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柳田国男『山島民譚集』馬蹄石「水辺に牧を構へて竜種を求む」

 牧場というと、私的には「高原」のイメージですが、馬を育てるには水が必要なので、水辺がいい。さらに、「潮風に当たると駿馬になる」という経験則が大陸から伝えられたという。(北条時政の正室・牧の方を輩出した牧氏(大岡氏)の本拠地の大岡牧(静岡県沼津市大岡)は黄瀬川辺、そして海岸(駿河湾岸)にある。また本文に出てくる「愛鷹山」といえば、北条時政の娘婿の阿野全成の阿野庄!)

 「水神」といえば、蛇や竜である。(ところで、竜ってどこにいるの? 湖の底? 川の淵? 海の底?)
 駿馬のことを「竜のように速い竜馬」というけど、竜が速いのは地面を駆けるのではなく空を飛ぶからでは?(遠州弁の「飛んで」は、「駆けて」「走って」ではあるが。)この「駿馬=竜馬」という発想は、日本的であるが、実は中国大陸の思想だという。
 駿馬は、牝馬が竜と交わって生まれるという。名馬「磨墨」は、黒崎の墨山(須美山)の牝馬「竜化(りゅうげ)」と竜が交わって生まれたという。

 さて、静岡県の「馬蹄石」の産地といえば、駿河国の安倍川、藁科川、駿遠国境の大井川、遠江国の三倉川であるが、ダムのせいなのか、みんな持ち帰ってしまうからなのか、現在は発見が困難なようです。(以前、三倉川へ行った時は、通称「山岳」しかなかった。「馬蹄」「メロン馬蹄」狙いだったのに。あまり知られていない瀬戸川へ行けばよかったかも。)
 お目当ての石が見つからなかったとはいえ、徳川埋蔵金を探すトレジャーハンターとは違い、地味に儲かります。月に2個見つければ生活できるし、見つからなかったら、内緒の場所へ砂金とか翡翠を採りに行けばいい。(上の動画では三倉川を「駿東郡」としています。こういう嘘をつかないと、ますます発見が困難になりますね。)
 ちなみに、だんぶり長者の財宝「漆万杯、金億々」は、長者屋敷の「朝日と夕日が差す白萩の咲く所」に埋まっていると伝えられています。

 三倉石の私のイメージは、「黄土色で、ワイヤーブラシで磨くとダークグレーになる石」です。後はオイルを塗って完成。ただ、それだと床の間に置くと傷がつくので、石の形に合わせて木で台を作らないといけないのですが、面倒なので、100均でクッションを買ってきて、その上に置いてます(笑)。

 藁科川&安倍川の馬蹄石は「真黒石」(まぐろいし)です。一口に「真黒」といっても、「蒼黒(あおぐろ)」「墨黒(すみぐろ)」「真黒」「本真黒」(「本マグロ」はお魚)に分かれます。(自分の好みの色に塗る人もいます。静岡の業者さんはあまりしませんが、京都で売ってる石の場合、削ったり、塗ったりと、加工していない石は、まずないとか。)

> 遠州御前崎も近海に著しき大岬なり。突端の駒形大明神は、是れ亦、昔の牧馬の名残ならんかと思はる。
については、別記事で。
※「駒形神社」
https://note.com/sz2020/n/n9a4875d553d7
※「白羽」
https://note.com/sz2020/n/n385a4eadeea0

