郎は2人いたのだぁと私は考えています。

※先祖伝来の玉手箱:中は空であるが、丹後一之宮・籠神社では、籠神社伝来の箱であり、中には潮満珠と潮干珠とが入っていたとする。「玉手箱」は「珠(潮満珠と潮干珠)が入った箱」ではなく、「珠(宝石)のように美しい装飾の箱」の意味かと思いますが。(「手箱」は化粧品入れ。)


1.概要


幼名:小萩(こはぎ)
淳和天皇第四妃:真名井御前(真井御前)
出家後:如意尼

803年~承和2年(835年)3月20日(享年33)
丹後国余佐郡香河村(現在の京都府与謝郡与謝野町香河)出身
日下部浦島太郎9世孫(一説に丹後一之宮・籠神社の宮司・海部氏の娘)

10歳の時、上京し、頂法寺(六角堂)に入り、如意輪観音に帰依する。
20歳の時、淳和天皇に見そめられて第四妃となる。
天長元年(824年)  空海。玉手箱「紫雲箱」を使って雨を降らせる。
天長 2年(825年)  浦島太郎、帰郷する。
26歳の時、天長5年(828年)2月18日、御所を出て甲山に草庵を結ぶ。
29歳の時、天長8年(831年)10月18日、空海により出家。如意尼と号す。
33歳の時、承和2年(835年)3月20日、遷化。翌日、高野山にて空海入定。
※空海とは29歳離れているが、師弟関係以上の関係だったとか?

(1)誕生

 真名井御前は、日下部浦島太郎9世孫である。
 丹後国余佐郡香河村(現在の京都府与謝郡与謝野町香河)出身で、生まれた時から体から芳しい香りがしており、その香りが川を伝わって遠くまで香っていたことから、そのあたりを「香河(かご)」と呼ぶようになったという。幼名は小萩(こはぎ)といい。信心深く、特に如意輪観音を信仰していたという。
 また、籠神社や神呪寺では、「真井御前」と表記し、丹後国一宮・籠神社の宮司の海部直31代雄豊(おとよ)の娘・厳子(いつこ)とする。

http://g-village.net/iyasaka369/%E7%A9%BA%E6%B5%B7.pdf

(2)上京

 10歳の時、「この子はただ者ではない」と思った旅の僧に連れられて上京した。超絶美人と評判で、彼女の発する芳香に魅かれ、一目見ようと多くの人々が押し寄せたが、小萩の顔を見た者は誰もいなかった。

(3)結婚

 淳和天皇が、まだ皇太子・大伴親王であった頃、夢のお告げにより、聖徳太子が開基した紫雲山頂法寺(通称「六角堂」。京都府京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町。ご本尊は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた如意輪観音像)で、20歳の小萩と出会い、小萩を第四妃に迎えた。
 小萩は、真名井御前と呼ばれた。(籠神社や神呪寺では、「真井御前」と表記。『丹後旧事記』には「与佐の宇屋居子(うやいこ)」と呼ばれたとある。)「真名井」とは、丹後国で豊受大神(伊勢神宮(外宮)のご祭神)を祀っている神社の社号である。
 この結婚は、丹後国の豊受大神を伊勢神宮(外宮)に遷すにあたり、小萩の父である同地の日下部浦島太郎の力を借りるためだという。(丹後日下部浦島太郎は、伊勢神宮(内宮)の創建にも尽力したという。)

※水野祐氏『古代社会と浦島伝説(下)第2部 伊勢神宮の創祀と古代漁撈文化』参照

(4)出家

 真名井御前は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家を行うため、天長5年(828年)2月18日、ひそかに宮中を抜け、頂法寺(六角堂)で修行し、その後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現・西宮神社。兵庫県西宮市社家町)から廣田神社(兵庫県西宮市大社町。ご祭神は、神功皇后の三韓征伐で活躍した白龍に乗った撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(瀬織津姫、弁財天))、さらに廣田神社の神奈備山である甲山(六甲山)へ入った。
 この一連の行動は空海の協力によるもので、3年間修行して如意輪観音法を習得したという。
 天長7年(830年)、山頂の桜の巨木が光っているのを不思議に思い、空海に依頼して、真名井御前をモデルに、同じ身長の如意輪観音像を彫らせた。そして、この如意輪観音像をご本尊として、天長8年(831年)10月18日、(当時は)の本堂が落慶した。同日、真名井御前は、空海より剃髪を受けて出家し、「如意尼」と号した。
 なお、この時、如意尼と一緒に出家した2人の女性(如一と如円)のうちの如一は、和気真綱(和気清麻呂 の五男)の娘(和気清麻呂 の孫)、如円は小野篁の小野家の娘であった。

(5)遷化

 下掲『元亨釈書』に、
──三月二十日五更時、如意向南方趺坐、誦如意輪呪、合掌而化。年三十三。(空海が入定した承和2年(835年)3月21日〉の前日である3月20日の五更時(現在の午前4時前後)、如意尼は南(高野山)の方を向いて結跏趺坐 (けっかふざ)し、合掌して「如意輪観音呪」を唱えながら遷化された。享年33)
とある。

2.真名井御前の故地・丹後


 『元亨釈書』には、如意尼は承和2年(835年)3月20日に33歳で遷化されたとありますが、自殺でもしない限り、62歳で入定された空海に合わせるのは年齢差29を考えると困難だと思うのですが・・・出身地丹後には、如意尼は、空海入定の約5年後に帰郷し、隠居寺「善法寺」を建立して、亡くなるまで故郷で修行を続けたという伝承が残っている。

<幼少期の故地>
・小萩の屋敷跡(京都府与謝郡与謝野町香河)
・「如意尼生誕地」碑(京都府与謝郡与謝野町香河)
・香気を流した洗濯岩(京都府与謝郡与謝野町香河)
<帰郷後の故地>
・如意尼が帰郷して建てて過ごした隠居寺「善法寺」(廃寺)
 ↓
・善法寺の如意尼作の小萩観音像を引き継いだ石川山神宮寺(廃寺)
 ・式内・物部神社の神宮寺で、石川の姫路にあった。
 ↓
・神宮寺の如意尼作の小萩観音像を引き継いだ福寿寺
 ・臨済宗妙心寺派福寿寺(京都府与謝郡与謝野町石川)
・慈雲寺に如意尼の信者が小萩観音の絵を奉納
 ・臨済宗妙心寺派福寿寺(京都府与謝郡与謝野町香河)

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