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第11回「信玄との密約」(予習)

永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄7年(1564年)4月8日  飯尾連竜、松平家康と対面
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄8年(1565年)12月20日 今川氏真、飯尾連竜を誅殺。
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定。
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月13日 武田信玄、駿府を制圧
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を落とす。



1.武田信玄と徳川家康の今川領への同時侵攻


 永禄11年(1568年)12月6日、武田信玄が駿河国への侵攻を開始すると、12月13日、徳川家康も遠江国へ侵攻を開始した。同時侵攻の密約があったのであろう。この密約の仲介者は、織田信長で、武田方の窓口は穴山信君で、徳川方の窓口は酒井忠次だったという。

■武田信玄の第1次駿河国侵攻ルート
・薩埵峠→江尻城→上原→府中(駿府今川館)→久能山(久能城)

 今川氏真は、武田信玄の侵攻を薩埵峠で食い止める予定で、清見寺に本陣を置いたが、調略されていた瀬名氏、庵原氏、葛山氏ら21武将が陣払いをしたので、戦わずして負けた。

 今川氏真は、駿府今川館を捨て、建穂寺(式内・建穂神社)で指示をした後、藁科(わらしな)川を遡り(「川根街道」。通称「今川街道」)、山村に潜んでいたが、掛川城主の誘いで掛川城に逃げ込んだ。

氏真、安部川を過ぐる迄、従者二千余。
土岐の山家に至る時は、纔(わずかに)百騎に足らず。

『武徳編年集成』

 武田信玄は、12月13日、駿府今川館の鬼門の守り・龍雲寺を焼き払い、寿桂尼の墓を破壊してから駿府今川館に入って焼いた。この時、国宝級の品々が灰になったという。愛宕山城や八幡城も落とされ、「小京都」と呼ばれた美しい駿府の町は焼失した。
 この後、武田信玄は、久能山に入り、久能寺(現・鉄舟寺)を山麓に移して久能城(現・久能山東照宮)に改修したとされるが、既に「花倉の乱」の時には福島氏の久能城があった。

※久能寺:有度浜の天女踊りを伝える寺。なお、戯曲化に際し、天女は「三保の松原」に舞い降りたことに変更された。


■徳川家康の遠江国侵攻ルート
・甚三(後の陣座)峠→井伊谷→瀬戸→祝田→見付→橋羽→普済寺→引馬城

 徳川家康は、「井伊谷七人衆」のうちの(後に「井伊谷三人衆」と呼ばれることになる)3人の道案内で、井伊谷を通って侵攻し、橋羽街道を南下して東海道に入ると、天竜川を渡って国府所在地・見付に達した。
 橋羽(はしわ。橋端。『科註拾塵抄』「奥書」では「蒲郷端和」)妙恩寺に戻って引間城の開城交渉を行ったが(『科註拾塵抄』「奥書」)、拒否されたので、普済寺に本陣を置いて引間城(「引馬」「曳馬」「匹馬」とも書くが、浜松市では地名は「曳馬」、城名は「引間」で統一)を攻めた。この時、築山殿は、普済寺の末寺・西来院に入った(『西来院廟堂記』)。

★『科註拾塵抄』(日蓮宗本山・身延山久遠寺の身延文庫):妙恩寺(静岡県浜松市東区天龍川町。開基は日蓮上人の叔父で、蒲荘を支配していた金原法橋左近将監)で、日詮『科註拾塵抄』を永禄13年(1570年)2月7日に(妙恩寺11代住職・常住院日豪上人(武田家家臣・馬場美濃守の末子)が?)写した。この本の「奥書」は、(日豪上人によって?)史実が書かれた貴重な同時代史料だという。
 多くの寺へ取材に行ったが、ご住職の性格は、超良いか、超悪い(変人)かで、中間層が少ないように感じている。妙恩寺のご住職は郷土史家でもある超良い方で、質問したらホワイトボードを取り出して説明され始めたのには驚いた! 話し慣れておられるようで、説明が分かりやすかった。

