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小山評定



1.「小山評定」概説


 徳川家康が会津征伐に向かうと、佐和山で蟄居してしていた石田三成が立ち上がった。

 そこで徳川家康は、小山に会津征伐軍の諸将を集め、評定(軍議)を開いて、
・会津征伐の中止
・西へ転進して石田三成討伐
という意思統一を図ったのが「小山評定」である。

──会津征伐軍の構成員が石田三成派だったら、徳川家康は殺されていたな。

 殺されないばかりか、この会津征伐軍が「関ケ原の戦い」の東軍となった。(徳川秀忠率いる徳川軍は、「関ケ原の戦い」に遅参した。)

2.「「小山評定」は無かった」説


 多くの武将が参加したにもかかわらず、この「小山評定」については、1次史料(当時の日記や手紙)が全く存在しないので、「「小山評定」は無かった」説が登場した。

 さらに、「小山評定はなかった」説支持者は、
 ・諸将を1ヵ所に集めるのは不可能。
 ・徳川家康は、小山ではなく、宇都宮にいた。
とする。

 確かに、多くの武将が参加したのに、当時の記録が無いのは奇妙ではあるが、「会津征伐の中止」「西へ転進して石田三成討伐」という意思統一は必要であるので、日時や場所が7月25日の小山でないにしても、評定は行われたのではないかと思われる。(評定を行わず、徳川家康が書状で一方的に指示したのであれば、「秘密事項なので、すぐに焼却処分せよ」とでも書き添えられていなければ、1通くらいは残っていそうなものである。)

3.「小山評定」論争史

・白峰旬「フィクションとしての小山評定」2012
・本多隆成「小山評定の再検討」2012
・高橋明「小山の「評定」の真実」2013
・白峰旬「小山評定は歴史的事実なのか?(その1)」2014
・白峰旬「小山評定は歴史的事実なのか?(その2)」2014
・白峰旬「小山評定は歴史的事実なのか?(その3)」2014
・白峰旬「「小山評定」の誕生」2014
・白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実』2014
・本多隆成「「小山評定」再論」2015
・水野伍貴「小山評定の歴史的意義」2017
・白峰旬「いわゆる小山評定についての諸問題」2017
・藤井譲治「慶長五年の「小山評定」をめぐって」2019
・本多隆成「「小山評定」再々論」2019
・本多隆成「「小山評定」の存否について」2019
・本多隆成「「小山評定」と福島正則の動静」2021
・白峰旬「「小山評定」論争の最前線」2021
・本多隆成「「小山評定」研究の現段階」2022

4.「小山評定」が行われた場所


「小山評定」が開かれた陣がどこに置かれていたかは不明です。
一説に、後に小山御殿が建てられた場所。
現在、小山市役所の北側の祇園城の御殿曲輪にあたる範囲が「小山御殿広場」として整備されています。


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