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『日本書紀』の神功皇后

1.序


『日本書紀』は神代(高天原の神々の話「日本神話」)と人代(神武天皇~持統天皇の話)に分かれ、人代では、各天皇で1章となっているが、例外として、天皇ではないのに1章、しかも1冊(第9巻)を与えられ、天皇並みに扱われている女性がいる。

 ──神功皇后である。

       側室:大中姫命
景行天皇┬成務天皇   ‖─麛坂皇子&忍熊皇子
    └日本武尊─仲哀天皇
           ‖─応神天皇(八幡大神)─仁徳天皇(若宮八幡)…
       正室:神功皇后

・『日本書紀』は「紀(正史)」で、『古事記』は「記(小説)」である。
・『日本書紀』は対外向け(中国人向け)に漢文で書かれている。
・中国人は、日本人については『魏志倭人伝』の知識しか持っていない。
・『日本書紀』に『魏志倭人伝』について触れねばならない。
・『魏志倭人伝』には倭国王として女王・卑弥呼が登場する。
・しかし、『日本書紀』の大王(倭国王。後の天皇)は全て男である。
  ──どうする?
・早世した仲哀天皇の摂政・神功皇后を卑弥呼、
 神功皇后の妹・豊姫を台与ということにしよう!
・学者によれば、仲哀天皇も、神功皇后も、架空の人物の可能性があるという。そして、畿内の麛坂皇子&忍熊皇子を討って北九州(倭国)から畿内(日本国)へ進出した仲哀天皇と神功皇后の子・応神天皇「讃」と讃以降の「倭の五王」(讃、珍、済、興、武)は実在の人物だという(王朝交替説)。

2.『日本書紀』

■日本書紀』(巻8巻)「仲哀天皇」
 二年春正月甲寅朔甲子、立氣長足姫尊爲皇后。先是、娶、叔父・彦人大兄之女大中姫爲妃、生、麛坂皇子、忍熊皇子。次娶、來熊田造祖大酒主之女・弟媛、生子譽屋別皇子。

 仲哀天皇2年1月11日、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと。神功皇后)、立后。なお、仲哀天皇は、これより先に大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の娘)との間に麛坂皇子(かごさかのみこ。香坂王)と忍熊皇子(おしくまのみこ)、弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の娘)との間に誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を儲けた。(後に気長足姫尊(神功皇后)との間に誉田別皇子(ほむたわけのみこ。後の応神天皇)を儲けた。)

■『日本書紀』(巻8巻)「仲哀紀」
 二月癸未朔戊子。幸角鹿、即興行宮而居之。是謂笥飯宮。即月。定淡路屯倉。
 三月癸丑朔丁卯。天皇巡狩南國。於是。留皇后及百寮。而從駕二三卿大夫。及官人數百而輕行之。至紀伊國而居于徳勒津宮。當是時。熊襲叛之不朝貢。天皇於是將討熊襲國。則自徳勒津發之。浮海而幸穴門。即日使遣角鹿。勅皇后曰。便從其津發之。逢於穴門。
 夏六月辛巳朔庚寅。天皇泊于豐浦津。且皇后從角鹿發而行之。到渟田門。食於船上。時海鰤魚多聚船傍。皇后以酒灑鰤魚。々々即醉而浮之。時海人多獲其魚而歡曰。聖王所賞之魚焉。故其處之魚。至于六月常傾浮如醉。其是之縁也。
 秋七月辛亥朔乙卯。皇后泊豐浦津。是日。皇后得如意珠於海中。
 九月。興宮室于穴門而居之。是謂穴門豐浦宮。

 仲哀天皇2年2月、神功皇后は、仲哀天皇と共に越国(後に分割されて越前国)角鹿(つぬが)郡の行宮(あんぐう。かりみや。旅先に設けた仮の御所)・笥飯宮(けひのみや。仲哀天皇8年に整備され、福井県敦賀市曙町の越前国一之宮・氣比神宮となった)へ移った。
 仲哀天皇2年3月、仲哀天皇は、紀伊国(和歌山県和歌山市新在家)の行宮・德勒津宮(ところつのみや)へ移るが、神功皇后は、角鹿に留まった。
 仲哀天皇は、「熊襲謀反」の報を聞き、熊襲討伐「九州遠征」を決意し、神功皇后に「穴門(山口県の下関港)で落ち合おう」と連絡した。
 仲哀天皇2年7月、神功皇后、行宮・穴門豊浦宮(あなとのとようらのみや。山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社)で仲哀天皇と合流。

