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ヤマトタケル in 岡崎

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三河国にはヤマトタケル伝説がある。
「三河」という国名は、ヤマトタケルが名付けたとする伝承すらある。

とはいえ、ヤマトタケルは、尾張国と三河国の国境の鳴海潟から、尾張水軍の軍船に乗って、遠江国と駿河国の国境の焼津(大井川河口)、もしくは、駿河国の国府所在地である沼津(浮島原)まで海路を選んだとされ、三河国は海上を通過している。帰路は陸路であったが、東海道ではなく、東山道を使ったので、三河国を通過してはいない。

 ──では、なぜ三河国にヤマトタケル伝説があるのか?

正解は、
「海のヤマトタケル以外に、陸のヤマトタケル(吉備武彦)がいたから」
であろうが、神社考古学者の小椋一葉氏は、「ヤマトタケルは、東征後、尾張国愛知郡大高郷で暮らした。この時、尾張国内や、三河国内で紛争が起こると、軍勢を率いて鎮圧した。その伝承であろう」とするが、遠江国にもヤマトタケル伝説があることから、この説は厳しいと思われる。

さて、この記事では、西三河の東端・愛知県岡崎市のヤマトタケル伝説を紹介する。(岡崎市の東隣の豊川市は東三河である。)

1.矢作川&芳樹山の矢竹と菅生神社(吹矢大明神)

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