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『熱田神宮異聞』藤原師長の琵琶

■熱田大神と藤原師長と琵琶

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1179年(治承3年)、太政大臣藤原師長が平清盛により都を追われ尾張国井戸田荘(名古屋市瑞穂区)に来ました。
琵琶の名手であった師長は、帰郷を願って熱田神宮の神前で秘曲の「流泉」などを演奏したところ、大神は感動され社殿が揺れ動き、人々も感銘したといわれます。そののち、師長は罪を許され都に帰るとき、愛器白菊の琵琶を当神宮に奉納し、現在その写しの琵琶が残されています。

 治承3年(1179年)11月、太政大臣・藤原師長は、尾張国に流罪で(一説に自主的に)来ました。愛知県名古屋市瑞穂区土市町の嶋川稲荷に「藤原師長謫居趾」碑があります。名古屋市営地下鉄名城線「妙音通駅」(愛知県名古屋市瑞穂区妙音通3丁目)、愛知県名古屋市瑞穂区師長町琵琶ヶ峯、山崎川に架かる師長橋師長小橋といった藤原師長(妙音院)にちなんだ地名等が残っています。(と言っても、昭和時代につけられた地名であるが・・・。)

 琵琶の名手であった藤原師長は、ある日、熱田神宮の神前で秘曲「流泉」などを演奏したところ、人々が感動しただけではなく、熱田大神(素盞烏尊?)も感動され、社殿が鳴動し、すだれが揺れると、熱田大神が白い狸に乗って現れ、「帰京の所願疑なし。必復本位給べし」(京都へ帰られる。復位もされる)と言うと、実際、そうなりました。
 藤原師長は、帰京する時に、愛器「白菊」を熱田神宮に奉納したといいますが、別の説もあります。藤原師長は、帰京する時に、愛器「白菊」と守り本尊の薬師如来像を横江時景の娘・槐(かい)/槐女(かいじょ)に形見として土器野里(かはらけののさと。今の枇杷島)で渡しますが、槐は、池(後の琵琶池)で、琵琶「白菊」に
  四つの緒の調べもたえて三瀬川 沈み果てぬと君に伝えよ
と書いて入水自殺しました。槐は市寸島神社(旧・琵琶塚弁財天。愛知県清須市西枇杷島町宮前)の小場(こば)塚(「こば」は「おば」の転訛)に葬られました。これが愛知県名古屋市西区枇杷島町白菊町の地名の由来です。

 ──16歳の少女が「おば」?

実は、槐は入水自殺せず、出家して竜泉尼と名乗り、「おば御前」と呼ばれて90歳まで生きたそうです。そして、亡くなると小場塚に葬られたそうです。

★参考記事:『「洋ちゃん」のひとりごと』
「琵琶塚弁財天社(現、市寸島社)を訪ねる…藤原師長ゆかりの地」
https://ameblo.jp/kakashiyo/entry-12345801492.html

※源博雅(918-980):雅楽に優れ、楽道の伝承は郢曲を敦実親王に、箏を醍醐天皇に、琵琶を源脩に、笛は大石峰吉、篳篥は峰吉の子・富門と良峰行正に学んだ。朱雀門の鬼から名笛「葉二(はふたつ)」を得、琵琶の名器「玄象」を羅城門から探し出し、逢坂の蝉丸のもとに3年間通いつづけて遂に琵琶の秘曲「流泉」「啄木」を伝授された。映画『陰陽師』『陰陽師II』では、主人公・安倍晴明のパートナーとして伊藤英明さん(『麒麟がくる』の斎藤義龍(高政))が演じておられる。

