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新説誕生の時 -明智光秀の母は妻木氏-

 中世の研究は日進月歩で、新説が続々登場している。
 理由は小泉元総理の「平成の大合併」である。各市町村は、「合併で消える前に自分たちの歴史を残しておこう」と市町村史を発行した。この時、「古文書はありませんか?」と呼びかけ、蔵に眠っていた古文書が翻刻され、市町村史に載せられた。この新出史料を読んだ学者が続々と新説を打ち出したのである。

 私ですら現地へ行って広く知られていない史料を読めば、新説(史実?)に気づくのであって、これまで「Reco説」としてnoteに載せてきたが、誰も見向きもしなかった。(本人は、歴史学会を覆す大発見だと思っているのであるが; 今回の記事は大発見ではなく、小ネタ(新説の否定)です。)
 疫病が大流行し、現地へ行けなくなった私は、「現地へ行けない」「サポートもない」と執筆意欲をなくし、noteを辞めることを決意した。

 辞める前に調査不足ゆえに「Reco説」として発表を控えていた記事を載せることにした。特に明智光秀については、調べれば調べるほど、深掘りすればするほど、身動きできなくなり、目の前の木は見えても、森全体が見えなくなることが多い。でも、もっと深く掘れば、知恵の泉が湧き出るかもしれない。

 たとえばネット上には、「妻木広忠=妻木範熈=明智光秀の妻・妻木熈子の父親」とする記事が少なからずあるが、これは以前の定説であり、現在は否定されている。日進月歩の中世史研究──古い本を読んで記事を書いたのであろう。

 現在の学説は、「妻木広忠≠妻木範熈」「妻木広忠は妻木範熈(明智光秀の妻・妻木熈子の父親)の兄」である。

┌妻木藤右衛門広忠─妻木貞徳─妻木家頼─妻木頼利─妻木頼次
└妻木勘解由左衛門範熈┬妻木熈子
             ├妻木主計頭範賢
                ├妻木範武
                        └妻木範之

 この新説の根拠は、江戸幕府の公式文書『寛永諸家系図伝』の妻木広忠と思われる「某(源二郎、藤右衛門)」の項の「光秀が伯父」という記述であり、これを「妻木広忠は、明智光秀の伯父(妻の父・妻木範熈の兄)」と解釈し「妻木広忠(光秀が伯父)、妻木範熈(光秀が義父)別人説」という新説が誕生した。

──本当にそうなのか?

新説を疑う場合は、根拠とする出典にあたればよい。

■『寛永諸家系図伝』「妻木」
頼光より10代、土岐頼貞が後胤、妻木領に居住して、「妻木」の称号を用ゆ。頼貞より妻木伯王に至って中絶す。

伯王─某(兵部大輔)─某(中務)─某(源二郎、藤右衛門。天正10年、明智日向守滅亡の時、藤右衛門、江州坂本西鏡寺におゐて自害す。光秀が伯父たるによってなり。時に69歳。法名「宗真」。)
■『寛政重修諸家譜』清和源氏頼光流土岐支流「妻木」
藤右衛門頼次が時、嗣無くして絶ゆ。『寛永系図』に、「土岐頼貞(「土岐系譜」に伯耆守頼貞)が後胤、妻木領に住せしより「妻木」をもって称号とす。頼貞より伯王に至るまで中絶す」といふ。
庶流妻木伝兵衛頼興が今の呈譜に隠岐守光定、美濃国土岐郡妻木村に住してより「土岐」を称し、光定9代の孫・彦九郎弘定が時、「妻木」をもって家号とすといひ、弘定より系を起こし、其の男、中務大夫頼安、其の男、藤右衛門広忠といふ。よりて広忠より以上は、もっぱら寛永の譜にしたがひ、家説をあげて後勘に備ふ。

伯王─某(兵部大輔)─某(中務)─某(源二郎、藤右衛門。今の呈譜、広忠に作る。天正10年、明智光秀滅亡の時、光秀が伯父たるにより、6月18日、近江国坂本西鏡寺にをいて自殺す。年69。法名「宗真(今の呈譜「宗心」)」。)

・『寛永諸家系図伝』:「法名宗真」
・『寛政重修諸家譜』:「今の呈譜、広忠に作る」「今の呈譜、宗心」

 江戸幕府の学者は、全てを知っているわけではなく、「某」の名が「頼季なのか、広忠なのか」、法名が「宗真なのか、宗心なのか」分かっていない。さらに「西教寺」を「西鏡寺」と誤記していることに気づいていない。

