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『熱田神宮異聞』平将門の首

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 「平将門の乱(承平天慶の乱)」が起こると、朱雀天皇(在位930-946)は、全国の寺社に将門調伏の祈祷をさせた。
 熱田神宮では、なぜか熱田神宮では祈祷を行わず、「熱田七社」の7柱の神々「熱田七社神」を神輿に乗せ、星宮社付近の神輿山で祈祷を行った。

・熱田大宮の御祭神:日本武尊
・八剣宮の御祭神 :須佐之男尊
・日割宮の御祭神 :天忍穂耳尊
・高倉宮の御祭神 :天穂日尊
・大福田宮の御祭神:宇賀魂命
・氷上宮の御祭神 :宮簀比売尊
・源田夫宮の御祭神:乎止与尊

※「星宮社付近の神輿山」としたが、当時の星宮社は、現在の笠寺小学校の位置にあり、当時は「星宮社境内の神輿山」である。現在、神輿山の平将門の調伏祈願所には秋葉社が建つ。
 名古屋市で平将門の調伏祈願所といえば「鳥居山(丹八山)」(名古屋市南区鳥山町の丹八山公園)が有名である。謎の石碑群のあの山である。

 ──将門は米かみよりぞきられける 俵藤太がはかりことにて(藤六左近)

 平将門は鋼鉄の体を持っていたが、アキレス腱ならぬ顳顬(こめかみ)だけは生身で、天慶3年(940年)2月14日、そこを俵藤太(藤原秀郷)に射抜かれた。その瞬間、神輿が血で染まったという。

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 神社が嫌うのは「穢れ」であり、最大の穢れは「血」「死」であるから、神輿を熱田神宮に戻すわけにはいかず、寺ならOKなので、神宮寺の境内の大福田社に入れた。

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■社宮司社 米嚼橋(こめかみはし)の由来
扇川に架せる橋を米嚼橋と云ふ。源流は中瀬から表大瀬古(現須賀町41番地大瀬古通り)を流れ大瀬古へ。南側に祠あり。三猿神と云ふ(社宮司社)。共に8尺四方の小祠となり勧請の年月詳しくならあず。明治30年頃村社に列す。祭神は高皇産霊命なり。平親王将門の首を持ち来りて此の流れにて洗ひ祭りたりと猿田彦命を祀るとなす。俗に導引の神と称し諸願成就の時は無底の柄杓を献ずるを例とす。例祭は旧6月20日(現7月20日)龍宮の画を施せる提燈の屋形11基を出す。古来町の支配に属して熱田神宮の末社にあらず。橋は明治末期の復元なり。大正初年市道拡張の為め撤去さる。昭和27年7月現在地に御鎮座なり。

 難解な文章だ。「三猿神」は「三狐神」の誤りではないだろうか?
 いずれにせよ、「こめかみ橋」で「こめかみ」を射抜かれた平将門の首を洗ったというのは付会でしょうね。

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