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諏訪大社と諏訪氏

(1)諏訪大社

 ──鎌倉の鶴岡八幡宮よりはるかに小さなこの社(松井優征『逃げ上手の若君』)

1333年当時、実際に諏訪大社が鶴岡八幡宮よりはるかに小さかったかどうかは知りません。(漫画に登場したのは、当時の諏訪大社上社の本宮幣拝殿と前宮鳥居かな。)現在の諏訪大社は、
諏訪大社上社 本宮(長野県諏訪市中洲宮山):御山が御神体
諏訪大社上社 前宮(長野県茅野市宮川):御山が御神体
諏訪大社下社 秋宮(長野県諏訪郡下諏訪町武居):一位の木が御神木
諏訪大社下社 春宮(長野県諏訪郡下諏訪町下ノ原):杉の木が御神木
の実質4社から成り立っています。(御朱印も4枚。『全国一宮御朱印帳』だと2ページしかないので、中央に線を引いてから書いていただく。)

 諏訪大社の最大の特徴は、本殿と呼ばれる建物がないことですので、北条時行には、諏訪大社が鶴岡八幡宮よりはるかに小さく見えたのでしょう。

 諏訪神(「お諏訪さま」「諏訪大明神」「諏訪明神」「諏訪南宮法性上下大明神」)は、現在は「生命の根源や生活の源を守る神」とされていますが、古代は「風や水の守護神で五穀豊穣を祈る神」、鎌倉時代や戦国時代には「武勇の神」(『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」)として信仰されたと思います。
 諏訪神の正体ですが、上社本宮のご祭神が建御名方神で、上社前宮と下社2社のご祭神が建御名方神妃の八坂刀売神とされています。この地を治めていた守屋大臣(洩矢神)は鉄鎹(鉄輪)を使って防戦するも、藤鎹(藤枝)を使う明神(諏訪明神&藤島明神)に負けて、諏訪を奪われたそうです。一説に「建御雷神に追われた建御名方神が出雲から諏訪に来た」のは神話であり、そのネタとなった史実は「蘇我馬子に追われた物部守屋が大和から甲賀を経て諏訪に来た」だそうです。

『大祝信重解状』「守屋山麓御垂跡事」(1249年)
【原文】當砌、昔者守屋大臣之所領也、大神天降御之刻、大臣者奉禦明神之居住、勵制止之方法、明神者廻可爲御敷地之祕計、或致諍論、或及合戰之處、兩方難决雌雄。爰明神者持藤鎰、大臣者以鐵鎰、懸此所引之。明神卽以藤鎰令勝得軍陣之諍論給。而間、令追罰守屋大臣、卜居所當社、以來遙送數百歲星霜、久施我神之稱譽於天下給。
【書き下し文】当砌、昔は守屋大臣の所領なり。大神天降りまします刻、大臣は明神の居住を禦ぎ奉り、制止の方法を励まし、明神は御敷地と為すべく秘計を廻らし、或いは諍論を致し、或いは合戦に及ぶの処、両方雌雄を決し難し。爰に明神は藤鎹を持ち、大臣は鉄鎹を以て、此の所に懸け之を引く。明神即ち藤鎹を以て軍陣の諍論を勝得せしめ給ふ。而(しかる)間、守屋大臣を追罰せしめ、居所を当地に卜(ぼく)し、以来遙かに数百歳星霜を送り、久しく我が神の称誉を天下に施し給ふ。
https://suwa-shiryo.amebaownd.com/pages/2948631/page_201906041535

『諏訪大明神画詞』(祭四 夏下)第四段(1356年)
抑(そもそも)此の「藤嶋の明神」と申すは、尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊、神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤の枝を取りて是を伏し給ふ。終に邪輪を降して正法を興す。明神、誓いを発して藤枝をなげ給ひしかば、則ち、根をさして枝葉をさかへ、花葉あざやかにして、戦場のしるしを万代に残す。「藤嶋の明神」と号するは、此の故也。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936498/63

 『諏方大明神画詞』に、諏訪神は、衣を脱いで8歳の男の子に着せ、「大祝」と称し、「我には体がない。祝をもって体とする」と神託を下したとあり、明治時代までは、諏訪神の「御正体」(依り代)とされた諏訪氏出身の大祝(おおほうり)が「神体」「現人神」として崇敬されていたそうです。

『諏訪大明神画詞』(祭一 春上)第二段(1356年)
祝は神明の垂迹の初め、御衣を八歳の童男にぬぎきせ給ひて「大祝」と称し、「我において体なし。祝を以て体とす」と神勅ありけり。是れ、則ち、御衣祝有員神氏の始祖なり。家督相次で、今に其の職をかたじけなくす。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936498/58

 諏訪氏は、大神神社の大神(おおみわ)氏(祖神は建御名方神の兄・事代主神)の分家の神(じん)氏ともいわれ、『信濃国一宮諏方本社上宮御鎮坐秘伝記』を根拠に「神体山+拝殿」という大神神社の形式に合わせたという。(明治政府としては、「現人神」は明治天皇だけにしたいので、諏訪大社の大祝に「現人神」と名乗らせないように、「神体は大祝ではなく御山だ」と変えさせたのでしょうね。)