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 池月、磨墨は名馬の最も高名なるものには相違なきも、弘く其名の諸国の伝說に採用せらるゝに至りし原因は、別に又、存す。先づ第一に、池月は、池より生れし者、即ち、水の神の子なりと想像せしむるに最も似つかはしき名前なり。「池月は太く逞しき黒栗毛なる馬の、尾の先、ちと白かりける」とある昔の記錄(注:『源平盛衰記』)は、各地の古伝、之を認めざる者多し。「事の外の荒馬にして、生類を好みて食ひける故に生唼(いけずき)と云ふ」との説は、殊に牽強付会の感あり。其議論は兎も角も、其名を耳に聞きて先づ思ふは、白くして光ある馬の毛の、水の月と縁あること、更に一步を進むれば、「竜馬は竜の胤(たね)」と云ふ古来の俗信なり。此思想は、申すまでも無く、支那からの輸入なれど、而も日本の土に移して後にも国相応の美しき花を開けるなり。例へば陸中鹿角(かづの)郡小豆沢(注:秋田県鹿角市八幡平小豆沢)の「だんぶり長者」(注:「だんぶり」は蜻蛉)の如きは、「家、富みて、数百頭の馬を山に放牧す。山上には池ありて、竜、下り住めり。長者が駒、此池の水を飮みて竜馬と成りしが故に、今も其故跡を「竜馬嶺」と云ふ」〔鹿角志〕。池月産地の一として伝へらるゝ羽後の木直(きづき)にては、「昔、百姓の家に一頭の牝馬を飼へりしが、夜に入りて厩の中、物騷がしきこと屢々なり。灯火を挑(かか)げ、行きて見るに、何物の影も無かりしが、朝每に厩の周りに、必ず新なる蹄の跡あり。副馬嶽(そうまがだけ)の神馬、飛び降(くだ)りて、此家の牝馬が処に夜遊に来りしなりと云へり。其後、此牝馬に七寸の駒、生れたり。池月なりと伝へられしは此駒のことなるが如し。非常の荒駒なれば、山に杙(くひ)を打ちて、之を繫ぐ。仙北の名山「大つくし」「小つくし」の二峯は、即ち、此の杙の化して成れる山にて、「つくし」とは、杙、又は、標木のことなりと云へり」〔月乃出羽路四〕。「厩の戸口に新らしき蹄の跡」と云ふ話は、我邦ばかりの物語には非ず。支那にても「大昔より、わざと牝馬を水際に放て、竜の出来心を誘ひし例あり」と聞く。「水中の霊物が、うまうまと人間の誘惑に罹(かか)りし場合には、必ず、其足跡を岸上の砂に遺したり」となり〔南方氏神足考(注:南方熊楠『神跡考』の誤り)〕。磨墨、太夫黒の徒が、時として巖窟の奧より飛出せりと伝へらるゝも、思ふに、亦、竜馬が、文字通りに竜を父としてありしことを示すものにて、即ち、神馬は河水の精などと云ふ思想より一転して、之を竜の変形、又は、竜の子と考ふるに至りしならんのみ。
 駿馬の竜を父とすること、近世に於ても正(まさ)しく其実例ありき。羽前東田川郡清川村(注:山形県東田川郡庄内町清川)の対岸(注:山形県酒田市成興野荒興屋)に「竜ヶ池」あり。此水は山中の青鞍淵と地下に相通ずと伝へられ、曽て領主が池水を切落さんとせし時にも、掘るに従ひて、底、愈々窪み、漫々として、終に其深さを減ぜざりき。此池にも竜ありて住むが故に、池の空に竜の形をしたる雲の折れ棚引くを見ることあり。酒井侯忠真の治世に、成沢村(注:山形県酒田市成興野成沢)の農長右衞門が家の女馬、此池の岸に野飼する間に竜の子を孕みたり。生れし駒は鹿毛の駿逸なりき。忽ちに藩主の乗馬となり、後に之を公儀に献ずと云ふ〔三郡雑記下〕。士佐の「果下馬(とさごま)」(注:かかば)は体こそ小さけれ、健かにして、且つ、鋭きこと、よく彼国の人物に似たり。其開祖も亦、水辺の牧より出でしものにて、一説には牝馬の海鹿(あしか)と交りて生みし子なりと称し、それ故に、性質、ちと、順良ならずとも評せらる〔有斐斉剳記〕。此等の事実を参酌し、兼て又多くの池月が池の辺より生れ出しことを思ひ合すときは、我邦にて延喜式以来の諸国の牧場の海に臨める地に多かりしは、決して単に土居や圍障の経費を節約せんが為のみに非ざりしことを擬ふ能はず。即ち、斯くすれば、良き駒を産すべしと云ふ経験乃至は理論の確乎(注:確固)たるものあるに非ざれば、島地岬端を求むること此の如く急なるべき理(ことわり)無きなり。