■『日本書紀』(巻8巻)「仲哀紀」
 八年春正月己卯朔壬午。幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐。聞天皇之車駕。豫拔取五百枝賢木。以立九尋船之舳。而上枝掛白銅鏡。中枝掛十握釼。下枝掛八尺瓊。參迎于周芳沙麼之浦而獻魚鹽地。因以奏言「自穴門至向津野大濟爲東門。以名篭屋大濟爲西門。限沒利嶋。阿閇嶋爲御筥。株柴嶋爲御甂。(御甂。此云彌那陪。)以逆見海爲鹽地」。
 既而導海路。自山鹿岬。廻之入崗浦。到水門御船不得進。則問熊鰐曰。朕聞「汝能鰐者有明心以參來。何船不進」。熊鰐奏之曰「御船所以不得進者。非臣罪。是浦口有男女二神。男神曰大倉主。女神曰菟夫羅媛。必是神之心歟」。天皇則祷祈之。以挾抄者倭國菟田人伊賀彦爲祝令祭。則船得進。
 皇后別船自洞海(洞。此云久岐。)入之。潮涸不得進。時熊鰐更還之。自洞奉迎皇后。則見御船不進。惶懼之。忽作魚沼。鳥池悉聚魚鳥。皇后看是魚鳥之遊而忿心稍解。及潮滿即泊于崗津。
 又筑紫伊覩縣主祖五十迹手。聞天皇之行。拔取五百枝賢木。立于船之舳艫。上枝掛八尺瓊。中枝掛白銅鏡。下枝掛十握釼。參迎于穴門引嶋而獻之。因以奏言「臣敢所以獻是物者。天皇如八尺瓊之勾以曲妙御宇。且如白銅鏡以分明看行山川海原。乃提是十握釼平天下矣」。天皇即美五十迹手曰「伊蘇志」。故時人號五十迹手之本土。曰伊蘇國。今謂伊覩者訛也。

 己亥。到儺縣。因以居橿日宮。
 秋九月乙亥朔己卯。詔群臣以議討熊襲。時有神託皇后而誨曰「天皇何憂熊襲之不服。是膂完之空國也。豈足擧兵伐乎。愈茲國而有寶國。譬如處女之睩。有向津國。(睩。此云麻用弭枳。)眼炎之金銀彩色多在其國。是謂栲衾新羅國焉。若能祭吾者。則曾不血刄。其國必自服矣。復熊襲爲服。其祭之。以天皇之御船及穴門直踐立所獻之水田名大田。是等物爲幣也」。
 天皇聞神言。有疑之情。便登高岳遥望之。大海曠遠而不見國。於是。天皇對神曰「朕、周望之。有海無國。豈於大虚有國乎。誰神徒誘朕。復我皇祖諸天皇等盡祭神祇。豈有遺神耶」。時神亦託皇后曰「如天津水影押伏而我所見國。何謂無國。以誹謗我言。其汝王之。如此言而遂不信者。汝不得其國唯今皇后始之有胎。其子有獲焉」。
 然天皇猶不信。以強撃熊襲。不得勝而還之。
 九年春二月癸卯朔丁未。天皇忽有痛身。而明日崩。時年五十二。即知。不用神言而早崩。(一云。天皇親伐熊襲中賊矢而崩也。)

