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第23回の再放送を観た。

比企能員「万寿様が仕留められた鹿というのは、これが、はー、これがとんでもなく大きく、それまでは和田殿が仕留めた鹿が1番であったが、それを上回るものでござった」
阿野全成「凄いな」
道   「素晴らしいではありせんか。万寿様は立派に育っておられますよ。御台所、おめでとうございます」
北条政子「万寿は源氏の嫡流ですよ。巻狩で鹿1匹仕留めたところで何で騒ぐほどのことがあるのですか。そんなことは当たり前ではないですか」
比企能員「んっ、しかし…」
北条政子「だって鹿でしょ?」
大姫  「鵺を射落したならまだしも、たいした事ではありません」
北条政子「参りましょう」
大姫  「はい、母上」
(北条政子&大姫退場)
比企能員「なんなのだ?」
阿野全成「嬉しくないわけではないと思いますよ」
実衣  「誰かさんは、はしゃぎ過ぎなのよ」
道   「夫は1日でも早く、御台所にお伝えしようと、痛む足でわざわざ戻ってきたのに、全く」
(廊下で)
北条政子「万寿が帰ってきたら、う~んと褒めてやりましょ」
大姫  「はい」

 『鎌倉殿の13人』では、万寿が天に放った矢が脚に当って鎌倉へ戻った比企能員が、万寿が鹿を射たことを伝え、自分たち夫婦が乳母として、立派に万寿を育て上げた(弓術の指導をした)とアピールした。
 『吾妻鏡』では、源頼朝が、万寿が鹿を射たことを1日でも早く伝えようと、梶原景高(梶原景時の次男)を鎌倉へ送ったが、北条政子は「爲武將之嫡嗣、獲原野之鹿鳥、強不足爲希有。楚忽專使、頗有其煩歟」(武将の嫡男が原野の鹿や鳥を獲るのは、特に珍しいことではない。軽率に使者をよこすとは、とても煩しいだけではないか)と言ったという。

■『吾妻鏡』「建久4年(1193年)5月22日」条
 建久四年五月大廿二日丁亥。若公、令獲鹿給事、將軍家自愛餘、被差進梶原平二左衛門尉景高、於鎌倉、令賀申御臺所御方給、景高馳參、以女房申入之處、敢不及御感、御使還失面目。「爲武將之嫡嗣、獲原野之鹿鳥、強不足爲希有。楚忽專使、頗有其煩歟」者、景高歸參富士野、今日申此趣云々。

(建久4年(1193年)5月22日。若公(万寿12歳。後の源頼家)が5月16日に初めて鹿を獲った事を、将軍家(源頼朝)は、我が子可愛さあまりに、梶原景高(梶原景時の次男)を鎌倉へ遣り、御台所(北条政子)に祝いを言いに行かせた。梶原景高は鎌倉に馳せ参じ、女房(大倉御所の女官であった梶原景高の妻?)を通して報告したところ、北条政子が特に感激することがなかったので、使者・梶原景高は、かえって面目を失ってしまった。北条政子が「武将の嫡男が原野の鹿や鳥を獲るのは、特に珍しいことではない。楚忽(軽率)な専使(特別の使命で遣わされる使者)をよこすとは、頗(すこぶ)る煩(わずらわ)しいだけではないか」と言ったと、梶原景高は、富士野に帰り、今日(5月22日)、その報告を(源頼朝に)したという。)

 北条政子が喜ばなかった理由には7説あるが、『鎌倉殿の13人』では、「心中では喜んでいたが、皆の前でははしゃぐことなく、御台所としての威厳を保った」とした。また、万寿を褒めることは、皆の前で万寿を育てた比企氏を褒めることになるので、北条氏の政子としては避けたかったのであろう。

※北条政子が喜ばなかった理由7説
https://note.com/sz2020/n/n22f426d313ec

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 この脚本の凄さは、大姫が母・北条政子を見習って、毅然とした態度をとり、妖怪「鵺」の話を持ち出してたことである。「中2病患者らしく、妖怪の話をした」と軽く流されそうであるが、鵺を射止めたのは、「以仁王の挙兵」に同調した源頼政である。ということは、大姫の発言は「鹿のような、武将であれば誰でも射止められる獲物ではなく、源氏の嫡流の源頼政しか射止められなかった鵺を射止めてはじめて御家人に認められる」という、母・北条政子の発言を補足する姉としての厳しい指摘といえよう。

■鵺退治


 平安時代末期、御所に、毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡ると、天皇がこれに恐怖し、病床についた。側近たちは、源義家(河内源氏)が、弓弦を鳴らして怪事を鎮めた「鳴弦蟇目」(弓弦を鳴らし、蟇目を射る魔除けの儀式)の前例に倣って、弓の達人・源頼政(摂津源氏)に怪物退治を命じた。
 「秘呪妖化體顯蟇目の祈祷」を伝授された源頼政は、家来である猪鼻湖岸出身の猪早太(猪鼻氏(後の浜名氏)。「井早太」とも表記し、一説に、井伊氏(一説に浜名氏は井伊氏の分家)。異説では、人ではなく、猟犬)を連れ、源頼光(摂津源氏の祖)より源頼国、源頼綱、源仲政と代々相伝して源頼政まで伝わった弓「雷上動(らいしょうどう)」(楚の弓の名手・養由基(ようゆうき)が使っていた弓)を手にして鵺退治に向った。すると黒煙が湧き上がったので、源頼政が尖り矢を射ると、悲鳴と共に鵺が落下し、すかさず猪早太が取り押さえて刀で喉を切って殺したという。(鵺は黒雲の中にいて姿が見えなかったのに、よく命中したものだ。)一説に鵺の死体は空を飛び、遠江国浜名郡の猪鼻湖岸に落ちたという。すなわち、静岡県浜松市北区三ヶ日町鵺代、胴崎、尾奈に、それぞれ頭、胴体、尾が落ちてきたというのである。また、羽平の羽塚には、源頼政が放った矢が埋められているという。
 天皇の体調も回復し、源頼政は、天皇から褒美として、名刀「獅子王」と、鵺が落ちた猪鼻湖岸の地(遠江国浜名郡贄代)を拝領した。(それで、「贄代」を「鵺代」と改名したという。)そして、この拝領地に、源頼政に鵺退治の秘法「秘呪妖化體顯蟇目の祈祷」を伝授した人物(天建羽槌命の子孫)が引っ越してきた。その秘法は初生衣神社(静岡県浜松市北区三ヶ日町岡本)の神主が一子相伝で伝えている。(「蟇目」は「鏑矢」であって、「尖り矢」ではない。)その秘法を聞いたところ、さすがに教えていただけなかったが、ヒントはいただけた。ヒントを元に想像すると、
①源義家がやったように弓弦を鳴らすと、黒雲が晴れて鵺が見えた。
②鏑矢で鵺を射ると、鵺は破裂し、肉片は四方八方に飛び散った。
③鵺の死体は無いが、その後、黒雲は湧かず、天皇も回復したので、「退治した」と認定され、褒美に太刀と領地を与えられた。
といったところか。

 なお、源頼政は伊豆守であったので、伊豆の国市では「鵺ばらい祭」が開かれる。(伊豆中央高校弓道部による弓術の披露がある。)

※「初生衣神社(うぶぎぬじんじゃ)」
https://www.ubuginu.jp/

※伊豆国と鵺
http://izunokuni.org/index_001.html
https://izunotabi.com/schedule/nuebarai/


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