俗説の伝ふる所に依れば、「馬は応神天皇の御代に高麗国より初めて之を貢献す。之を飼ふべき途を知らず。山に放ちたるに依りて其山を生駒山と云ふ」。其後、高麗より人渡りて申す。「岩石峯海の辺、塩風に当たる処に放ち飼へば、駿馬となりてよし」と申す。依りて、さありぬべき処を尋ね、但馬国の海峯に斯る処を求め得て、馬を追放つ。其後、子ども多く生れて、馬、此の国に充満しけり。故に「多馬(たま)の国」と号す云々〔但馬考所引国名風土記〕。島の牧に至りては、近世にも、例、甚だ多し。羽前の海上に飛島(とびしま)なりしか、粟島(あわしま)なりしか、今も共有の野馬、山に多く居り、島人、其用ある時のみ、繩を携へ行きて、之を捕へて使ひ、用終れば、復之を放つと云ふ話を聞きしことあり。伊豆の大島にては、里に飼ふは牛のみなれども、八代将軍の時に放牧せし野馬の子孫、三原山の中腹に永く住みてありしと云へり。津和野の亀井伯の始祖亀井琉球守玆矩は、雄図ある武将なりき。曽て大船を購(あがな)ひて、明国、安南(注:ベトナム)、暹羅(注:シャム。現在のタイ)などと貿易せし頃、多くの驢馬(ろば)、野牛を舶載し来たりて、之を因幡湖山池の青島に放牧す。其種、永く尽きず、寬永年中に至りて尚、其姿を見たりと云ふ〔漫遊人国記〕。瀨戶内海には島の牧、殊に多かりき。熊谷直好の帰国日記に、
  赤駒に黒ごままじり遊び来る島の松原面白きかな
と詠じたるは、今の何島の事なりやは知らざれども、安芸の海中にも馬島と称して野馬の多き一島ありき。但し、之を取還らんとする者あれば、其舟、必ず覆沒すと云へば〔有斐斉剳記〕、世用(せよう)に於ては、益無きなり。播州家島(えじま)の南方十五町の処にも、寬文の頃、一の馬島ありて、牧を設けらる〔西国海辺巡見記〕。安芸賀茂郡阿賀町より一里の海上に、情島(なさけじま)と云ふ大小二箇の島あり。大情の方は承応三年に藩の牧場と定められ、之に十匹の馬を放す。追々に繁殖して、明曆の頃には二十余頭に達したり。後年、其数の減ずるを以て、文化十四年には更に一頭の月毛を放す。此の月毛は広島の東照宮の祭の神馬なりき。後に又、牝馬二匹を以て其牧に加へたりと云へり〔芸藩通志〕。讃州高松藩にては、慶安年中に大内郡の大串山と云ふ処に馬牧を開き、馬を放す。大串山は島に非ず、一里ばかり海中に突出する半島なリ。陸続きの一面には塹(ほり)を掘りて、馬の逸出するを防ぎたり。此牧は良馬を出さざりしが故に、終に之れを罷むとありて〔讃岐三代物語〕、爰にも明かに竜神信仰の末法を示せり。此序に申さんに、大串山の「串」は「半島」又は「岬」のことなり。地方に由りては之を「久慈」又は「久枝」とも書けど、是れ、恐くは二字の嘉名を用ゐしものにて、紀州の串本、長門の小串其他、「串」と書する例も多し。「串」は、朝鮮語にても、亦、「半島」若しくは「岬」を意味し、本來、「コツ」の語音に宛てたる漢字ならんかと云へり。而して朝鮮にても「島」、又は「串(コツ)」を「馬牧」とするは、最も普通の慣習なりしなり。其例を挙ぐれば限無しと雖、中にも大なるは、全羅道大静県の加波島、慶尚道熊川県南海の加德島、同じく長髻県の冬乙背串(とうつはいこつ)、忠清道にては瑞山郡の安眠串、泰安郡の和霊山串、大小山串、梨山串、薪串の四串、沔川(べんせん)郡の金宅串、唐津県の西に在る孟串の如きも皆、古来の牧なりき〔東国輿地勝覽〕。独り日本内地のみの風習には非ざりしことは此だけにても容易に察することを得るならん。
