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ヤマトタケルは3人いた!

 愛知県岡崎市でのヤマトタケルの足跡を探ると(拙稿「ヤマトタケル in 岡崎」参照)、
①矢作川に達すると、「対岸(左岸)に賊がいる」と言われた。
②右岸(現・岡崎白鳥神社の地)に逗留し、弓矢を作らせた。
③弓矢で賊を倒し、左岸の甲山(現・甲山寺)に宿泊した。
④二村山(西三河と東三河の境)で祈ると霊泉「賀勝水」が湧き出た。
⑤東三河(宝飯郡)に入り、宮道郷の神社で・・・。
と順調とは言えないでも、着実に東へ進んでいる。

【参考記事】「ヤマトタケル in 岡崎」
https://note.com/sz2020/n/n5a33c1d5d8fa

しかし、

 ──北行説と南行説がある。

 「北行説」とは、「ヤマトタケルは岡崎から北へ向かった」(山間部を行軍して遠江国へ向かった)とする説で、「南行説」とは、「ヤマトタケルは岡崎から南へ向かった」(海岸部を行軍して遠江国へ向かった)とする説である。

1.北行説


 「北行説」では、「ヤマトタケルは岡崎から矢作川を水源地まで遡った」とする。

 ──なぜか?

 上記「ヤマトタケルの東征」①~⑤には、問題がある。それは、「敵を討った1万本の弓矢をどう調達したか?」ということである。作るのは、皇軍に同行している矢作部(弓矢を作る職人集団)がするとして、
・部品の矢竹はどう調達したか?
・部品の鏃(矢じり)はどう調達したか?
という問題がある。矢竹については、「矢作川の蜆貝の精が、中洲の矢竹を刈って持ってきた」とされるが、学者は「ヤマトタケルの東征」を否定しつつも、「矢作には、矢作部が住んでいて、作り置きの弓矢が矢倉にあった」と言う。「北行説」では、「ヤマトタケルは岡崎から矢作川を水源地まで遡り、山の湊・九久平で蜂ヶ峯からの矢竹の提供を受け、水源地の巴山では、矢作川、男川(乙川、菅生川)、豊川が巴状に流れ出すのを見て国名を『三河』と名付け(白髭神社の伝承)、山麓の作手で鏃を作らせた」とする。

蜂ヶ峯:現在の六所山。三河国一宮・砥鹿神社がある本宮山、三河国三宮・猿投神社がある猿投山と共に「三河三霊山」の1つ。ちなみに、三河国二宮・知立神社は、ヤマトタケルが建てた神社である。

巴山:「三河」の国名の由来という矢作川、男川、豊川の分水嶺である。山麓の作手には神社が22社あるが、そのうちの11社が白鳥神社である。鏃の制作工房が神社に転用されたという。戦国時代、「作手田原の矢の根」は、(黒曜石製ではなく鉄製だが)贈答用にも使われる高級品であった。(「田原の矢の根」は、本多忠勝の「蜻蛉切」(「日本三名槍」)を製作した愛知県田原市の刀工(三河文殊派)の製作ともいう。作手には、「田原」「赤羽根」等、田原市の地名があり、交流はあったと思われる。)

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★白髭神社の神体石(巴山)

2.南行説


「南行説」の足跡(愛知県額田郡幸田町)は、
・京ヶ峯:登って京(大和国の都)を遠望した。三村神社の奥宮がある。
・三村神社(坂崎大明神):京ヶ峯の南麓。子・足鏡別王が祭祀。
・蘇美天神社:東征で戦功をあげた建蘇美はこの蘇美郷を与えられた。
である。(建蘇美は建稲種の子で、蘇美郷は、現在の須美。)

京ヶ峯:岡崎城がある「竜頭山」の南の山を「京ヶ峰」という。遠江国の国府所在地・磐田市にあるのは「京見塚」である。ここ(「京ヶ峯(龍頭山)」)に登って京を偲んだのは、ヤマトタケルの子であり、鎌倉別・小津石代之別・漁田之別の祖である『古事記』の足鏡別王(『日本書紀』の蘆髪蒲見別王/葦噉竈見別王(あしかみのかまみわけのみこ)。母は、弟橘姫ではなく、山代之玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ))であり、ヤマトタケルだとするのは誤伝のようである。ヤマトタケルは、京ヶ峯で、
  愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立来も
  倭は 国のまほらま 畳づく 青垣山籠れる 倭し麗し
と望郷の詩(思邦歌)を詠んだと言うが、この歌は日向国で景行天皇がまず詠み、ついでヤマトタケルが歌った歌で、鏡別王がここ京ヶ峯で大和国を遠望し、父や祖父を思って歌ったのであろう。
 また、京ヶ峯から大和国を遠望すれば、その間にある伊勢神宮を遥拝することにもなり、一石二鳥である。

坂崎:「大池」と呼ばれた巨大な池(現在は消失)の岬(湊町)の1つ。坂崎と言えば、天野氏(三村神社)や平岩氏(酒人神社)の名があがるが、後に大久保彦左衛門が入った。

