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『鎌倉殿の13人』43「資格と死角」の再放送を視聴【小ネタ集】

■公武協調
鎌倉殿・源実朝を継ぐのは誰?
「資格」所有者は、「源実朝の血縁者」=嫡男であり、嫡男がいなければ、「源頼朝の血縁者」である。
「死角」とは「源実朝の正室の血縁者」である。源実朝の正室の姉は後鳥羽上皇と結婚して親王を生んでおり、その親王が鎌倉殿になれば、公武協調(もはや公武合体?)が成されます。

■鎌倉殿・源実朝を継ぐ「資格」所有者
『鎌倉殿の13人』では、鎌倉殿・源実朝を継ぐ「資格」所有者を公暁と阿野時元とした。公暁は鶴岡八幡宮別当として源実朝の横に座っているが、阿野時元が御家人で、他の御家人に混じっている。阿野時元が鎌倉殿になるのは無理であろう。公暁も源実朝の猶子であるから、鎌倉殿になるのは無理であろう。

■公暁の顔いじり
「頼家様に似てる」
ではなく、
「頼家様に似てる。でも上総広常にも似てる(笑)」
だろ。

■将軍親裁と政所別当五人制から九人制へ
◇政所別当五人制
・執権(政所別当筆頭)・北条義時
・北条時房
・源親広
が固定メンバーで、そこに、
・中原師俊
・中原仲業
・二階堂行光
ら官吏から2人選ばれて5人。

◇政所別当九人制
従来の5人に、
・中原(後の大江)広元
・源仲章
・源頼茂
・大内唯信
の4人が加わった。これが史実。

『鎌倉殿の13人』では、12人で、13人目を公暁とした。(イエスを裏切った13番目の弟子・ユダは、「最後の晩餐」では13番目の席についていた。公暁が源実朝を討つ暗示か?)
──あと3人は誰?
北条泰時、阿野時元と、北条政子推薦の三浦義村かな。

■北条時房の蹴鞠
☆『吾妻鏡』「建保6年(1218年)5月4日」条
建保六年五月大四日甲戌。陰。相州自京都下着給。三品御上洛之時被扈從、而、三品、去月十五日雖出京給、爲參仙洞御鞠、被逗留云々。
(曇り。相模守・北条時房が京都から(鎌倉に)帰った。三位・北条政子の上洛の時、ついていき、三位・北条政子は先月の15日に京都を出発したが、相模守・北条時房は、後鳥羽上皇に蹴鞠の腕を披露するために、京都に残っていたという。)
☆『吾妻鏡』「建保6年(1218年)5月5日」条
建保六年五月大五日乙亥。晴。相州、依召被參御所。洛中事被尋仰之處、相州被申云。「先、去月八日、梅宮祭之時、「御鞠有拝見志」之由、内々申之間、臨幸件宮。右大將(半蔀車。具隨身、上臈)被刷顯官之威儀。「是、皆下官見物之故也」云々。同十四日、初參于御鞠庭。着布衣(顯文紗狩衣。白指貫)、伴愚息二郎時村(二藍布狩衣。白狩袴)、公卿候簀子。上皇上御簾叡覽之。同十五日、十六日以後、連々參入。「當道頗得其骨」之由、叡感及數度。「院中出仕不知案内」之旨、示合之間、尾張中將淸親(坊門内府甥)毎事扶持、生涯爭忘其芳志哉」云々。
(晴れ。相模守・北条時房は、(源実朝に)召されて御所に参上した。(源実朝が)京都での事をお尋ねになられたところ、相模守・北条時房は、答えた。「まず先月8日の梅宮大社(京都市右京区梅津フケノ町)のお祭りの時、(後鳥羽上皇は)「蹴鞠の腕を見たい」と内々に申され、梅宮大社へお出になられた。右大将・久我通光(半分蔀戸になった牛車に乗り、隨身(警備兵)と上臈を従えていた)は、身分相応の正装だった。「これは、下官(北条時房)の見物のため」だという。同月14日に、初めて朝廷の蹴鞠場に行った。普段着の布衣(顕紋紗の狩衣に白い指貫)を着て、息子・北条時村(二枚重ねの藍染めの狩衣に白い狩袴)を連れて、公卿の座席の濡れ縁に控えた。後鳥羽上皇は御簾を上げさせて、ご覧になった。15日も16日も続けて(朝廷の蹴鞠場に)行った。「この道(蹴鞠術)のコツを良く呑み込んでいる」と、後鳥羽上皇は、何度も感心した。なお、「院御所へ出仕する時の礼儀作法を知らない」と言ったところ、尾張中将・坊門清親(源実朝室の父・坊門信清の甥)が毎回助けてくれた。この恩は生涯忘れられない」と。)
・「瀬戸丸」(『ミュージカル・テニスの王子様』の菊丸英二)こと瀬戸康史さんの趣味&特技は、歌、写真、デザイン、デジタルアート、そして、テニスではなく、サッカー。好きなスポーツもサッカーとのこと。奥さんは、山本美月さん(美男美女!)。

■源実朝の官位が急上昇
『承久記』では「官打ち」(身分以上の官位を与えて殺すという後鳥羽上皇の呪詛)だとするが、後鳥羽上皇と源実朝は仲が良かったので、それはない。源実朝は、息子・頼仁親王の後見役となるので、高位でなければ駄目だと考えたのであろう。京都在住の公家の官位を上げると、政治への影響力が強まってしまうが、鎌倉在住の人間の官位を上げても朝廷への影響力は無いとして、グングン上げたのであろう。

■源実朝暗殺計画
頼仁親王が源実朝を継いで鎌倉殿になれば、鎌倉の未来は明るかった。それを三浦義村がぶち壊した。ラストシーンで公暁を焚き付けていた。
でも、これでは、暗殺者の公暁は反逆者となり、鎌倉殿にはなれない、つまり、三浦一族がのし上がれない。
 公暁は源実朝を斬る時に「親の仇」と叫んでいる。それで、「公暁に「源実朝が親の仇だ」と教えた黒幕がいるのではないか」というのが「黒幕説」の根拠であるが、『鎌倉殿の13人』では、比企尼も、三浦義村も「北条氏が源頼家の仇だ」と教えている。もしかして『鎌倉殿の13人』の公暁は、「親の仇」と叫ばない?
 ちなみに公暁は源実朝の猶子。つまり、公暁にとって源実朝は義父です。親が子を殺すのはありの時代だが、子が親を殺すのは許されない時代だぞ!

■源仲章の伊賀の方への接近
意味不明。源仲章は「伊賀氏の乱」の前に退場するので、伏線ではないはず。もしかして、「あの日、伊賀の方が源仲章に北条義時の鎧を貸したので、源仲章は北条義時に間違えられた」ともっていく?
 伊賀の方は遠江国の生まれ?
https://note.com/sz2020/n/n77e6803cbe0a

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