 遠州御前崎も近海に著しき大岬なり。突端の駒形大明神は、是れ亦、昔の牧馬の名残ならんかと思はる。此権現の古きことは、一つの証拠あり。前に挙げたる伊豆の軽井沢の駒方神の如き、手近の箱根の社とは、却りて関係無く、日下開山鎌倉弥左衞門、三国相伝橫須賀与惣右衞門と云ふ両人の舍人司、遠州白和駒方の書を以て、「駒方祝(はふり)」を行ふと言伝へ、其三社の御正体は、中央、白和王(しろわおう)に、右鵲王(うじゃくおう)、左鵲王を合はせ祀ると云へり〔伊豆志〕。白和は今の白羽村(注:静岡県御前崎市白羽)にて、即ち、御前崎の鄰村なり。御前崎と海を隔てゝ相ひ対する駿河の三保(注:静岡県静岡市清水区三保)にも、安芸の馬島と同じく、亦、馬を愛惜する神を祀れり。今日は、単に謠(うたひ)の「羽衣」とのみ聯想せらるゝ土地なれども、三穗明神は、実は熱心なる馬の神にて、深く馬を愛せられ、神前の松原には、野馬、常に遊び居たりき。此松原も到頭(とうとう)開墾せられて、桃や甘蔗(注:甘藷の誤り。実際は徳川家康の大好物の「折戸の茄子」が特産品)の畠と成り、旧領主德川公爵をして歎息せしめたりと云ふ程なれども、昔は此半島の風趣を添ふるものは、松陰に遊べる野馬の群なりしなり。村々の農家に於ては、馬、疾(や)むときは、此浜に曳き来り、神の保護の下に放牧し置けば、必ず平癒すと信じたり〔駿国雑志〕。思ふに、此慣習は、必ず、諸国の「野飼」「馬洗」などの行事と関聯する所あるなるべし。昔は人間の医薬も、尋常、草根、木皮の外に出でず。病馬を治するの術に於て、独り大奇法の存するものあらんや。多くは伯楽が神伝に託して其道を霊秘にし、もしくは、村老が、あまりに手段の平凡なるを訝りて、之を信心の力に帰するが如き、何れも極めて自然なる径路と言ふべきも、要するに、新鮮なる草と水とを得て休養せば、普通の病馬は大抵、其健康を復することを得しならんのみ。三河宝飯郡の小松原と云ふ処の観音寺(注:愛知県豊橋市小松原町字坪尻)の本尊馬頭観音は、行基が作なり。每年二月初午の日に参詣する者、此山の隈笹の葉を得て帰る。馬の煩ふ時、御影を厩に揭げ、此笹を以て飼ふときは、忽ち、癒ゆ〔諸国里人談四〕。長門阿武郡宇田郷村大字惣郷(注:山口県阿武郡阿武町惣郷)の熊野神社は、境内に一つの馬蹄石あり。牛馬、熱に苦しむ者あるときは、一束の草を刈り来りて、此石の上に置き、退(しりぞ)きて、よく祈り、さて、其草を以て病畜に飼ふときは、則ち、治すと云ふ〔長門風土記〕。美濃惠那嶽(注:長野県阿智村と岐阜県中津川市にまたがる山)の笹の葉は即に之を述ぶ。此等、無名の植物も。只一步を進めば、又、かの狐ケ崎の矢筈(やはず)の笹なり。伊賀阿山郡布引村大字中馬野(注:三重県伊賀市中馬野)字左妻には、もと、左妻岩屋あり。中古、洪水に沒して、今、其処を知らず。昔、此の巖窟に馬を愛する神いまして、屢々、橫根山の溪流に馬を洗ひたまふ。馬洗淵の字、今も存せり。其神、人間に応接すること、里俗の口碑に殘り、葛城一言主の談に類す。福地某なる者、曽て、此邑に在りて、鎌倉将軍家に馬を献じ、古来、此地の名馬を出すことを申すに因りて牧馬の命を蒙りぬ。又、伊賀次郞重国も、名馬を本村より献じたりと言へば、馬野の名、空しからざるに似たり〔三国地誌〕。三保明神の馬を愛したまふこと、誠に其由来を知り難しと雖、此地は塩燒く浜なれば、夙(つと)に竃の神の信仰起り、興津彦、興津媛の説などに感化して、中世、三社の神霊を仰ぐに至りしには非ざるか。或いは、又、単に一箇水に臨める牧として、深くも牧神の德を仰ぐに至りしものか。後世の硏究を須(ま)つの他なきなり。此半島と相ひ対して、愛鷹山(あしたかやま)には、人の飼はぬ野馬あり。