見出し画像

松尾芭蕉

『奥の細道』は大好きです!

夏に古城址、古戦場へ行き、青々とした草を見かけると、

 夏草や兵どもが夢の跡

と、ついつい口遊んでしまいますよね?

画像1


小松と云所にて
  しほらしき名や小松吹萩すゝき
此所太田(ただ)の神社に詣。真盛が甲(かぶと)、錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇(まひさき)より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁記にみえたり。
  むざんやな甲の下のきりぎりす

【現代語訳】ここ(小松市)の多太神社(石川県小松市上本折町)に詣でた。斎藤実盛の兜や、錦の直垂の切れ端があった。その昔、斎藤実盛がまだ源氏に属していた時、主君・源義朝公から賜った物だとか。なるほど、平侍(並の武士)の物ではない。目庇から吹返しまで菊や唐草模様の彫刻に金を散りばめ、竜頭には鍬形が打ってある。斎藤実盛討死の後、木曽義仲が願状を添えて、この多太神社に斎藤実盛の兜を奉納したという事の次第や、樋口次郎兼光がその使者として来た事などが、まるで目の当たりに見るように縁起に書かれている。
 むざんやな甲の下のきりぎりす
(首実検の時、樋口次郎が、斎藤実盛の首を見て、謡曲『実盛』によると、「あな無残やな。斎藤別当にて候ひけるぞや」(『平家物語』では、「あな無慙。長井斎藤別当にて候ひけり」)と言ったという。恩人を恩人とは知らずに討つことは、戦国の世とは言え、実に痛ましい事である。その斎藤実盛の兜の下には、斎藤実盛の首ではなく、キリギリス(現在のコウロギ)が、鳴きながら顔を出していた。)
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kougeihin/10.html
http://www.komatsuguide.jp/index.php/spot/detail/83/1/2/

 「夏草や兵どもが夢の跡」は、全国どこの古城址にも、古戦場にも当てはまる句だと思いますが、「むざんやな甲の下のきりぎりす」(初稿は、台詞通りに「あなむざんやな甲の下のきりぎりす」。字余りなので、「あな」を切るか、「やな」を切るか)は、多太神社の斎藤実盛の兜の話や謡曲『実盛』を、次の山中温泉での「山中や菊はたをらぬ湯の匂」は、菊水の話や謡曲『菊慈童』を知っていないと理解できないし、この地で味合わないとダメな句に思われます。そもそも、この「むざんやな甲の下のきりぎりす」が、どこにでも当てはる句であれば、「かわいそうに、兜を置いた時に下敷きになったコオロギが死んでいる」と訳しちゃいそうです。
 それにしても、この斎藤実盛の兜、どういう展示方法をしているのでしょう? コオロギが侵入するって・・・「ずさんやな甲の下にきりぎりす」。

 斎藤実盛は、武蔵国幡羅郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠地とし、「長井別当」(長井斎藤別当実盛)と呼ばれていました。その武蔵国は、相模国を本拠地とする源義朝と、上野国に進出してきた弟・源義賢に挟まれています。斎藤実盛は、最初は源義朝に従っていましたが、寝返って源義賢に従うと、源義朝の子・源義平は、源義賢を討ち取りました(大蔵合戦)。こうして斎藤実盛は、再び源義朝に仕えるのですが、源義賢への旧恩も忘れておらず、源義賢の遺児・駒王丸(後の木曾義仲)を預かり、駒王丸の乳母を妻とする信濃国の中原兼遠のもとに送り届けました。
 源義朝の死後、斎藤実盛(東国武士)は、平氏に仕え、「富士川の戦い」の直前、東国武士の勇猛さを伝えたところ、平氏は恐怖心を抱いてしまい、水鳥の羽音を夜襲と勘違いして、戦わず逃げてしまいました。
 斎藤実盛は、木曾義仲追討のため北陸に出陣し、「富士川の戦い」の失態を晴らそうとして、白髪頭を黒く染め、味方が逃げる中、ただ1騎で戦い、名乗らずに手塚光盛(漫画家・手塚治虫の祖先)と戦い、討ち取られました(「篠原の戦い」)。
 木曾義仲は、首実検の時、「斎藤実盛の首だ」と言われても「斎藤実盛なら白髪頭のはずだが?」と、信じられませんでしたが、近くの池で髪を洗わせたところ、墨が落ちて白髪になり、子供の頃、命を助けてくれた大恩人の斎藤実盛だと確認すると、人目もはばからずに泣き崩れたといいます。