※藤原師長(もろなが。1138-1192):太政大臣という人臣最高位まで昇りつめた人物であるが、生涯2度の配流(「保元の乱」で土佐、クーデターで尾張)により、政治家としては不遇におわったが、音楽家としては、琵琶の演奏など、非凡な才能を発揮し、大篳篥の名手・源博雅を超える「雅楽の天才」と言われている。また、太政大臣という身分を利用し、あらゆる楽家の秘曲、秘伝を伝授された(させた?)。そして、学芸(特に音楽)の守護神・妙音弁才天を信仰し「妙音院」と号した。

熱田社(現在の熱田神宮):「年へたる森の木間より、漏り来る月のさし入りて、緋玉垣色をそへ、和光利物の榊葉に、引立標縄(しめなわ)の兎に角に、風に乱るゝ有様、何事に付けても神さびたる気色也。此の宮と申すは、素盞烏尊、是れ也。始めは出雲国の宮造りして、「八重立雲」と云ふ31字の言葉は、此の御時より始まれり。景行天皇御宇に此の砌に、跡をたれ給へり」(『源平盛衰記』)
 熱田神宮は木々に囲まれ、神さびたる雰囲気の神社である。御神体は草薙剣で、御祭神は、現在は「草薙剣に依る天照大神」となっているが、『源平盛衰記』では「草薙剣に依る素盞烏尊」としている。

※参考記事:「熱田神宮の御祭神はどなた?」
https://note.com/sz2020/n/n3a43311cfcf5

素盞烏尊が詠んだ
  八雲立つ出雲八重垣妻籠に 八重垣作るその八重垣を
は日本初の和歌とされる。荒々しいイメージの素盞烏尊だが、学芸に造詣が深いのであろう。八坂神社では7月23日に鎮魂の「祇園祭琵琶奉納」が行われる。
 なお、景行天皇の子・日本武尊は、素盞烏尊の生まれかわりとされている。

