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弥助問題(アサクリ問題)

トーマス・ロックリー

1978年、イギリスで生まれる。2000年、JETプログラムの参加者として来日し、鳥取県鳥取市に2年間滞在した。鳥取では、小学校でALT(外国語指導助手)として働いた[8]。2019年に日本大学法学部の准教授。また、同じ年にロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)の客員研究員となっている。

弥助騒動

史実と異なる記述・発言問題
ロックリーが記した書籍や、監修した作品に登場する弥助像に関して、史実と異なっており、デマを生み出しているなどの批判がなされている。 ロックリーは自身の作品や解釈をフィクションではなく、歴史的事実として提示したため、弥助の専門家として認められてきた。その結果、21世紀にはいってから、ロックリーによって創作された「伝説の侍」のイメージが、弥助そのものだという誤解を世界的に生んでしまうという事態が発生している。ロックリーの想像により生み出された弥助像は、主要メディアの記事において、まるで事実であるかのように取り上げられ、ファンタジー上の弥助を史実であるかのように考える人まで出現している。
「黒人が日本人に奴隷にされた」という史実と異なる記述への批判
『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』の、戦国時代の日本において「地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ」という記述に対し、「日本に黒人奴隷制があった」と読める内容であるとして、「事実とは異なる」とか「日本が黒人奴隷を生んだというデマが世界に広まってしまうのでは」など、偽史の拡散に対する非難や懸念がなされている。「宣教師がボディーガードとして連れてきた黒人が日本人に奴隷にされた」という不正確あるいはファンタジーな記述についても、国際的に広く「歴史的事実」であるかのように受け入れられてはじめてしまっていることについて、批判が起こっている。
弥助を「侍」と断定する記述に関する、史実に証拠がのこされていないという批判
史実には、弥助が侍であると断定されている記述は残されていない。 弥助が、織田信長に、豊臣秀吉が武士として認められたのは、信長の下で約10年間の軍役を経てからであることを考えると、信長の下で2年未満しか仕えていない弥助が武士になったとは考え難い。
自作自演のWikipedia「Yasuke」改ざんの疑い
2015年以来、弥助のWikipedia英語版の項目に、ロックリーの未発表著作を参考文献として挙げ、「弥助は侍だった」などとする不確かな情報が繰り返し加筆される事件が起こった。加筆者と特定されている「tottoritom」は、日本大学の准教授であると名乗っており、さらに、ロックリーには鳥取で日本語教員の経験があることから、ロックリーの未発表著作を出典として加筆した「tottritom」は実際にロックリー本人ではないかと考える人らによって、大きな批判が起こっている。
Wikipedia英語版の「User:Tottoritom」は、「東京にある日本大学法学部の教員であるトーマス・ロックリー」と自己紹介している。
アサクリ『弥助』問題
ロックリーの著書を参考にして作られた弥助が主人公とされる、2024年11月15日に発売予定のゲーム『アサシンクリードシャドウズ』のコンセプトアートにおける日本の描写が、不自然で史実に沿っていないことなどから、騒動が起こり、発売中止の署名運動がなされている。
ゲーム内で、侍であるはずの弥助が、村の中で白昼堂々と敵を惨殺する姿が描かれており、この描写はサムライらしくないとして批判を集めた事に対し、ユービーアイソフトは、「当時、死を見ることは日常茶飯事であり、当時の日本ではほとんどの人が死ぬ方法はきれいな斬首だった」と答えたが、歴史的に正確ではない回答であったために、さらなる批判を生んだ。ゲーム内で、侍として描かれた弥助は、社会的地位が高い「伝説の人物」として尊敬を集める存在とされているが、歴史上の侍は必ずしも地位が高いわけではなく、ロックリーとアサクリ制作者がまったく誤った概念に基づき、史実における見解と著しく異なるキャラクターを生み出してしまったという批判は続いている。
 また、日本が舞台であるはずのゲーム内で、なぜか、逆さまに描かれた中国の仏像や中国の工芸品、ミャンマーやタイの農作業の場面が出てくるなどの失態が発生しており、日本のみならず、中国、韓国も一致してユービーアイソフトの制作陣がアジア文化を無視していると非難するという異例の事態を招いている。

論文・著書

2016年、織田信長に仕えた弥助に関する論文「The Story of Yasuke: Nobunaga's African Retainer」を『桜文論叢(日大法学部紀要)』に掲載
2017年、『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』を発行。
2019年、Geoffrey Girardとの共著『African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan』をアメリカで刊行した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■問題の概要

■弥助は侍か?

なんか、織田信長に仕えた黒人の弥助の話題になっているみたい。彼に関する史料はかなり乏しいが、信長に仕える「侍」身分であったことはまちがいなかろう。出身の身分がどうであれ、主人が「侍」分に取り立てれば、そうなれたのが中世(戦国)社会。なんでそんなことが言えるかといえば、①信長より「扶持」を与えられている、②屋敷を与えられている、③太刀を与えられている、と史料に登場するから。「扶持」を与えられ、信長に近侍しているということは「主従の契約」「扶持の約諾」という重要な用件を満たしている。また、太刀を許されているので、二刀指であり、下人などではない(下人には刀指が認められていない)ことも重要。ましてや、屋敷拝領ならば、疑問の余地はない。宣教師の奴隷を、信長が譲り受けたところまでは、奴隷だったのだろうが、上記の①~③により、彼の意思によって「侍」分になったのだろう。本能寺の変時に、明智方が「動物」「日本人に非ず」などとして殺害しなかったというのは、それは明智が弥助を「侍」と認定しなかった(差別意識があったのだろう)だけにすぎない。身分が低い者を、主人が「侍」に取り立てることは、当時としては当たり前であった。そもそも、秀吉って立派な事例があるじゃんね。

■アサクリ問題

■岡美穂子東大准教授問題

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