※『平家物語』(巻第七)「実盛最期」
 落ち行く勢の中に武蔵国の住人長井斎藤別当実盛は存する旨ありければ、赤地の錦の直垂に、萌黄威の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒を締め、金作りの太刀を帯き、二十四差いたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持つて連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗つたりけるが、御方の勢は落ち行けども、ただ一騎返し合はせ返し合はせ防ぎ戦ふ。
 木曾殿の方より手塚太郎進み出でて 、「あな優し 。いかなる人にて渡らせ給へば、御方の御勢は皆落ち行き候ふに、ただ一騎残らせ給ひたるこそ優に覚え候へ。名乗らせ給へ、名乗らせ給へ」と詞をかければ、斎藤別当聞いて 、「かう言ふ和殿は誰ぞ」。「信濃国の住人・手塚太郎金刺光盛」とこそ名乗りたれ 。斎藤別当、「さては汝が為によい敵ぞ。但し和殿下ぐるにはあらず。存ずる旨があれば名乗る事はあるまじいぞ。寄れ組まう手塚」とて馳せ並ぶる処に、手塚郎等、「主を討たせじ」と中に隔たり斎藤別当に押し並べてむずと組む。実盛、「あつぱれ。己は日本一の剛の者に組んでうずなうれ」とて、我が乗つたりける鞍の前輪に押し付けて、ちつとも働かさず、頭掻き切つて捨ててける。手塚太郎、郎等が討たるるを見て、弓手に廻り合ひ、鎧の草摺引き上げて、二刀刺し弱る処に組んで落す。斎藤別当心は、猛う進めども軍にはし疲れぬ手は負うつその上老武者ではあり手塚が下にぞなりにける。
 手塚太郎、馳せ来たる郎等に首取らせ、木曾殿の御前に参つて「光盛こそ奇異の曲者、組んで討つて参つて候へ。大将かと見候へば続く勢も候はず、侍かと見候へば錦の直垂を着て候ひつるが、『名乗れ、名乗れ』と責め候ひつれどもつひに名乗り候はず、声は坂東声にて候ひつる」と申しければ、木曾殿、「あつぱれ。これは斎藤別当にてある。ごさんなれ。それならば、義仲が上野へ越えたりし時、幼目に見しかば、白髪の霞苧なつしぞ。今は定めて白髪にこそなりぬらんに、鬢鬚の黒いこそ怪しけれ。樋口次郎、年比馴れ遊んで見知りたるらんぞ。樋口呼べ」とて召されけり。樋口次郎、ただ一目見て、「あな無慙。長井斎藤別当にて候ひけり」とて涙をはらはらと流す。木曾殿、「それならば今は七十にも余り、白髪にもならんずるに鬢鬚の黒いはいかに」と宣へば、樋口次郎、涙を押さへて、「さ候へば、こそそのやうを申し上げんと仕り候ふが、あまりに、あまりに哀れに覚えて不覚の涙のまづこぼれ候ひけるぞや。されば、弓矢取る身は、予てより、思ひ出の詞をば聊かの所にても遣ひ置くべき事にて候ふなり。実盛、常は兼光に逢うて物語りにし候ひしは、『六十に余つて軍の陣へ赴かば、鬢鬚を黒う染めて若やがうと思ふなり。その故は、若殿原に争ひて先を駆けんも大人げなし。また老武者とて人の侮らんも口惜しかるべし』と申候ひしか、まことに染めて候ひけるぞや。洗はせて御覧候へ」と申しければ、木曾殿、「さもあるらん」とて洗はせて見給へば白髪にこそなりにけれ。
 斎藤別当錦の直垂を着たりける事は、最後の御暇申すに、大臣殿の御前に参つて申しけるは、「実盛が身一つの事では候はねども、先年坂東へ罷り向かつて候ひし時、水鳥の羽音に驚いて矢一つだに射ずして駿河国の蒲原より逃げ上つて候ひし事、老いの後の恥辱、ただこの事候ふ。今度北国へ向かつては、討死仕り候ふべし。それにつきて候ひては、実盛、元は越前国の者にて候ひしが、近年御領について武蔵の長井に居住せしめ候。ひき事の譬への候ふぞかし『故郷へは錦を着せて直ぐ帰る』と申せば、あはれ錦の直垂を御免候ひかし」と申しければ、大臣殿、「優しうも申したるものかな」とて錦の直垂を御免ありけるとぞ聞えし。昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ。

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。