 仲哀天皇8年1月21日、神功皇后は、仲哀天皇と共に行宮・筑紫橿日宮(つくしのかしひのみや。福岡県福岡市東区香椎の香椎宮)へ移動。
 占いを行うと、神功皇后は神懸った。神託(託宣)の内容は「熊襲国のような荒れて痩せた国を攻めても意味はない。金銀財宝のある新羅国を攻めるべし」というものだった。
 仲哀天皇は、北を見たが、新羅国は見えなかった。それでこの神託を疑い「嘘を付くのはどこの神だ?(私達が祀っている日本の神ではないだろう)」と言うと、神は、「私が嘘を? ならば、熊襲国を攻めるが良い。汝は国を保てず、神功皇后のお腹の中の子が国を保つであろう」と言った。
 仲哀天皇は、熊襲を攻めたが、空しく敗走。翌・仲哀天皇9年2月5日に行宮・筑紫橿日宮にて急死。享年52。神のお言葉を信じなかった(神に背いた)ので早世したと言うが、一書には、熊襲の矢が当たって崩御したとある。

■『日本書紀』(巻9巻)「神功紀」
 氣長足姬尊、稚日本根子彦大日々天皇之曾孫、氣長宿禰王之女也。母曰葛城高顙媛。足仲彦天皇二年、立爲皇后。幼而聰明叡智。貌容壯麗。父王異焉。
 九年春二月、足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后傷天皇不從神教而早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶國。是以、命群臣及百寮、以解罪改過、更造齋宮於小山田邑。

 気長足姬尊(神功皇后。じんぐうこうごう)の父は、開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は、新羅王子を自称する天日槍の子孫・葛城高顙媛である。仲哀天皇2年に立后。幼い時から聡明で、容貌もよい才色兼備の女性であった。
 仲哀天皇9年2月、仲哀天皇が筑紫橿日宮で崩御された。神功皇后は、仲哀天皇が神のお告げに従わなかったことを残念に思い、まずは、小山田斎宮(おやまだのいつきのみや。福岡県糟屋郡久山町山田の斎宮)を建てさせた。

■『日本書紀』(巻9巻)「神功紀」
 三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴。喚中臣烏賊津使主、爲審神者。因以千繒高繒、置琴頭尾、而請曰、「先日教天皇者誰神也。願欲知其名」。
 逮于七日七夜、乃答曰、「神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉」。亦問之、「除是神復有神乎」。答曰、「幡荻穗出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也」。問、「亦有耶」。答曰、「於天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神有之也」。問、「亦有耶」。答曰、「有無之不知焉」。於是、審神者曰、「今不答而更後有言乎」。則對曰、「於日向國橘小門之水底所居、而水葉稚之出居神、名、表筒男、中筒男、底筒男神之有也」。問、「亦有耶」。答曰、「有無之不知焉」。遂不言且有神矣。時得神語、隨教而祭。

 仲哀天皇9年3月1日、神功皇后は、小山田斎宮に入り、自らは神主、武内宿禰に(神を呼ぶために)琴を弾かせ、中臣・烏賊津使主(いかつのおみ)を審神者(さにわ。神託を聞いてその意味を解釈する人)として、神を呼び出し、仲哀天皇に神託を与えた神の名を問うと、
「私は、伊勢国度会県の五十鈴宫の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命である」
(伊勢国伊勢神宮境内社荒祭宮の祭神・天照大神(荒魂)である)
と言うので、
「他にもおられるか?」
「尾田吾田節之淡郡の神」
説①尾田(三重県鳥羽市加布良古)吾田節(答志郡)の淡郡(粟嶋)の神
=志摩国答志郡の粟島坐伊射波神社(三重県鳥羽市安楽島町)の稚日女尊
・ 皇大神宮別宮伊雑宮(三重県志摩市磯辺町上之郷)の天照大神御魂
・志摩国一宮・伊射波神社(三重県鳥羽市安楽島町)の稚日女尊
説②私の説:吾田節=あがたぬし
・「尾田吾田節之淡郡」=「志摩国尾田県の県主が治める粟島(安楽島)」
・式内・粟島坐伊射波神社の稚日女尊(天照大神の妹神)
説③阿波国阿波郡(徳島県阿波市)の赤田(あかんた)神社の経津主神
・「節(ふし)=経津(ふつ)」説
※「吾田」は「神吾田津姫(木花開耶姫)」を思い起こさせるが、「神功紀」を読み進めると、祀られている神は、神吾田津姫でも、経津主神でもなく、稚日女尊であることが分かる。
「他にもおられるか?」
「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神」
(事代主神)
「他にもおられるか?」
「さて」
と、とぼけるので、審神者・烏賊津使主が問い詰めると、
「表筒男、中筒男、底筒男神」
(住吉三神)
と(最も深く関係した神の名を)白状した。
「他にもおられるか?(まだ隠してないか?)」
「もういない」
と言うので、それらの神々を祀った。

