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佐野郡の式内・眞草神社 -毒蛇気神-

佐野(さの)郡:4座並小
眞草(まくさ)神
・論社①:雨桜神社(御祭神:素盞之男命、奇稻田姫命、八王子命)
・論社②:龍尾神社(御祭神:素盞鳴尊、櫛稲田姫尊、毒蛇気神尊)
・論社③:眞草神社【廃絶社】中村八幡宮に合祀?
・論社④:中村八幡宮(御祭神:応神天皇)
・論社⑤:宇刈神社(御祭神:応神天皇)
己等乃麻知(ことのまち)神
・論社①:事任八幡宮(御祭神:己等乃麻知比売命、八幡三神)
・論社②:一之宮事任神社(御祭神:己等乃麻知媛命)
・論社③:遠江一宮・小国神社(旧・許当麻知神社、事任神社)
・論社④:三河一宮・砥鹿神社(旧・己等乃麻知神社)
阿波々(あはゝ)神
・阿波々(あわわ)神(御祭神:阿波比賣命(天津羽羽神))
利(とし)神
・利神社(御祭神:大年命)

お城巡りの間に、神社巡りというのはいかがでしょうか?
お城=死者の魂が集う心霊スポットであり、観光目的で訪れてはならない。
神社やお寺=神聖な場所であり、観光目的で訪れてはならない。
とも言われますが・・・私も、某戦国武将のお墓の写真を撮っていたら、ご住職らしき人が出てきて近づいてきたので、「チャンス!」と思い、お話を伺おうとしたら、「お墓の写真は撮るものではない」と叱られたことがあります。
とはいえ、氏子さんや檀家さん以上に、御城印収集マニアや御朱印収集マニアが押し寄せているのが現状でしょう。

 佐野郡(静岡県掛川市)の龍頭山には観光地として有名な掛川城があります。この龍頭山は、元は眞草山といい、式内・眞草神社があったのですが、城の守護神として、鬼門に当たる龍尾山に遷して「龍尾神社」とし、山名を龍頭山に変えて、掛川城を築いたとのことです。

 式内・眞草神社の論社に「雨桜神社 六所神社」があります。古来は「天櫻天王」と称していたが、山内一豊が掛川城主の頃、貴人が雨乞いの為に和歌を詠み、桜に結びつけるとすぐに雨が降り始めたという故事に基づき、宝暦8年(1758年)に「雨櫻牛頭天王社」と改名し、「上の宮」と呼ばれるようになったそうです。いい改名ですね。「天櫻天王」では「てんおうてんおう」と読んでしまいそうです。「天櫻」「雨櫻」は「あめざくら」です。
 内山眞龍『遠江国風土記伝』では、「下の宮」こと「六所神社」が式内・眞草神社だとしており、『特選神名牒』や『掛川志稿』では、雨桜神社を式内・眞草神社と比定することに対しては否定的で、「馬草平」「馬ヶ谷」(静岡県袋井市宇刈)にあった眞草神社だとしています。
https://rokushojinja-2014-06-18.jimdofree.com/

「眞草(まぐさ)」は「馬草(まぐさ)」だとする一方で、「草」は「かや」とも読めるとして、「まがや(馬ヶ谷、眞萱)」だとする説もあります。
 遠江国佐野郡宇苅郷(静岡県袋井市宇刈)門田鎮座の宇刈神社は、式内・真草神社の論社ですが、御祭神は八幡大神(応神天皇)に変わっています。宇刈神社の元宮である宇苅郷(静岡県袋井市宇刈)馬草平鎮座の中村八幡宮の御祭神も八幡大神(応神天皇)に変わっていますが、本来の御祭神は草の神・鹿屋野比売(かやのひめ)神(「草祖草野姫(くさのおやかやのひめ)」「野椎神(のづちのかみ)」とも)だそうです。(郷名「宇刈」は、「鵜狩」の意だといいますが、湿地を意味する「うたり(雨垂、雨足)」では?)

