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『日本霊異記』「狐女房」

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1.「狐為妻令生子緣」


『日本国現報善悪霊異記』(上巻 第二)「狐為妻令生子緣」

 昔、欽明天皇(是磯城嶋金刺宮食國天國押開廣庭命也)御世、三乃國大乃郡人、應為妻覓好孃乘路而行。時曠野中、遇於姝女。其女、媚壯、馴之壯睇之。言「何行稚孃」。孃答「將覓能緣而行女也」。壯亦語言「成我妻耶」。女「聽」答言、即將於家、交通相住。
 此頃懷任、生一男子。時其家犬、十二月十五日生子。彼犬之子、每向家室而、期剋睚眥嘷吠。家室脅惶、告家長言「此犬打殺」。雖然患告、而猶不殺。
 於二月、三月之頃、設年米舂時、其家室、於稻舂女等將充間食入於碓屋。即彼犬將咋家室而追吠。即驚澡恐、成野干(野干者、狼也)登籠上而居。家長見、言「汝與我之中子相生、故吾不忘汝。每來相寐」。故誦夫語而來寐。故名為「岐都禰」也。
 時彼妻著紅襴染裳(今之桃花裳也)而窈窕裳襴引逝也。夫視去容、戀歌曰
  古比波未奈 我加宇弊邇於知奴 多万可支流 
          波呂可邇美江天 伊爾師古由惠邇
 故其令相生子名、號「岐都禰」。亦、其子姓負「狐直」也。是人、強力多有、走疾如鳥飛矣。三乃國「狐直」等根本是也。

「狐を妻として子を生ましめし縁(はなし)」

 昔、欽明天皇(是は磯城嶋(しきしま)の金刺(かなざし)の宮に国食(を)しし、天国押開広庭命(あめくにおしひらきひろにはのみこと)也)の御世(みよ)に、三乃(みの)の国、大野の郡(こほり)の人、妻(め)とすべき好(よ)き嬢(をみな)を覓(もと)めて路を乗りて行く。時に曠野(ひろの)の中にしてうるわしき女(をみな)遇(あ)へり。其の女、壮(をとこ)に媚(こ)び馴(なつ)き、壮、睇(めかりう)つ。言はく「何(いづく)に行く稚嬢(をみな)ぞ」といふ。嬢、答ふらく「能(よ)き縁(えに)を覓め将(む)として行く女なり」といふ。壮もまた語りて言はく「我が妻と成らむや」といふ。女、「聴(ゆる)さむ」と答へ言ひて、即ち、家に将(ゐ)て交通(とつ)ぎ相住む。
 此の頃、懐任(はら)みて一(ひとり)の男子を生む。時に其の家の犬、十二月十五日に子を生む。彼(そ)の犬の子、毎(つね)に家室(いへのとじ)に向かひて、期尅(いのご)ひ、睚(にら)み、眥(はにか)み、ほゆ。家室、脅え惶(おそ)りて、家長(いへぎみ)に告げて言はく「此の犬を打ち殺せ」といふ。然れ雖(しかれども)患(うれ)へ告げて猶(なほ)殺さず。
 二月、三月の頃に、設けし年米を舂(つ)く時、其の家室、稲舂女等(いなつきめら)に間食を充(あ)て将(む)として碓屋(からうすや)に入る。即ち彼の犬の子、家室を咋(く)は将(む)として追ひて吠ゆ。即ち驚きおぢ恐り、野干(野干(やかん)は狼也)と成りて籬(まがき)の上に登りて居り。家長見て言はく「汝と我との中に子を相生めるが故に、吾は汝を忘れじ。毎(つね)に来(きた)りて相寐(ね)よ」といふ。故(かれ)、夫の語に随ひて来り寐き。故、名づけて岐都禰(きつね)と成す。
 時に彼の妻、紅の襴染(すそぞめ)の裳(も)(今の桃花(つき)の裳也)を著(き)て窈窕(さ)び、裳襴(もすそ)を引きて逝く。夫、去(い)にし容(かほ)を視、恋ひて歌に曰ふ、
  戀は皆 我が上に落ちぬ 玉かぎる
        遙(はろ)かに見えて 去(い)にし子故に
 故、其の相生ま令(し)めし子の名を「岐都禰(きつね)」と号(なづ)く。亦(また)、其の子の姓(かばね)を「狐直(きつねのあたへ)」と負ほす。其の人強き力、多(あまた)有り、走ること疾(はや)くして、鳥の飛ぶが如し。三乃の国の狐直等が根本(もと)、是れなり。