■諏訪頼忠他『信濃国一宮諏方本社上宮御鎮坐秘伝記』
【原文】古記云、神之岩隠乎、諏方国鎮坐之処、不造宮社而、唯拝殿建之、以山為而拝之矣。則傚于父尊大和国三輪神陵而造焉。神之和魂陰霊鎮坐之処也。
【書き下し文】古記に云はく、神の岩隠か、諏方国鎮座の処、宮社を造らずして、唯(ただ)拝殿、之を建て、山を以て神体と為して之を拝す。則ち、父尊大和国三輪の神陵に傚(なら)ひて建る。神の和魂陰霊鎮座の処なり。

 明治以降、御神体は、大祝ではなく御山(守屋山)とされ、守屋山東峰山頂の石祠は、物部守屋を祀る守屋神社(長野県伊那市高遠町)の奥宮だとされています。(諏訪神が、水神である蛇や龍であれば、守屋山は守屋家の崇拝対象にすぎず、ご神体は諏訪湖だと思うのですが、『日本書紀』では、諏訪神=風神としています。)

■諏訪神の変遷(仮説)
・原始(縄文時代):ミシャグジ(御石神と表記。蛇とも。御射山)
・神代:建御雷神に追われた建御名方神&八坂刀売神の夫婦神
・人代:神武天皇に追われた伊勢国の風水神・伊勢津彦命(龍とも)
・古代:守矢家の祖霊(洩矢神とも、物部守屋の霊とも)
・中世&近世:「現人神」(諏訪氏出身の大祝)
・現代:神名備「御山」(に坐す神=祖霊)

★信濃國一之宮 諏訪大社 公式サイト
http://suwataisha.or.jp/

(2)諏訪氏

 ──この時代の日本には「人でありながら神」「現人神(あらひとがみ)」として大勢の信仰を集める人間が…大きく3人存在した。1人は京の天皇、1人は出雲大社の当主、そして…諏訪大社の当主。諏訪氏は、武将と、神官と、「神」の役割を兼ね備えた…極めて特異な大名であり、頼重もまた、諏訪明神をその身に宿した現人神として、この地に置いて絶大な崇拝を集めていた。(松井優征『逃げ上手の若君』)

 ──諏訪氏は武士と神官双方の性格を合わせ持ち、武士としては源氏、執権北条氏の御内人、南朝方の武将、足利将軍家の奉公衆を務めるなど、ごく一般的国人領主である。しかし、大祝としては信濃国および諏訪神社を観請した地においては絶対的神秘性をもってとらえられた。信濃国一宮として朝廷からも重んじられたこともあるが、諏訪明神が軍神であることから、古くから武人の尊崇を受けていたことも大きく影響している。故に諏訪大社の祭神の系譜を称し、上社最高の神職である大祝を継承し、大祝をして自身の肉体を祭神に供する体裁をとることで、諏訪氏は絶対的な神秘性を備えるようになったといえる。代々の諏訪氏当主は安芸守などの受領名を称したが、大祝の身体をもって諏訪明神の神体とされることで正一位の神階を有し、高い権威を誇示した。(Wikipedia「諏訪氏」)

諏訪氏の正体については、
・大神氏の分家「神氏」
・金刺氏(下社大祝家)の分家
・洲羽(諏訪)国造家(尾張国造家が熱田神宮の大宮司になったのと同様)
・諏訪明神に「大祝」に選ばれた8歳の童男(『諏方大明神画詞』)の子孫
・清和源氏・源満快の子孫
と諸説あります。

 諏訪頼重(盛高)が、北条高時の遺児・北条時行(『太平記』では亀寿丸、『梅松論』では勝寿丸)を自領・諏訪で匿った。諏訪頼重は、その北条時行を擁して「中先代の乱」を起こすが、足利勢に敗れ、北条時行は自害したと見せかけて逃げるが、諏訪頼重・諏訪時継父子は自害し、大祝職は庶子家の藤沢政頼が継承した。
 南北朝時代には、諏訪時継の子・諏訪頼継が大祝職となり、北条時行を迎えて南朝方に属し、北朝方の小笠原氏と争ったが、敗れた。その後は諏訪頼継の弟・諏訪信継(信嗣)が継ぎ、諏訪信継の子・諏訪直頼も南朝に属した。

諏訪頼重─時継┬頼継
        ├継宗
        └信継(信嗣)─直頼…勝頼(武田勝頼)

(注)「すわ」とは、長野県の方言で、谷や湿地のことである。『古事記』では「洲羽」(「科野国之州羽海」=諏訪湖)、『日本書紀』では「須波」、『続日本紀』では「諏方」と表記している。

★参考サイト:「諏訪史料データベース」
https://suwa-shiryo.amebaownd.com/

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