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「頼朝の挙兵」(『静岡のトリセツ』より)

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                   ※『静岡のトリセツ』(昭文社)

8月17日  源頼朝、伊豆国目代・山木兼隆を襲撃(兵数30)
8月23日  源頼朝、石橋山で敗北(兵数300)
8月28日    源頼朝、真鶴岬から舟で安房国へ逃亡(兵数6)
8月29日    源頼朝、安房国猟島(竜島)に着岸(兵数6)
9月4日   安西景益(安房国)が参向
9月9日   千葉常胤(上総国)が参向
9月13日 源頼朝、安房国から上総国へ侵攻(兵数300)
9月17日 源頼朝、下総国府に侵攻し、下総国目代を討つ。(兵数600)
9月19日 上総広常が20000人を率いて参陣(兵数20600)
10月2日 源頼朝、武蔵国に侵攻(兵数20600)
10月6日 源頼朝、相模国(北鎌倉)入り(兵数30000)
10月7日 源頼朝、鎌倉入り(兵数30000)

 8月23日、石橋山で大敗北した源頼朝は、6人の家臣と共に舟で安房国に渡り、約1ヶ月半後の10月7日には、3万の大軍を率いて鎌倉に入った。「1ヶ月半とは、早い」と驚かれる人が多いが、何事も無く安房国から鎌倉まで歩いていくには1週間(8月29日~9月7日)あれば良いと思う。(カーナビ検索で、竜島─鶴岡八幡宮は、浦賀水道を舟で渡れば43.1km、東京湾岸を往くと154.5km。160kmとして、時速4kmで歩けば40時間。)それを1ヶ月以上(8月29日~10月7日)かかったということは、道中、我々の想像以上に、あれこれあったのではないかと思われる。(伊豆国時代の源頼朝については、記録は残っていないが、伊豆半島には、私が知ってるだけでも100弱の伝承・伝説が残っており、流人時代の生活の様子を窺い知ることができる。この房総半島の北上についても、数多くの伝承・伝説が残されている。「多くある」ということは、「道中、あれこれあった」ということである。)

 2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の大庭景親が、斬首に際し、「振り返ってみれば、北条時政が源頼朝を匿った時、仲介せず、伊東祐親に加勢して源頼朝を殺しておくべきだった」と言っていたが、私的には、「石橋山の戦い」の時、10倍の兵数があったのに源頼朝を殺せなかったのが大きかったと思う。(「石橋山の戦い」は夜、しかも松明が消えてしまう暴風雨(台風?)であったので、源頼朝を見失った大庭景親軍を責めることはできないのであるが。)ここまでのMVPは、「石橋山の戦い」で源頼朝を見逃した梶原景時であろう。MVPになりそこねたのは、源頼朝の乳母・山内尼の助命嘆願で斬首を免れた山内首藤経俊である。「石橋山の戦い」で彼が射た弓は、源頼朝の袖に刺さった。心臓に突き刺さっていれば、歴史は変っていた。


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