 さらに徳川家康は、永禄11年12月27日、引間城から不入斗に移り、「掛川城攻め」のための砦を築いた。砦の数については、『科註拾塵抄』「奥書」には3ヶ所とあるが、実際は13ヶ所とされる。北に龍穴峰砦(八幡山砦)、東に笠町砦(二藤砦)、南に杉谷城、青田山砦(陣場峠)、さらには、高天神城攻めでも使われた小笠山砦などが築かれた。そして、徳川家康は、永禄12年2月、不入斗から龍尾山砦(天王山砦。式内・真草神社の論社・龍尾神社)に本陣を移した。(「掛川城攻め」の詳細は次回。)

不入斗:普通は「いりやまず」「いりやまぜ」と読む。関東地方に多い地名であるが、東海地方にもある。「貢租を納めるまでに至らない不毛の地にある小さな集落」の意で、正しい表記は「不入計」(年貢の計算に入れない土地)だという。(『新編相模国風土記稿』には「不入の地にして、往古国守を置れし頃、其の貢租を免除せられし義なり」とある。)
 徳川家康が本陣を置いた「不入斗」について、『浜松御在城記』に「入山瀬」、『甲陽軍艦』に「いり山瀬」とあることから、静岡県掛川市入山瀬(いりやませ)だと考えられてきたが、現在は静岡県袋井市国本の不入斗(ふにゅうと)であると考えられている。式内・郡辺神社の論社である遠江三宮・冨士浅間宮の神領であったので、免税されて「不入斗」と呼ばれたという。徳川家康の本陣は、この冨士浅間宮であろう。この冨士浅間宮は、後に武田信玄によって焼かれたが、天正18年(1590年)、地頭・本間源三郎が現在地(静岡県袋井市国本)に再建した。檜皮葺きの本殿は、国の重要文化財に指定されている。

https://ourroots.web.fc2.com/BUNKEN/kakegawajousemono_ieyasuhonnjinn_ha_iriyamazu.pdf
『科註拾塵抄』「奥書」

【大意】永禄6年以降、引間城主・飯尾連竜などが今川氏真に叛き、「遠州錯乱」が起きたが、永禄9年12月20日に、飯尾連竜を含む逆臣116人を駿府に呼んで討ったので、遠江国の騒動は沈静化した。
 永禄11年12月13日、武田信玄は、駿河国へ侵攻し、駿府を焼いたので、今川氏真は、掛川城へと逃げ込んだ。この時、徳川家康は、12月17日に妙恩寺に本陣を置き、遠江国の国衆の調略を行うと、まずは馬伏塚城主が12月21日に従属し、他の国衆も次々と従属したが、掛川城主と宇津山城主だけは従属しなかった。そこで徳川家康は、本陣を不入斗に移し、掛川城に向けて3ヶ所に砦を築くと、翌年の2月、龍尾山砦(「掛川城攻め」の本陣)に入った。

2.徳川家康の「引間城攻め」(『改正三河後風土記』)