三村神社由緒書
 御祀神 日本武尊 八剣命 豊受姫神 舎人親王 4柱
 起源は古く、日本武尊は東征の際にこの地に立ち寄り、山水の美を賞し暫らく滞留された。その御子鏡別王この地に住む(小津別の祖)。王は父日本武尊を追慕し、京ヶ峯の山頂に祀る。これ当社の創立なり。今に坂崎の大宮といういう。近くに皇子ヶ入、皇子田、神宮司の地名あり。「慶長検地水帳」(1596-614)に「坂崎明神社地を除く」とあり、明暦2年(1656)社殿を造営し、元禄10年(1697)6月には石鳥居を建立す。宝暦年間(1571-63)大久保彦左ェ門の6代孫忠恒、熱田神宮、八劔宮の旧殿を受け本社本殿と為し、奉納額に三社大明神として奉掲する。明治3年11月、氏子3ヶ村あるので三村神社と改め、同5年10月12日に村社に列し、40年10月26日に供進指定を受けた。昭和18年10月に手水舎を建立、55年4月には社務所を改築、覆殿を改造して幄舎を新築した。

『三河国額田郡神社誌』
 当社は創立の起源は最も古く、当所、京ヶ峯山内は其の故地なりという。以来、千数百年の星霜を重ね幾多の変遷を経て、今日に及びたる古社なり。今直に文献証左を掲げて明示するを得され共、土地古くより開け、矢作川の流域沿岸にして東南北の三方は山脈を以て囲み、西は遠く海を距て伊勢に面す。「和名抄」に所載される額田八郷の内、麻津郷の中心はこのあたりなりと云う。古来、坂崎は八崎など突出する岬(津)多く、常に船泊の往来が繁く文化は大いに発達し、上古より土器の産出が盛んであったかの如く、これが遺蹟(炉蹟)遺物(土器)各所に現存す。中でも弥生式土器が多く、製法また巧妙なる物多し。
 人皇代12代・景行天皇の御宇、皇子・日本武尊、東夷御征伐の時に当地を過ぎ給うや、山水優美の地なりとて暫く玉歩を留めさせその風景を鑑賞し給えり、と伝う。その後、尊の御子・鏡別王がこの地に住し給う。これ、小津別の祖なり(小津、即ち、麻津なり)。斯くて王は御父尊を追慕し給い、京ヶ峯(経ヶ峯その伝えと書す。これ清浄なる地を示したる名称なり)の山上に祀り給えりという。磐境の形蹟存す、これ当社創立の起源にして、後山礎神、戸ヶ崎の森中に社地を設け、社殿を建て祭祀怠らざりき。これ当社の創めなるべし。社地宏大にして荘厳に神宮寺の建立さへありし大社なり。今の世に坂崎の大宮と称す。附近に皇子ヶ入、皇子田、神戸、神戸ヶ崎、神宮司などの地名存す。
 当所、坂崎地内青塚に古墳あり、当社の祭神に関係深しと口碑に伝う。昭和4年12月、発掘調査研究の結果、築造年代は應神天皇の御代にして貴族を埋葬せし墳丘なるべしという。私に按ずるに当社祭神の中の1柱鏡別王、或は漏れさせ給えるか。中古、坂崎大明神と称し地方一帯の鎮守産土神と尊崇篤く、慶長検地水帳に「坂崎明神社地を除く」と在り、この頃に今の本殿を再建せり。伝えにいう、慶長年間に熱田八劔宮の御改造あり、当時の地頭・大久保彦左ェ門忠敬普請奉行を承り、旧社殿を請い受け當社に寄進造営せりと、爾来、領主の交代続々なりしが、何れも先格に任せ社地を余地となりせり。明暦2年、拝殿を造営し、元禄10年6月、石鳥居を建立す。額掛けに大明神の称号を彫す。この頃より社号を三社大明神、又は三所大明神を号せり。宝暦年間、彦左ェ門の六代孫大久保忠恒の自書奉納の額に、三所大明神とあり。又、年代不詳なれど古き横額に三社大明神とあり。明治3年11月、氏子、三ヶ村(坂崎・長峯・久保田)に渉るを以て三村神社と改め、同5年10月12日、村社に列し、同6年、検地境内判別3反6畝25歩、官有地に編入、参道並木は坂崎の共有地となれり。当時坂崎、長峯、久保田、3村の交入地の名目を以て取り扱はれしが、3村、抽籤を以て久保田村に属し、更に9年に長峯村に編入せり。明治36年6月、社務所・物置を新築し、同40年10月26日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

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 「南行説」は、「ヤマトタケルの東征」後に幸田町に住んだヤマトタケルの子・足鏡別王の足跡のようである。また、景行天皇は、「ヤマトタケルの東征」の足跡を旅しているので、景行天皇の事跡をヤマトタケルの事跡とする地もあろう。(たとえば、「倭し麗し」は景行天皇の歌か、ヤマトタケルの歌か、はたまた足鏡別王の歌か。)


 ──で、北行したのはどなた?

3.「第三のヤマトタケル」の正体

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