■『日本書紀』(巻9巻)「神功紀」
 一云、足仲彦天皇、居筑紫橿日宮、是有神、託沙麼縣主祖內避高國避高松屋種、以誨天皇曰、「御孫尊也、若欲尋寶國耶、將現授之」。便復曰、「琴將來以進于皇后」。則隨神言、而皇后撫琴。於是、神託皇后、以誨之曰、「今御孫尊所望之國、譬如鹿角。以無實國也。其今御孫尊所御之船及穴戸直踐立所貢之水田、名大田爲幣、能祭我者、則如美女之睩、而金銀多之、眼炎國以授御孫尊」。時天皇對神曰、「其雖神何謾語耶。何處將有國。且朕所乘船、既奉於神、朕乘曷船。然未知誰神。願欲知其名」。時神稱其名曰、「表筒雄、中筒雄、底筒雄、如是稱三神名」、且、重曰、「吾名、向匱男聞襲大歷五御魂速狹騰尊也」。時天皇、謂皇后曰、「聞惡事之言坐婦人乎。何言速狹騰也」。於是、神謂天皇曰、「汝王如是不信、必不得其國。唯今皇后懷姙之子、蓋有獲歟」。是夜天皇忽病發以崩之。然後、皇后隨神教而祭。
(中略)
 於是、從軍神・表筒男・中筒男・底筒男、三神誨皇后曰、「我荒魂、令祭於穴門山田邑也」。時、穴門直之祖・踐立、津守連之祖・田裳見宿禰、啓于皇后曰、「神欲居之地、必宜奉定」。則以踐立、爲祭荒魂之神主。仍祠立於穴門山田邑。

 一書によると、仲哀天皇が筑紫橿日宮で神託をお伺いした時、沙麼県主(さばのあがたぬし)の先祖・内避高国避高松屋種(うつひこくにひこまつやだね)が神がかりして、
「琴を持ってきて神功皇后に弾かせよ」
と言うので、そうすると、今度は神功皇后が神がかりして、
「今、汝(仲哀天皇)が願われる熊襲国は、鹿の角のように中味のない国である。汝の船と水田を供えて、私を祀れぱ、金銀の多い新羅国を授けよう」
と言われた。
 仲哀天皇は神に、
「嘘を言うな。そんな裕福な国はない。また、船を渡したら移動手段が無くなる。名を名乗れ」
と言うと、神は、
「住吉三神(表筒雄、中筒雄、底筒雄)」
と答え、さらに、
「我が名は、住吉大神こと向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかいつをもおそおういつのみたまはやさのぼりのみこと)である。汝が信じないならば、 その国を得られないだろう。ただし、今、神功皇后の腹の中にいる子は、得られるだろう」
と言った。
 この夜、仲哀天皇は急病で崩御した。
 神功皇后は、神の教えのままに祀った。
(中略)
 神功皇后軍に従った表筒男、中筒男、底筒男の住吉三神は、神功皇后に、
「我が荒魂を穴門の山田村に祀りなさい」
と言われた。
 穴門直(あなとのあたい)の先祖・践立(ほむたち)、津守連(つもりのむらじ)の先祖・田裳見宿禰(たもみのすくね)が神功皇后に申し上げて、
「神が『ここに住みたい』と思われる地を定めましょう」
と言った。
そこで践立を住吉三神の荒魂をお祀する神社の神主とし(後に津守氏を住吉垰大社の神主とし)、「式内・住吉坐荒御魂神社」を穴門の山田村に建てた(山口県下関市一の宮住吉の住吉神社)。