 今川氏真は永禄6年(1563年)、1万人の軍勢を率いて出陣し、東三河の牛久保城(愛知県豊川市牛久保町)に陣取り、5000人の兵で一宮砦を攻めた。この時、神君・徳川家康公は、僅か2000の兵で出撃し、危機を救った。これを「一宮の退口」「神君一宮後詰」といい、「神君大高城兵糧入れ」と共に、「徳川家康二大武勇談」として語り継がれている。(この後の「佐脇城(愛知県豊川市御津町下佐脇郷中)&八幡砦(愛知県豊川市八幡町東赤土)の戦い」では、徳川家康は、「妻の実家の関口家の墓には触れるな」と命じたので、関口家の墓は現存している。)
 この時、引間城主・飯尾致実(連竜)は、既に徳川家康と内通していたので、「体調不良。引間城へ帰る」と言い、新居や白須賀の今川軍の陣に放火しながら帰城すると、今川氏真は、駿府に戻り、「すぐに飯尾致実(連竜)を捕らえて、放火の件を問い質せ」と言って小林砦(静岡県浜松市浜北区小林)を築いて井伊谷にいた新野右馬助親矩(「左馬助」の誤り)を大将に、兵3000人を入れた。ある日、引間城の東の引間橋で戦いが3度行われたが、3回目に大将・新野親矩は鉄砲で撃たれて(一説に矢で射られて)亡くなった。この日を『武徳大成記』では永禄5年4月とする(「神君一宮後詰」には永禄5年説がある)が、新野親矩の命日は永禄7年9月15日である。
 今川軍が敗れて、今川氏真は益々怒り、すぐに朝比奈泰能、瀬名親隆、瀬名氏範、朝比奈秀盛等を送ったが、引間城は落ちなかった。この時、飯尾致実(連竜)は、「誰かの讒言により、徳川家康に内通しているとか、今川軍の陣に放火したとされているが、無実である」と書いた起請文を矢に結び付けて射た。この起請文を駿府の今川氏真に見せると、今川氏真は、兵を呼び戻して飯尾致実(連竜)を赦免した。喜んだ飯尾致実(連竜)が駿府へお礼を言いに行くと、今川氏真は、飯尾致実(連竜)を誅殺した。

 飯尾致実(連竜)の正室・於田鶴は、飯尾致実(連竜)の死後、「女城主」(『どうする家康』では「女主(おんなあるじ)」)として君臨し、遠江一宮の式内・小國神社(静岡県周智郡森町一宮)がある森町の真田城(静岡県周智郡森町一宮)の城主・武藤刑部丞氏定を通して武田信玄と内通していた。徳川家康は、このことを聞き、徳川方に内通していた飯尾家の家老・江間兄弟へ、松下常慶と後藤太郎左衛門を使者として遣り、「引間城を明け渡せば、飯尾致実(連竜)の妻子の面倒はみるし、家臣は全員召し抱える」と告げたので、江間兄弟はこの破格の厚遇を喜び、於田鶴を説得したが、於田鶴は承知しなかったので、徳川家康は、酒井忠次と石川数正に引間城を攻めさせたが、初日は敗北した。翌日、外郭に入ることに成功すると、於田鶴は、緋縅(ひおどし)の鎧に同じ毛の兜を被り、薙刀を手に持ってうって出た。侍女等も7~8人(一説に18人)、同じ格好でうって出た。同時に城兵も50~60人うって出て、全員討死した。そして、
・於田鶴は「其の志操の節烈は、丈夫にも勝りたり」と賞賛された。
・引間城には酒井忠次が入った。
・家老の江間兄弟には、「初めから内通していた」として飯尾領が与えられた。(この本『改正三河後風土記』の原書『三河後風土記』に、「飯尾致実(連竜)が病死すると、今川氏真は、飯尾致実(連竜)の子・義広に家督を継がせた」とあるのは誤りである。)

①平岩親吉『三河後風土記』(全45巻)
②成島司直『改正三河後風土記』(全43巻):①の誤りを修正した本
③沢田源内『三河後風土記正説大全』(全50巻):①②を基にした偽書

