見出し画像

第18回「真・三方ヶ原合戦」(予習)

【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 徳川家康誕生
天文24年(1555年)3月   徳川家康、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定。
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月   織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日  掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月    徳川家康、上洛。
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」  
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日  徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月   徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄。
              →上杉謙信と「三越同盟」を締結。
元亀元年(1570年)11月   松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始。
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。←450年前!
元和2年(1616年)4月17日 徳川家康、死没。享年75。


1.織田信長からの加勢

 前にも書いたが、3000人とは、実に意味深である。1万とか2万とする説もあるが、これは徳川家康が流した噂で、武田信玄は信じてしまったという。(噂といえば、望月千代が「徳川家康は民を守らない。出陣しない」と言いふらしていたが、実際は出陣したので、徳川家康の株は上がったことであろう。)

 織田軍からの加勢としては、平手汎秀、佐久間信盛、水野信元の3人が各1000人を率いて来たというが、『どうする家康』では、平手汎秀が登場しない。聞くところによると、登場人物の数を減らすため、最初の台本では、加勢に来たのは柴田勝家と水野信元の2人だったそうだ。それを時代考証・柴先生が、「それはまずい」と注意して、佐久間信盛と水野信元の2人になったという。(そういえば、武田信玄の家臣は山県昌景と穴山梅雪しかいない気がする。柴先生には「一言坂で本多忠勝と戦ったのは、山県隊ではなく、馬場隊。登場人物の数を減らすためだというが、この時、山県隊は奥三河にいた」とも注意して欲しかった。)

 平手汎秀は「三方ヶ原の戦い」で小豆餅で討たれたとする説と、「三方ヶ原の戦い」後の撤退戦で殿(しんがり)を務めて稲葉山(浜松市中区東伊場)で討たれたとする説がある。いずれにせよ、武田信玄は、平手汎秀の首を織田信長に送り、同盟の決裂を告げたという。

※小豆餅説(前田家家臣・村井重頼『陳善録』):「三方ヶ原の戦い」の前日、徳川家康は近い順に陣中見舞いを行った。自分より格下の武将の陣中見舞いの方が先になったことを怒った平手汎秀は、「明日は先陣して討死する故、陣中見舞いは無用」と徳川家康の訪問を拒み、小豆餅で行われた「三方ヶ原の戦い」では、「徳川家康が自分より先に挨拶した者が大将であり、自分はただの武士に過ぎない」とふてくさり、敵に突入して討死した。

※稲葉山説(『三方原戦記』):「三方ヶ原の戦い」の後、徳川家康は、小豆餅から浜松城へは帰らず、伊場村の名主・権兵衛の家で1泊し、翌朝、浜松城へ帰還した。徳川家康のあとをついていった平手汎秀は、伊場村の手前の稲葉山で武田軍に追いつかれて討たれた。
 稲葉山には、石碑、墓、平手神社があったが、現在は石碑のみ。墓は、平成18年(2007年)3月、平手一族の菩提寺・牛頭山長福寺(愛知県稲沢市平和町下三宅郷内)に移された。なお、墓は平和公園(愛知県名古屋市千種区平和公園)の政秀寺墓地にもある。(頭を名古屋(政秀寺)、頭の無い胴体を浜松(稲葉山)に埋めたのか? ちなみに、平和公園は、名古屋空襲で焼けた寺の墓石を集めた公園です。)

家康の戦敗れて力と頼む諸将の多く死したるのみならず、尾州の援兵にも長谷川橋之助、代脇藤八、山口飛騨守、加藤弥三郎等、数多将士の討死あるを見て、遂に「叶ふべからず」と思ひなりぬるや、走りて名残口を引き払ひ、鴨江村指して落ち延びける処へ、早くも甲州勢、追ひ懸け来たり。猪突打って懸ければ、已に危うく見えける処、平手の勢、馳せ至って防ぎ戦ひ、其の家の子1人(注:平手時秀)と共に、監物(注:平手汎秀)も討死せし間に、家康は伊場村へ逃れしが、如何にしたりけん、家康が乗馬、歩み兼ねて見えければ、馬より跳び下りる処へ、夏目次郎右衛門(注:夏目広次)駈けつけざま、已に下って家康を乗せ、後に残って討死せり。

『浜松城合戦略記』

ここから先は

1,760字 / 1画像

¥ 500

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。