「狐女房 -狐を妻として子を産ませた話-」

 昔、欽明天皇(この天皇は磯城島金刺宮で天下を治められた、天国押開広庭命である)の御世に、美濃(三乃、三野)国大野郡(現在の岐阜県本巣市周辺)の人が、妻とするに相応しい良い女性を捜して道を馬に乗って進んでいた。その時、広い野原の中で美しい女性に出会った。その女性は男に媚び、馴れ馴れしかったので、男は流し目で見て、「どちらへ行くお嬢さんかな?」と言った。お嬢さんが答えるには、「いい縁を求めて歩いているのです」と言った。男もこれに答え、「私の妻になりませんか」と言った。女が「いいですよ」と言ったので、家に連れて帰り、結婚し、同居した。
 この頃、妊娠して、一人の男の子を産んだ。その時、その家の犬が、12月15日に子を産んだ。その犬の子が、常に家刀自(妻、主婦)に向かって敵意を表し、睨み、吠えた。家刀自は怯え、恐れて、家君(夫、主人)に、「この犬を殺せ」と言った。しかし、家君は、犬がかわいそうで殺せなかった。
 それから2~3ヶ月たった頃、蓄えてあった米を精米する時、その家刀自は、米を搗(つ)く女たち(精米のために特別に雇った女性たち)に間食(おやつ)を与えようと唐臼小屋に入った。すると件の犬の子が家刀自にかみつこうと、追い立てて吠えた。それで驚き、恐れた家刀自は、野干(やかん。狼のこと)となって垣根の上に登っていた。家君は見て、「お前と私は子供を作った間柄であるので、私はおまえを忘れない。毎晩来て、一緒に寝てくれ」と言った。そのため、夫の言葉に従い、来て寝た。それで(野干のことを)「来つ寝(きつね)」と言うようになった。
 ある時、例の妻は、紅染の裳(スカート状の衣服。今の桃花の裳)を着て、とても上品に、裾を引きながら去って行った。夫は、去った妻の顔を思い出し、恋しくて歌を詠んだ。
 〽この世の全ての恋が、我が身の上に落ちてきたようだ。(私の体は恋で溢れている。)それは、(珠が輝く短い時間程度の)わずかな逢瀬をしただけで、あなたが遠くへ行ってしまったからだ。(恋しくてたまらない。)(注:「玉かぎる」は、「玉が仄(ほの)かに輝く」意で、「はろか」等にかかる枕詞。)
 故に、その生まれた子の名を「岐都禰(きつね)」と名付けた。また、その子の姓を「狐直」と付けた。この子は大変な力持ちで、走るのも速くて、鳥が飛ぶようであった。美濃国の「狐直」等の始祖が彼である。

※唐臼(踏み臼):美濃加茂市民ミュージアム
http://www.forest.minokamo.gifu.jp/data_box/dougu/4_07.html

※「キツネ」の語源:「中国人にとっての狐、日本人にとっての狐」
https://note.com/sz2020/n/n65d720832d26

2.狐の始祖信仰


 キツネには霊力が有り、人の妻となって強力な霊力を持つ一族を生んだという「狐の始祖信仰」(たとえば、陰陽師・安倍晴明が強い霊力を持っているのは、母が狐だからという)は、中国からの渡来人が、日本に持ち込んだ信仰形態だという。

「私は狐の子孫である」

 今、こんな事を言ったら、狂人だと思われるが、当時は「霊力を持った凄い人」だと受け止められたという。

3.「力女捔力試緣」


 景戒著『日本国現報善悪霊異記』(通称『日本霊異記』)「狐為妻令生子緣」には、後日譚「力女捔力試緣」がある。
 キツネには霊力があるとは言え、「力女捔力試緣」(力女(りきにょ)、捔力(すまひ、ちからくらべ)し、試しみる緣(はなし))では、この狐直の4世孫(曾孫)「三野狐(美濃狐)」という百人力の大柄な力女(美濃国方県郡小川里、現在の岐阜県本巣市在住)は、「捔力(ちからくらべ。すまひ、角力、相撲)」で、道場法師の孫の小柄な力女(尾張国愛知郡片輪里、現在の愛知県名古屋市中区古渡町在住)に負けている。ダーキニー(裸体で髑髏(どくろ)などを持つ女神。オウム真理教では、教祖・麻原彰晃の愛人たちの別称)が大日如来(毘盧遮那仏)の化身である大黒天に調伏され、改心して荼枳尼天(稲荷神)となったように、狐の子孫も高僧の子孫には勝てないようである。仏教説話では、三宝(仏、法、僧)が最強なのである。
 三野狐は「弱いから負けた」のであるが、小川市場で商品を盗む「悪人だから負けた」とも言え、「捔力」で負けてからは、ダーキニーのように改心して、物を盗まなくなったのである。仏教の勝利である。