 今川氏真は去年、三州発向。佐脇、八幡に在陣せし時、飯尾豊前守致実が徳川殿へ内通し、病(やまひ)と称し、「居城・遠州引間へ引き返す」とて其の道すがら、新井、平須賀辺の駅舎に放火して帰りし事を大いに憤り、氏真、駿州へ帰府の後、「早速に引間を故致実を生け捕りて、其の虚実を鞠問せん」とて、新野右馬助親矩、其の弟・式部少輔之規を大将とし、三千余人を差し添へ、引間の城へさし向け、短兵急に攻めさせしに、豊前守さる古兵(つはもの)なれば、少しも恐れず、矢、炮を飛ばし、防戦す。寄手の大将・新野右馬助、鉄炮にあたりて、うたれ死す。(『大成記』、「引間城攻め」を永禄五年四月とす。誤れり。)依て、散々に敗れ、駿州へ迯(に)げ帰れば、氏真、益(ますます)怒りかさねて、朝比奈備中守泰能、瀬名陸奥守親隆、其の子・中務大輔氏範、朝比奈兵太夫秀盛等に大勢を差し添へ、攻めかこみ、昼夜を分かたず攻しかども、致実、防戦の術を尽くし、寄手の手負ひ、死人ばかりにて、城落つべしとも見へず。其の時、致実、矢文を射出し、「其の讒者の為に無実の罪を蒙り、遺恨せん方なし。一時の急難をのぞかんが為、防戦するといへども、全く異心を抱くにあらず。早く讒者の虚実を糺明有て、恩免を蒙らば、弥々(いよいよ)二心なく忠勤すべし」としたため、起請文に添へて贈りければ、討手の輩、是を駿府に贈り、氏真に見せしむ。氏真、爰に於いて、討手の輩、呼び返へし、致実が罪を免(ゆる)し、此の後は懇意に恩義を施しければ、致実も忝くや思ひけん、礼謝の為に駿府へ来りけるを、氏真、謀をめぐらし、壮士を伏せ置き、不慮に殺害せり。
 致実が妻、女ながらも、けなげなる性質にて、夫の横死を憤り、城兵を指揮し、堅固に篭城し、小国の武藤刑部丞をたのみ、甲州の武田へ内通す。神君、此の由、聞こし召し、飯尾が家臣・江間安芸、同・加賀両人へ御内意有りて、松下覚右衛門、後藤太郎左衛門を御使ひとせられ、「徳川家へ其の城を渡すに於いては、飯尾が幼子、寡婦を御懇ろに御養育ありて、其の家人等、悉く召し抱へられ御扶助有るべし」と仰せければ、依て安芸、加賀両人、其の旨を以て飯尾が妻を種々と諌め諭しけれども、彼の妻、さらに承引せず、爰に於いて、引間の城を乗っ取るとて、酒井左衛門尉、石川伯耆守両将を差し向けらる。然に彼の妻は防戦の指揮を為し、城兵、屡々(しばしば)突き出て烈(はげ)しく戦へば、寄手、大いに敗走せり。其の翌日は、酒井、石川、又攻め寄せて烈しく攻め立て、遂に外郭に乗り込めば、飯尾が妻は、緋縅の鎧に同じ毛の兜を着、長刀をふるって敵中に切って入る。侍女、婢、七、八人、同じ粧(よそおひ)出で立ちて、城兵五、六十人と同じく勇戦し、男女一人も残らず討死す。彼の妻、死、去就の是非は、論ずるに足らざれども、「其の志操の節烈は、丈夫にもまさりたり」と感ぜぬ者なし。扨(さて)、酒井、石川の両将、城を乗っ取れば、左衛門尉に此の城を守らしめさる。江間安芸、加賀の両人は、「最初より御内意を蒙りし者なれば」とて、飯尾が所領は悉く此の両人へ下されける。(原書、「飯尾、病死し、氏真より、其の幼子に家督を継がせし」とあるは誤り也。「引間城攻め」の事は、基業による。)

成島司直撰『改正三河後風土記』(巻第九)「寺部上野城攻付飯尾豊前守の事」
https://dl.ndl.go.jp/pid/993836/1/208

★今後の『どうする家康』
・第11回「信玄との密約」
・第12回「氏真」
・第13回「家康、都へゆく」
・第14回「金ヶ崎でどうする!」
・第15回「姉川でどうする!」
・第16回「信玄を怒らせるな」
・第17回「三方ヶ原合戦」
・第18回「真・三方ヶ原合戦」
・第19回「お手付きしてどうする!」
・第20回「岡崎クーデター」
・第21回「長篠を救え!」
・第22回「設楽原の戦い」
・第23回「瀬名、覚醒」
・第24回「築山へ集え!」

※ノベライズ3巻は6月、4巻は9月発行予定です。


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