■『日本書紀』(巻9巻)「神功紀」
 時、麛坂王・忍熊王、共出菟餓野、而祈狩之曰、「祈狩、此云于氣比餓利。若有成事、必獲良獸也」。二王各居假庪。赤猪忽出之登假庪、咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰、「是事大怪也。於此不可待敵」。則引軍更返、屯於住吉。
 時、皇后聞忍熊王起師以待之、命武內宿禰、懷皇子、横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。于時、皇后之船、𢌞於海中、以不能進。更還務古水門而卜之。
 於是、天照大神誨之曰、「我之荒魂、不可近皇居。當居御心廣田國」。卽以山背根子之女葉山媛令祭。
 亦、稚日女尊誨之曰、「吾欲居活田長峽國」。因以海上五十狹茅令祭。
 亦、事代主尊誨之曰、「祠吾于御心長田國」。則以葉山媛之弟長媛令祭。
 亦、表筒男、中筒男、底筒男、三神誨之曰、「吾和魂宜居大津渟中倉之長峽。便因看往來船」。於是、隨神教以鎭坐焉。則平得度海。

(三韓征伐を行い、帰国した神功皇后は、筑紫で誉田別尊を出産した。)
 仲哀天皇の長男・麛坂王&次男・忍熊王は、誉田別尊を排除しようと出兵し、菟餓野(とがの)で「この戦いに勝てるならば、良い猪が捕れる」と誓約(うけい)の狩りを行ったところ、突然現れた獰猛な赤い猪に麛坂王は食い殺されてしまったので、「これは凶兆である」と解した忍熊王は住吉まで撤退した。
 神功皇后は難波に向かうが、船がぐるぐる回って進まなくなってしまった。そこで、占うと、伊勢神宮の天照大神、粟島坐伊射波神社の稚日女尊、事代主神、住吉三神が、広田、生田、長田、住吉に「祀れ」と言うので、祀ると、船は進んだ。
・天照大神が「私の荒魂を近くに置くのはよくないので、広田国(兵庫県西宮市大社町の廣田神社)に祀れ」と言うので、山背根子の娘・葉山媛(はやまひめ)に祀らせた。
・稚日女尊が「活田長峽国(兵庫県神戸市中央区下山手通の生田神社)にいたい」と言うので、海上五十狹茅(うなかみのいさち)に祀らせた。(「稚日女」は、「若く瑞々しい日の女神」という意味である。丹生都比賣神社では、稚日女尊を「天照大神の妹神」(日の女神の若い方)としているが、生田神社では、稚日女尊を「天照大神の幼名」(幼い時の天照大神)とする。「神功紀」では、天照大神と稚日女尊が同時に登場しているので、稚日女尊は「天照大神の妹神」であると考えた方がよかろう。)
・事代主尊が「長田国(兵庫県神戸市長田区長田町の長田神社)に祀れ」と言うので、葉山媛の妹・長媛(ながひめ)に祀らせた。
・住吉三神(表筒男神、中筒男神、底筒男神)が「私の(荒魂は既に穴門山田村の住吉坐荒御魂神社に祀られているので)和魂を大津渟中倉長峽(おおつのなむくらのながお)に祀れば、船を見守ることができる」と言った。この神社については2説ある。
①摂津国一之宮・住吉大社(大阪府大阪市住吉区住吉)
②本住吉神社(兵庫県神戸市東灘区住吉町)
※この時、住吉三神を祀ったのは住吉大社だというが、①住吉大社があるのは住吉であり、その住吉には忍熊王がいたと書いてあり、②神功皇后が向かったのは、住吉大社の手前の難波と書いてあり、③「便因看往來船」は、湊に発着する船ではなく、瀬戸内海を往来する船であるので、この時、住吉三神を祀ったのは住吉大社ではなく、本住吉神社であろう。住吉大社が祀られたのは、神功皇后摂政11辛卯年だという。
(忍熊王は撤退し、最終的には瀬田川の渡りで入水自殺した。群臣は神功皇后を尊んで「皇太后」と呼び、この辛已の年を「神功皇后摂政元年」とした。)

■『日本書紀』(巻9巻)「神功紀」
 卅九年。是年也、太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也」。
 卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也」。
 卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻」。
(中略)
 五十五年、百濟肖古王薨。
 五十六年、百濟王子貴須立爲王。