即ち、愛鷹明神の神馬なりと云へり。非常の駿足にて、人は容易に其姿を見ること能はず〔「駿国雑志」〕。或は伝ふ。三保と愛鷹とは不思議の交通あり。野馬の数、双方を合せて、常に九十九匹。曽て增減あること無し。三保に多ければ、愛鷹に少なく、愛鷹に多ければ、三保に少なしと云へり〔本朝俗諺志〕。人も知る如く、愛鷹山は近き世迄の幕府の牧場なりき。牧場の一方が高山に続きし為に、野飼の駒の逸出し、点検に洩れたる者も多かりしならん。唯、東海道を越え、海を隔てたる半島の松原に通ふと云ふに至りては、即ち、甲斐の黒駒同樣の神話と見ざる能はざるなり。勿論、牧童の保護を離れて、而も熊、狼の害を免れ得し程の野馬なりとすれば、必ず、荒く、且つ、逞しき逸物に相違なければ、稀に之れを思ひ掛けぬ谷間などにて見たる人は、自然に神馬、又は、之を率ゐる馬の神の信仰を起し、一方には各自の凡馬の安全を禱(いの)ると共に、他の一方には、其蹄の跡などを尊崇せずには居られざりしなるべし。
 肥前五島の生月島は式(注:『延喜式』)に所謂「生属牧(いけづきのまき)」の故地なりしと共に、後世までも、海に臨める一箇の産馬地なりき。甲子夜話の記する所に依れば、「此島の岸壁に生ずる「名馬草」と云ふ植物は、牝馬、之を食へば、必ず、駿逸を生む。故に之れを求めんとして足を誤り、屢々、崖落をして死する馬あり」と〔続甲子夜話五十七〕。悲しい哉、馬や、汝も亦、人の親と其痴を競はんことを欲するなり。但し、この絶壁の端に生ずと云ふ「名馬草」は果して如何なる草か、自分は、唯、寡聞を恥づるのみなれども、此と些しく名の似たる海辺の植物に「神馬草」と云ふ物はあり。万葉集などに、所謂「莫告藻(なのりそ)」、今も正月の注連飾(しめかざ)りに用ゐる「ほだはら」又は「ほんだはら」は、即ち、是れなり。「なのりそ」を「神馬草」と書くは、「神の馬なれば、騎(の)る勿れ」と云ふこと、即ち、「莫騎(なのりそ)」の意に托したるものなりと云ふ説あり〔和名抄〕。前に挙げたる重之の歌の
  ちはやふるいづしの宮の神の駒 ゆめな乗りそね祟りもぞする
と云ふ例もあれど、些しく信じにくき口合なり。又、一説には、神功皇后征韓の御時、船中に馬の秣(まぐさ)無くして、海の藻を採りて之に飼ふ。其時より、此草を「神馬草」と呼ぶと云へり〔下学集、言塵集、其他〕。羽後の古名所、蚶潟(きさかた)の浦にては、皇后、此渚に、御船、寄せたまひし時、此事ありきと称す〔齶田乃苅寝(あきたのかりね)〕。海草を以て馬を養ふと云ふことは擬はしけれど、例へば、馬医の薬の料とすと云ふが如き、何か然るべき仔細の古くより存せし為、此名あるならんか。要するに、海は永古の不可思議なり。人は朝夕、其渚に立ち尽すと雖、終に蒼波の底に在る物を知り得ず。故に、万(よろづ)の宝は、海より出でて、海に復(かへ)ると考ふる者多かりしなり。殊に日本の如き島国の人は斯く思はざりしならば、却りて不自然なり。近き歷史に於ても、例へば、鹿児島県の今の馬の種は異国の名馬に由りて之を改良すと称す。或年、たしか海門嶽(かいもんだけ)の沖合に於て、欧羅巴(注:ヨーロツパ)の船一つ難船す。乗客は皆、死歿し、馬二頭、陸地を目掛けて泳ぎ著(つ)きたりしを、取繫ぎて、之を領主の牧に放せり云々。あまり古き代の事にも非ずと云へど、心からか、聊(いささ)か伝説の香を帯びたる話なり。海の中には、又、「海馬」と云ふ物あり。海馬には、大小、全く別箇の二種類あり。大は、即ち、「とゞ」とも云ふ獣(けだもの)にて、北蝦夷の海馬島(とどじま)其他、洋中の孤島に住む物なり。土佐駒(とさごま)の高祖父と称する「海鹿」は海驢(あしか)に非ざれば、即ち、此物なるべし。