1.眞草神社考(資料集)


・内山眞龍『遠江國風土記傳』(寛政元年秋):
「天櫻天王社 朱符の神田高75石。式内・眞草神社。社辺に滝水有り。今の字「雨櫻」。」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876528/253
「眞草神社 上垂木村「天櫻天王」と称す。齋神号、須佐之男命、櫛名由比賣、八俣遠呂智。祭日、6月7日より10日迄。社家曰、「上垂木、下垂木、家代、遊家4村堺、天王山(一曰「天王房」)有り、六所の社在り。天櫻天王舊社也。応永二年、上垂木村の行宮所に移す。社地に櫻木有る故に「櫻彦」と号す。又、雨を祈らば則ち雨故、今人、「天」を改め「雨櫻」と称す也」。」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876528/259

・教部省『特選神名牒』(明治9年完成、大正14年発行):「今按、注進状、上垂木村雨櫻山雨櫻神社をあてたれど、応永中、天王房と云所より移せりと云ひて、祭神、素盞嗚尊、奇稲田姫命なるも、俗に天王と云ものに同じく、天王を天櫻とも書き、又、雨を祈りしより雨櫻と書きしなりと云へど、眞草神社と云べき証ある事なし。唯、一説に、眞草神社は、今、周智郡馬ヶ谷村の内、北の山間の上方に当りて3段程の平地ありて、古より眞草平と云ひ、土人、其地の草を刈らず不浄の者を行く事を禁じ、今に地主なきは舊社地なる故ならん。里人・平四郎と云老翁(明治二年八十八歳の翁なり)の話に、「吾、わかき頃までは、眞草平に小祠ありし」と語りつる由見え、又、神社覈録にも、「今、眞萱(まかや)村に眞草様と云處あり」と云るを合せて考ふるに、是、其、舊社地なるが、社殿廃しつるにより漫りに雨櫻神社をあてたるものとみえたり。」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919019/181

『掛川志稿』:(式内社4社のうち3社は所在がはっきりとしているが、)「但眞草神社のみ其所在を失ひて、更に考る所なし。後人牽強して、垂木天王なるべしといへど、天王祠は、応永中の草創にして、式社としての証もなし。又、史に神階を授けられしことも聞えずして、何れの書にも見る所なく、又、郡中の地名の因りて起る所とおぼしき地もなし。古を去る愈(いよいよ)遠しめ愈得べからざるのみ。其名義の如きは、鹿屋野比賣と云を書紀に草野姫とあり。万葉集にかやを刈ると云歌は多くあれど、みな草の字を用ひたれば、眞草も眞加也(まかや)と訓ずべし。されば、倭名鈔の郷名にも、武蔵埼玉郡草原を加也波良(かやはら)、周防法美郡大草を於保加也(おほかや)と訓せしことあり。強ていはゞ、今、南、周智郡馬ヶ谷村と云は、眞草の若の𨕐れるものにして、馬ヶ谷は眞ヶ谷なるか。間ヶ谷なるか。借字まるべし。隣村、中村と云処には、八幡宮あり。式社なるべしと云ことは、俚俗の伝へもなけれど、宇苅谷中第一の神祠と見ゆ。此、宇苅谷、今は周智郡なれど、養老6年前は佐益郡の中なりしとみゆれば、神名帳にも佐野に混り出されしものにもやあらん。尚考ふべし。」
https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200018358/images/200018358_00049.jpg

・栗田寛『神祇志料』(明治9年):「眞草神社、今、周智郡鵜狩郷眞葦村眞草平にあり。眞草神といふ。即ち是也。(遠江風土記伝、神名帳考、眞草神社旧跡建白)」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815496/22

・式内社研究会『式内社調査報告』(昭和63年):「掛川市上垂木 雨桜神社」

宇刈神社社頭掲示板:「真草神社 延喜式内社、真草神社、鹿屋野比売神、またの御名野椎神、日本書紀巻一神代上に列せられ古事記上の巻神々の生成に成りませる野の神草の祖なり創祀は養老年中との事なり 宇苅郷馬草平に鎮座(現馬ヶ谷)諸社の元宮。
中村八幡宮 応神天皇(誉田別命)、山城国石清水八幡宮より人皇第60代醍醐天皇御代( 延喜22年10月1日)中村前通りへ勧請創祀、神田4町8反歩の祭祀料を贈らる。」