 神功皇后摂政39己未年。『魏志倭人伝』によると、「明帝の景初3年6月、倭国の女王は、大夫・難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子の謁見を求めて、貢物を持ってきた。太守・鄧夏は、役人を付き添わせて、洛陽に行かせた」という。
 神功皇后摂政40年、『魏志』によると、「正始元年、建忠校尉・梯携らを遣わして、詔書や印綬を持たせ、倭国に行かせた」という。
 神功皇后摂政43年、『魏志』によると、「正始四年、倭国王は、また使者の大夫・伊声者掖耶ら8人を遣わして、献上品を届けた」という。
(中略)
 神功皇后摂政55年、百済国の肖古王(しょうこおう)が薨じた。
 神功皇后摂政56年、百済国の皇子である貴須(くるす)が王となった。

3.感想


神功皇后を助ける神は、
・天津神の最高神・天照大神
・国津神の最高神・大国主命
かと思いきや、
・天照大神の荒魂「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」
・稚日女尊(天照大神の妹)「尾田吾田節之淡郡坐神」
・事代主尊(大国主命の子)「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神」
・住吉大神(住吉三神)「向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊」
というメンバーであることが意外である。
 そして、特に「住吉大神」の協力が目立つ。「住吉大神」が北九州の神だからであろうか?

 側室:大中姫命
  ‖─麛坂皇子&忍熊皇子
仲哀天皇
 ‖─応神天皇(八幡大神)
正室:神功皇后

あと、かわいそうなのは、神功皇后より先に仲哀天皇と結婚して麛坂皇子&忍熊皇子を生んだ大中姫命で、正室(皇后)になっていない。これは、持統天皇の姉・大田皇女のケースと同じである。

 側室:大田皇女
  ‖─大来皇女&大津皇子
天武天皇
 ‖─草壁皇子(天皇になる前に早世)─文武天皇
正室:持統天皇

※持統天皇は、草壁皇子を天皇にしようとして、大津皇子に謀反の罪をきせて自害させたという。ところが草壁皇子が早世したので、天皇は、持統天皇の孫・軽皇子(かるのみこ。後の文武天皇)が継いだ。これは、天照大神が子・天忍穂耳尊ではなく、孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊に日本国を支配させたこと(「天孫降臨」)に似ている。
 『日本書紀』によって、持統天皇の行為(後から結婚して正室になったり、孫に継がせたりしたこと)は「前例がある」と正当化されている。
※「持統」の意味は、「軽皇子が成長するまでの中継ぎの女性天皇」とも、「大津皇子など天武系統を排除し、天智系統を復活させた女性天皇」とも。

4.考察


 「神功紀」を読んでいると、突然『魏志』からの引用が載っていて困惑する。『日本書紀』の編者は、
 ──仲哀天皇の摂政・神功皇后を卑弥呼
 ──神功皇后の妹・豊姫を台与
ということにしたいのであろう。
 ついでに言えば、
 ──伊勢神宮、内宮(卑弥呼=天照大神)、外宮(台与=豊受大神)
 ──高良大社、高良玉垂命(住吉大神)、高良玉垂姫命(豊姫命=台与)
https://note.com/sz2020/n/naea9eea377d4
としたい?(伊勢神宮の内宮の神も、高良玉垂命も饒速日命であろうが。)

 『日本書紀』では神功皇后摂政55年(255年)に百済国の肖古王が薨じたというが、肖古王が薨じたのは375年であることが分かっている。神功皇后摂政55年と干支は同じであるが、『日本書紀』では、2まわり(120年)前として、神功皇后が生きていた時を、『魏志倭人伝』の倭国の女王・卑弥呼が生きていた時に合わせたいようである(本居宣長「干支二運繰り上げ説」)。
 この120年間(255~375)は「倭国大乱」と言う戦国時代であったろう。そして、西日本の国々をまとめた応神天皇は、首都を北九州から畿内に東遷させたと思われる。
 北九州の応神天皇は、北九州の卑弥呼の子孫なのか?
 応神天皇は、畿内の天皇家とは関係のない人で、王朝交替があったのか?

 ──『日本書紀』に史実を書いていてくれれば、混乱しないで済むのに。

 史実を書いてくれなかったおかげで、「ああでもない、こうでもない」と空想して楽しめるのではあるが。

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