※道場(どうじょう)法師:尾張国愛知郡片輪里出身の高僧。敏達天皇の御世、父親が落ちてきた雷の命を助けた結果、強力の子として生まれたという。奈良の元興寺(飛鳥寺)の童子となり、鐘楼堂に住む人食い鬼(がごぜ)を退治した。(この鬼の髪の毛が元興寺に伝わっている。)後に奈良から出身地の尾張国片輪里に戻って暮らした。道場法師の子孫は、なぜか女だけが怪力で、男は怪力ではない。

『日本国現報善悪霊異記』(中巻 第四)「力女捔力試緣」

 聖武天皇御世、三野國片縣郡少川市、有一力女。為人大也。名為「三野狐」(是昔三野國狐為母生人之四繼孫也)。力強、當百人力。住小川市内、恃己力、凌弊於往還商人、而取其物為業。時、尾張國愛智郡片輪里、有一力女。為人少也。(是昔有元興寺道場法師之孫也。)其聞、三野狐凌弊於人物而取、念試之、蛤捕五十斛、載船、泊彼市也。亦儲備、副納熊葛練韃廿段。時、狐來、彼蛤皆取令賣。然問之言「自何來女」。蛤主不答。亦問。不答。重四遍問。乃答之言「來方不知」。狐念無禮、打起、依即二手持捉、葛韃以一遍打。打韃著肉。亦取一韃一遍打。打韃著肉。十段韃、隨打皆著肉。狐白之言「服也(ふくすなり)。犯也(おかせしなり)。惶也(をそるるなり)」。於是知益於狐之力也。蛤主女言「自今已後、在此市不得。若強住者、終打殺也」。狐所打戢。不住其市、不奪人物。彼市人、總皆悅安穩。夫力人、持繼世不絕。誠知、先世殖大力因、今得此力矣。

『今昔物語』(巻23-17話)「尾張国女伏美濃狐語」

 今は昔、聖武天皇の御代に、美濃の国の方県の郡小川の市に、極て力強き女有けり。其の形ち甚だ大き也。名をば美濃狐とぞ云ける。此れは昔、彼の国に狐を妻としたる人有けり。其れが四継の孫也けり。其の女、力の強き人の力、百人に当りけり。然る間、此の女、彼の小川の市の内に住みて、自ら力を憑て、往還の商人を掕躒して、其の物を奪ひ取て、以て業としけり。
 亦、其の時に、尾張国愛智の郡片輪の郷に、力強き女有りけり。其の形小かりけり。此れは昔、其の国に有ける道場法師と云ける者は元興寺の僧也。其れが孫也。
 其の女、彼の美濃狐が小川の市にして、人を掕躒して商人の物を奪取る由を聞て、「試む」と思て、蛤五十石、船に積みて、彼の市に泊まる。亦、儲け調へて、船に副納めける物は、熊葛(くまつづら)の練韃(ねりむち)廿段也。既に市に至けるに、美濃狐有て、彼の蛤皆抑取て売らしめず。然て美濃狐、尾張の女に云く、「汝、何くより来れる女ぞ」と。尾張の女、答ふる事無し。美濃狐、亦重て問ふに答へず。遂に四度問ふに、尾張の女答て云く、「我れ来る方を知らず」と。美濃狐、此の言を「便無し」と思て、尾張の女を罸(うた)むとして立ち寄るに、尾張の女、美濃狐が罸むと為る其の二の手を持捕へて、此の熊葛の韃を一つ以て返々す罸つに、其の韃に肉(しし)付たり。亦、韃一つを取て罸つに、韃に肉付たり。十段の韃を罸つに随て、皆肉付たり。其の時に美濃狐申さく、「理也。我れ大きに犯せり。怖るる所也」と。尾張の女の云く、「汝ぢ此より後に、永く此の市に住て、人を悩ます事を止めよ。若し用ゐずして尚住まば、我れ遂に来て、汝を罸殺べし」と云て、本国に返にけり。
 其の後、美濃狐、其の市に行かずして、人の物を奪取らず。然れば、市人皆、喜びなして平かに交易して、世を継て絶えず、亦、「尾張の女、美濃狐に力増(まさ)れる事を、皆人、知にけり」となむ語り伝へたるとや。

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