2.眞草神社祭神考


 「眞草」が『延喜式』にあるように「まくさ」なのか、『掛川志稿』にあるように「まかや」なのか。

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 「眞草」が「まかや」であり、それが神名であって「萱が自生している場所」という意の鎮座地の地名でなければ、宇刈神社やその元宮である中村八幡宮が主張するように、式内・眞草神社の御祭神は鹿屋野比売神でしょう。
 それとも、本来は牛頭天王社であり、式内・眞草神社の御祭神は、素盞鳴尊、櫛稲田姫尊、八王子命(の末子・毒蛇気神)の3柱なのか・・・まぁ、それは無いですね。延喜時代以前に遠江国に牛頭天王社があったとは考えにくい。それにしても気になるのは、八王子命(の末子・毒蛇気神)ですね。
・素盞鳴尊は、八俣大蛇(やまたのおろち)から草薙剣を取り出した神
・櫛稲田姫尊は、八俣大蛇の生贄に選ばれたが助けられた素盞鳴尊の妻
・毒蛇気神は、八俣大蛇
だというのですが、素盞鳴尊と八俣大蛇を一緒に祀る? ないでしょ!?
 牛頭天王社といえば、「西の八坂、東の津島」ですが、この両社には、蛇毒気神(だどくけのかみ)が祀られているようです。もちろん、神仏分離令によって神名は変わりましたが。

※伝・安倍晴明編『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』
・略称『簠簋内伝』『簠簋』『金烏玉兎集』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532173

 ──蛇毒鬼とは、龍宮にて七人の王子を生し給ふ時、衣那と月水を血逆ノ池へ捨て給ふ。彼れが集ひて蛇毒氣神と成り給ふ。

 祇園精舎の守り神・牛頭天王(素戔嗚尊、正体は薬師如来)と妻(婆竭龍王の娘)・頗梨采女 (はりさいじょ/はりさいにょ。櫛稲田姫命)の間には7人の王子がいた。牛頭天王が「いざや日本の地へ渡らむ」と、桑の木で船を建造し、8万4654神の眷属と共に竜宮から漕ぎ出した時、頭に紅葉を植えたように赤い毒蛇が船に近寄ってきた。
「誰だ?」
と聞くと、
「あなたの8番目の王子だ」
という。
「王子は7人しかいない」
と言うと、
「名を虵[蛇]毒気神(じゃどくけ[だどくけ、ちどくげ]のかみ)と言い、7人の出産の際に、竜宮の「血逆(ちさか)ヶ池」に沈めた「根元」(胞衣(えな)、月水(経血)など)から産まれた」
と言ってきたので、簡単なテストを行い、「我が子である」と認知した。

<牛頭天王の八王子>

①惣光[生広、相光(しょうこう)]天王
②魔王(まおう)天王
③倶魔羅(くまら)天王
④得達神(とくたつじん)[達你迦(たつに)]天王
⑤良侍(らうし)[蘭子(らんし)]天王
⑥侍神相(しんそう)天王
⑦宅相神相[神形(しんぎょう)]天王
⑧虵毒気神(三頭(さんず)天王。本地は十一面観音=瀬織津姫?)
※良侍天王の本地が河伯大水神だという。

(1)八坂神社


 八坂神社(京都市東山区祇園町。御祭神は素戔鳴尊、櫛稲田姫命、八柱御子神。斉明天皇2年(656年)に高麗より来朝した使節・伊利之(いりし)が、新羅国牛頭山の素戔鳴尊を山城国愛宕郡八坂郷に奉斎したのが創始)については、『二十二社註式』に「東ノ間、蛇毒気神。婆竭龍王の女也」とある。蛇毒気神像は、他の王子から独立して八坂神社の「東ノ間」に置かれており、8番目の王子ではなく、頗梨采女 (櫛稲田姫命)だというのである。『牛頭天王縁起』や『感神院縁起』には、「誕生八人王子、七男一女也」とある。牛頭天王の娘が1人交じっているというのである。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980652/325
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980652/328
 『本朝世紀』や『扶桑略記』によれば、延久2年(1020年)の火災で八坂神社が焼失した際、他のご神像の造立はあっさりと決定したが、牛頭天王の眷属8万4654神の中の「大悪神」とされる蛇毒気神のご神像の造立に関しては占い、さらに陰陽師の意見を聞いてようやく決定するも、蛇毒気神のご神像の造立にあたっては、先だって僧10人が「転読大般若」(『大般若経』を7日間に渡り転読すること)が行われたという。

