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利修仙人伝

1.利修仙人の略伝


・鳳来寺岩本坊長乳『鳳来寺興記』(1648年)
https://note.com/sz2020/n/nc61dfa266dbf

一、利修仙人事
 利修、山城国端正郡二葉里、高賀茂老翁間賀介都岐麻呂云人子也。婦人瑞夢金人来口入見懐胎。欽明天皇御宇、金光元庚寅年四月七日午刻出胎。名利修童子〃〃。長大後忽然此処来千寿峯住。有時夢中五台山長秋仙人来示仙術長生法。授千箪報云云。故名千寿峰(本堂より未申の方に当て峯を隔てて有り)又、万寿坂移住事あり。長秋、又、万歳齢示云云。是号万寿坂。本堂より正南に当て峯を隔てて有り。

2.利修仙人伝


・?

3.その他


・鳳来寺松高院善慧尋得『掃塵夜話』(1763年)
https://note.com/sz2020/n/na64b01de6419

4.創作


・謡曲『煙巌山』(薬師、鳳来寺、利修、利修仙人とも)

ワキ次第 豊かに照らす日のもとのもとの、関の東に急がむ。仰(そもそも)是は文武天皇に仕へ奉る藤原公宣(ふじわらのきんのぶ)とは、わが事なり。偖もわが君、御悩、数日に及び候間、諸公僉議あって、博士を召して占はせられへば、博士、占かたを開き、申すやう、是より東(ひんがし)に当って煙巌山といふ山あり。彼の山に理趣仙人と云ふ者あり。かれ参内申すならば、御悩、御平癒と申し聞く。此の儀について、急ぎ仙人を召さるべきとの勅定お蒙り、ただ今、三河の国、煙巌山へと急ぎ候。
道行 春の色は東より、東より来るといふに朝霞。引き替われは東路に。行衛の空も遥々と思ひ渡して八橋を、今ぞ初めて三川なる煙巌山に着きにけり、着きにけり。
 いそぎ候間。三川国煙巌山に着きて候。まづまづ仙人の有家を尋ねばやと存じ候。偖もわれ、此の山に分け入り、四方の気色を見れば、緑樹の重陰四鄰におよび、青苔日々に厚してをのづからちりなし。又、是なる草庵は、まこと、仙人の栖なるべし。勅定の旨を申し聞かせばやと存じ候。
サシシテ 昨非今是ともに忘却。ただ松風を聞く十二時。岩根気をすぎて、軒によって宿し、こうう泉をそへて舎をめくってなかる。あらおもしろの山居かな。
ワキ いかに此の内に理趣仙人のましますか。文武天皇の勅使・公宣、是までまいりたり。
シテ 思ひよらずや。勅使とは。いかがなる事にあるやらむ。
ワキ 偖も、帝、御悩しきりにまします間、大法修せられるとも、そのしるし〔験〕なく候処に、博士、占かた開き申す様、かの仙人まいり、御修法あらば、則ち御平愈と申すに仍て是迄勅使をなさるヽ也。
シテ 我、王土に住と云ひながら、かつらの露をのみ、松の葉を食し、ただくうじゃくとして有りながら、王命にも何がしたがふべき。はやばや、かへり給へとよ。
ワキ いやとよ仙人心得がたし。王土に住まば王命を、いかでかそむき申すべき。
シテ あら難しの云い事やと、杖上に結跏趺座(けっかふざ)をなす。
ワキ いやいや、杖をたつる所も王土にあらすといふこと有まし。とかくの問答、無益なり。
シテ 本より我は仙法の、通力も世に越えて、飛行自在を得る上は、今は虚空に住べし。
ワキ あら、おろかなる云い事や。月日の光さすところ、いづくも王土にあらすやと、理りせめて夕ぐれの、柴の扉を押し開き、勅命に応ずる人の心ぞ嬉しき。(略)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1363391

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