 江戸幕府の学者は、全てを知っているわけではなく、諸家が提出した資料から『寛永諸家系図伝』を編纂し、さらに諸家が提出した資料と『寛永諸家系図伝』を見て『寛政重修諸家譜』を編纂したので、こういう事態となる。ただ、諸家は、江戸幕府に嘘の報告はできないので、『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』の記述内容の信憑性は他の古文書よりも高いといえよう。

 さて、上掲のように、妻木氏系図については、提出された系図を江戸幕府の学者は「偽」(妻木氏の系図ではなく、舟木氏の系図だ)と判断したのか、

 伯王─某(兵部大輔)─某(中務)─某(源二郎、藤右衛門)

と名前が消されている。

 伯王─弘定(兵部大輔)─頼安(中務)─広忠(源二郎、藤右衛門)

だというが、妻木氏系図で補えば、

 頼貞(伯王)─頼時(兵部大輔)─頼成(中務)┬頼季(藤右衛門)
                       └女子(明智光秀の母)

であり、名前だけではなく、明智光秀の母の存在も消されていることが分かる。(「明智光秀の妻が妻木氏であり、母ではない」として「偽」と判定したのだろうか。)しかし、「光秀が伯父」は残されたので、今の学説(新説)が誕生してしまった。

 妻木頼季の妹が明智光秀の母どうかということは、ここでは問題ではない。妻木氏は「光秀が伯父」を「光秀が母の兄」の意味で書いて江戸幕府に資料を提出しているということがポイントなのである。

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頼季 妻木藤右衛門。妻、水野下野守之姪也。永正11年丁戌、生濃州妻木。居濃州可児郡妻木。属土岐成頼、頼芸。後出織田信長公。天正10年壬午、明智日向守光秀亡時、於江州坂本西教寺而切腹。年69。仍光秀之伯父也。法名「宗真」。

(妻木藤右衛門頼季。妻は水野下野守信元の姪である。永正11年(1514年)、美濃国可児郡妻木郷に生まれ、同所に居住した。土岐成頼、頼芸に仕え、後に織田信長に仕えた。天正10年(1582年)、明智日向守光秀が亡くなった時、近江国坂本の西教寺に於いて切腹した。享年69。(切腹した理由は)光秀の伯父だからである。法名は「宗真」である。)

女子 明智下野守妻。日向光秀之母也。

 学者の「光秀が伯父」の解釈は誤解であるから、新説は誤りであり、「妻木広忠=妻木頼季=妻木範熈=明智光秀の妻・妻木熈子の父親」が史実である可能性も残されている。

 「妻木頼季は光秀が伯父」「妻木頼季が娘は光秀の妻」の両方が史実である場合、明智光秀は、母・お牧の姪と結婚した事になる。母も妻木、妻も妻木。どう区別する?「母妻木」「妻妻木」か? ツマキとカタカナで書くと、ヲマキ(お牧)と読み間違えそうだ。家臣に「御牧(みまき、三牧)氏」もいるのでややこしい。

 以上、「光秀が伯父」という記述から生まれるべき新説は、「妻木広忠≠妻木範熈説」ではなく、「明智光秀の母=妻木氏説」だという話でした。

【追記】---------------------------------------------------------------------------

頼貞より妻木伯王に至って中絶す。(『寛永諸家系図伝』)
・頼貞より伯王に至るまで中絶す。 (『寛政重修諸家譜』)

意味が分からない。
想像するに、妻木氏が江戸幕府に送った系図は、

頼貞─頼重─頼春─頼夏─頼孝─頼貞(伯王)─頼時─頼成─頼季

であり、

土岐舟木頼貞(伯耆守)─頼重─頼春─頼夏─頼孝  【舟木氏歴代】
土岐妻木頼貞(伯王) ─頼時─頼成─頼季       【妻木氏歴代】

と判断され、舟木頼貞の次の「頼重─頼春─頼夏─頼孝」は舟木氏だとして削除されて「始祖・頼貞より伯王に至るまで中絶した(それで舟木氏の系図を挿入した)」と江戸幕府の学者に考えられたのであろう。

妻木氏は、実は今でも、
「妻木家の始祖は土岐舟木右近将監頼重で、妻木家は舟木家の分家である」
「妻木家は、始祖を土岐明智彦九郎頼重とする明智家の分家ではない」
と主張されている。
 ──とはいえ、どう考えても妻木家は明智家の分家である。
始祖の名が同名異人の「土岐頼重」なので、ごまかしている(「謀反人・明智光秀と同族だと思われたくない」と思っている)のであろう。

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