※感神院→祇園社(牛頭天王社)→八坂神社
・感神院時代の御祭神
 ・中の座:牛頭天王
 ・東の座:八王子(牛頭天王の御子神8座。一説に末子・蛇毒気神)
 ・西の座:婆梨采女(婆竭羅龍王の3女で、牛頭天王の正妃)
・祇園社(牛頭天王社)時代の御祭神
 ・中の座:牛頭天王
 ・東の座:婆竭羅龍王
 ・西の座:頗梨采女(婆梨采女)
・現在の(神仏分離後の)八坂神社の御祭神
 ・中御座:素戔嗚尊
 ・東御座:櫛稲田姫命
  御同座:神大市比売命、佐美良比売命
 ・西御座:八柱御子神(五男三女神)
       八島篠見神
       五十猛神
       大屋比売神
       抓津比売神
       大年神
       宇迦之御魂神
       大屋毘古神
       須勢理毘売命
  傍御座:稲田宮主須賀之八耳神

 『二十二社註式』や『本朝世紀』には蛇毒気神の話が出てくるが、現在は祀られていないようである。(西御座の八柱御子神の内の須勢理毘売命(素戔嗚尊の末子で大国主命妃。古代は末子相続制であったので、大国主命は、素戔嗚尊の全財産を相続した)が蛇毒気神か?)
http://www.yasaka-jinja.or.jp/

(2)津島神社


 津島神社の創始については、諸説あるが、『牛頭天王島渡り祭文』(津島神社所蔵)によれば、牛頭天王は日本に来て、伊勢国箱先の浦に八王子を残して尾張国鹿津摩(かづま)庄津島へ行き、天竺へ風に乗って行くと、蘇民将来に会い、釈迦の死を確認して日本に戻ったという。

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 津島神社の謎は、
・式内社ではないこと。
・境内社・熱田社の御祭神が天照大神ではなく倭建命であること。
そして、「境内に建速須佐之男命を祀る神社が6社あること」です。これはもう、春日神を祀る奈良神社にさらに春日神を祀って奈良春日神社と称するより凄いことです。で、その1社の「荒御魂社」の案内板に「由緒 元は蛇毒神社と称し八岐大蛇の御霊を祀っていたと伝えられる」とありました。

 ──蛇毒気神、疑ふらくは、是、八岐大蛇の化現か。(一条兼良『日本書紀纂疏』)

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【余談】 富部(とべ、戸部)神社(愛知県名古屋市南区呼続)は、江戸時代には「蛇毒神天王」「蛇毒神社」などと呼ばれていました。徳川家康の四男で尾張清洲藩主の松平忠吉は、蛇毒気神に病気平癒の祈願し、回復したので、社殿を立派に改修し、神宮寺・天福寺まで創建したそうですが、翌年に亡くなりました。(北隣の長楽寺では、「慶長8年(1603年)清洲城主松平忠吉が、当時境内にあった素盞鳴尊を祀る祠に病の平癒を祈願し回復した事から、慶長11年にこの祠を東に移して富部神社とするとともに、書院、客殿等の諸堂を建てたとも伝わる」としています。)
 境内社に八王子社居森社合殿、富部龍王社があります。
https://www.tobe-shrine.org/
http://www.chourakuji.org/index.html



3.結論


 ──式内・眞草神社の論社5社の内、どこが式内・眞草神社なのか?

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 多数決を行えば、「雨櫻神社 六所神社」でしょうけど、証拠がない。
 「今、中村八幡宮がある場所に眞草神社があった」という古老の話も聞き捨てならない。学問は、愈究而愈遠(いよいよきわめていよいよとおし)である。調べれば調べるほど分からなくなる。
 論社5社の内、唯一証拠があるのが龍尾神社です。「眞草」と書かれた扁額が本殿にあるのです。(拝殿の扁額は「龍尾山」です。)
https://www.facebook.com/%E9%BE%8D%E5%B0%BE%E7%A5%9E%E7%A4%BE-775001949219824/

 そういえば、最近、熊本城の石垣が龍の形をしていると話題になっていますが、どうなのでしょう? 龍尾神社の注連縄は龍に見えますが。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1faaa423d13dfe50fc96e3b8e7c97ac88256cdc0

 ──お城巡りの間に、神社巡りというのはいかがでしょうか?

私がお城や寺社へ行くのは「学び」のためです。
行く前には、失礼のないよう、少なくともお城なら城主、神社なら御祭神、お寺なら宗派について調べてから行くようにしています。

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