小さき方は、一名を「竜(たつ)の落子」などとも云ふ一種の虫なり。薩州上甑島(かみこしきじま)串瀬戸の甑島大明神の社にては、九月九日の祭の日に、蜥蜴(とかげ)に似たる奇魚、必ず、渚に飛上る。土人、之を名づけて「竜駒」と云ふと云へり〔三国名勝図会〕。漢名を「海馬」とも「水馬」とも書き、我邦にては「あさのむし」・「しやくなぎ」又は「たつのすてご」などと云ふ物は、此なり。乾し貯へて、婦人の産をするとき、之を手中に持たしむれば、産、軽しと云ふ〔大和本草〕。沖繩にて「けーば」と云ふ物も、「首は馬の如く、身は蝦(えび)の如し。安産の守とす」と云へば、同じ物なり〔沖繩語典〕。此等の学説は、其漢名と共に支那より渡来せしものとも云ふべし。例へば、「証類本草」には「異物志」を引きて、「海馬は西海に生ず。大小、守宮虫(やもり)の如く、形は馬の形のごとし云々。婦人難産を主(つかさど)る。之を身に帯ぶ」と云ひ、「神験図経」には、「頭は馬の形の如し。蝦の類なり。婦人、将に産せんとして、之を帯ぶ。或は、手に之を持ち、或は、焼末して飮服するも亦可なり」と謂ひ、「異魚図」に之を收め、「暴乾して雌雄を以て対と為す。難産及び血気を主る」と云へるがごとき〔古名考五十三所引〕、皆、彼の国の説なり。されど、日本にても、源平の時代に、貴人御産の後、御乳付の具、御薬などと共に、海馬六を、箱に納(い)れて献上せしこと見ゆれば〔同上所引山槐記治承二年十一月十二日条〕、古くより、此信仰はありしなり。此物、越後より羽前の海岸に掛けては、之を「竜のあらし子」と云ふ。浦々の小魚に交りて、稀に漁夫の網に入る。形は、一寸四、五分より、二寸ほど。頭は馬によく似て、腰は曲りて蝦の如く、尾は蜥蜴と同じ。雄は青く、雌は黄色なり〔越後名寄十七〕。出羽の鳥海山は、頂上に「鳥海」と云ふ湖水あり。不思議なることには、海馬、亦、此湖水にも住し、全く海に居る「竜の荒児(あらしご)」と同物なり。或は、海気の、雨を釀(かも)すとき、此物、雲に乗りて、空に騰(のぼ)り、山山の岩際に下るならんと謂へり。此地方の田舍人も、之を難産の女の手に持たしむ〔荘内物語付録〕。古書には、之を記して、「鳥海山頂の池に、長さ六、七寸の竜ありと云へり。常民は敢て登らず、行人等、独り往きて、かの竜を取り来る。一年ばかりの内は生(せい)ありと見えて、座敷に置きて扇にてあふげば、ひらりひらりと、竪横になりて、画(ゑ)に描ける竜の如く飛ぶ。一年過ぎては死するにや、扇(あふ)ぎても舞はず」と云へり〔観恵交話上〕。竜と馬とは、兎に角に、因縁深し。朝鮮の古伝にても、扶余県の釣竜台は、昔、蘇定方(そていはう)、百済征討の時、江頭に風雨を起す物を退治せんとて、白馬を餌(ゑさ)として淵に一竜を釣り得たり。故に江を「白馬江」と名づけ、岩を「釣竜台」と云ふこと、前章に一たび之を説きたり〔東国輿地勝覽十八〕。「竜の吟ずる声は、馬の嘶くに似たり」と云ふ説あり。帝釈天、乗りたまふ竜馬を「伊羅波(いらは)」と云ふ。鼻、長くして、馬の如くなる竜なり〔塵添壒囊抄〕。況や、竜は、よく、牝馬の其胤を假(か)すことあれば、頭の馬に似たる海中の動物を「竜の捨て子」などと呼ぶは、必ずしも珍しからず。唯、薩摩の甑島の神が、年々、此物を贄(にへ)に召したまふと云ふは、注意すべき話なり。「甑」は、即ち、「釜」のことにて、「釜」と「竃」とはどこまでも馬と因縁あり。而して、此神の社頭にも、亦、「甑」の形をしたる一霊石の存するものありし也。

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