■『源平盛衰記』12巻(前半)
「大臣以下流罪事」

 同7日に妙音院太政大臣師長は、参河国へとは披露有けれども、実には尾張国井戸田へ流罪とて、都を出され給けり。
 此大臣は去保元元年に、中納言中将と申て、御歳20にて御座ける時、父宇治悪左府の世を乱り給し事に依て、兄弟4人土佐国へ流され給たりけるが、御兄の右大将兼長卿も、御弟の左中将隆長朝臣も、範長禅師も、配所にて失給にき。
 此は9年をへて、長寛2年6月27日に被召返、其年の閏10月13日に本位にかへし。次年8月17日に正二位し給て、仁安元年11月5日、前中納言より権大納言に移り給ふ。大納言のあかざりければ、員の外に加給けり。大納言6人になる事、是より始れり。又前中納言より、大納言に移る事も、先蹤希也とぞ承る。阿波守藤原真作の子後山階大臣三守公、源大納言俊賢の子、宇治大納言隆国卿の外、其例希也。
 此大臣は管絃の道に達し、才芸人に勝れ給て、君も臣も奉重しかば、次第の昇進不滞、程なく太政大臣に上らせ給へりしに、「いかなる事にて又係御目に合せ給らん」と、人々歎申けり。
 16日の晩に、山階まで出奉りて、同17日の暁、深く出給へば、会坂山に積る雪、四方の梢も白して、遊子残月に行ける、函谷の関を思出て、是や此延喜第4の御子、会坂の蝉丸、琵琶を弾じ和歌を詠じて嵐の風を凌つつ、住給けん藁屋の跡と心ぼそく打過て、打出浜粟津原、未夜なれば見分ず。抑「昔、天智天皇御宇、大和国飛鳥の岡本の宮より、当国志賀郡に移て、大津宮を造たり」と聞にも、「此程は皇居の跡ぞかし」と思ひ出て、あけぼのの空にも成行ば、勢多の唐橋渡る程、湖海遥に顕て、彼の満誓沙弥が比良山に居て、「漕行舟の跡の白波」と詠じけんも哀也。野路宿にも懸ぬれば、枯野の草に置る露、日影に解て旅衣、乾間もなく絞りつゝ、篠原の東西を見渡せば、遥に長堤あり。北には郷人棲をしめ、南には池水遠く清めり。遥の向の岸の汀には、翠り深き十八公、白波の色に移りつゝ、南山の影を浸ねども、青して滉瀁たり。州崎にさわぐ鴛鴦鴎の、葦手を書ける心地して、鏡宿にも著ぬれば、むかし扇の絵合に、「老やしぬらん」と詠じけんも、此山の事也。去程に師長は武佐寺に著給ふ。峰の嵐夜ふくる程に身に入て、都には引替て、枕に近き鐘の声、暁の空に音信て、「彼の遺愛寺の草庵の、ねざめも角や」と思ひ知れつゝ、蒲生原をも過給へば、老曽森の杉村に、梢に白く懸る雪、朝立袖に払ひ敢ず、音に聞えし醒井の、暗き岩根に出水、柏原をも過ぬれば、美濃国関山にも懸りつゝ、谷川、雪の底に声咽嵐、松の梢に時雨つゝ、日影も見えぬ木の下路、心ぼそくぞ越え給ふ。「不破の関屋の板廂、年へにけり」と見置つゝ、妹瀬川にも留給ふ。此は霜月20日に及ぶ事なれば、皆白妙の晴の空、清き河瀬にうつりつゝ、照月波もすみわたり、二千里外古人心、想像旅の哀さ最深し。去程に尾張の井戸田の里に著給。保元の昔は西海土佐の畑に被遷て、愛別離苦の怨を含、治承の今は、東関尾張国へ被流、怨僧会苦の悲を含給。但し心ある人は「皆罪なくして配所の月を見ん」と願事なれば、大臣彼唐太子賓客白楽天の、元和15年の秋、九江郡の司馬に被左遷、潯陽江側に遊覧し給ける古きことに思慰て、鳴海潟塩路遥に遠見して、常は朗月を望、浦吹風にうそぶきつゝ、琵琶を弾じ和歌を詠じて、等閑に日を送り給けり。
 或夜当国第三宮・熱田の社に詣し給へり。年へたる森の木間より、漏り来月のさし入て、緋玉垣色をそへ、和光利物の榊葉に、引立標縄の兎に角に、風に乱るゝ有様、何事に付ても神さびたる気色也。此の宮と申すは、素盞烏尊、是れ也。始めは出雲国の宮造りして、八重立雲と云31字の言葉は此の御時より始まれり。景行天皇御宇に此の砌に跡をたれ給へり。
「師長熱田社琵琶事」
 師長公終夜為神明納受、初には法施を手向奉り、後には琵琶をぞ弾じ給ける。調弾数曲を尽し、夜漏及深更で、流泉(りゅうせい)、啄木(たくぼく)、揚真藻(ようしんそう)の3曲を弾給処に、本より無智の俗なれば、情を知人希也。邑老村女魚人野叟参り集り、頭を低欹耳といへども、更に清濁を分ち、呂律を知事はなけれ共、瓠巴琴を弾ぜしかば魚鱗踊躍き。虞公謌を発せしかば、梁塵動揺けり。物の妙を極る時は、自然の感を催す理にて、満座涙を押へ、諸人袂を絞けり。増て神慮の御納受さこそは嬉く覚すらめ。暁係て吹風は、岸打波にや通らん、五更の空の鳥の音も、旅寝の夢を驚す。夜もやうやうあけぼのに成行ば、月も西山に傾く。大臣御心をすまして、初には、
  普合調中花含粉馥気、流泉曲間月挙清明光、 
と云朗詠して、重て、
  願以今生世俗文字業狂言綺語之誤、翻為当来世々讃仏乗之因転法輪之縁
と被詠て、御祈念と覚しくて、暫物も仰られず。良ありて御琵琶を掻寄て、上玄(じょうげん)、石像(せきしょう)と云ふ秘曲を弾澄給へり。其声凄々切々として又浄々たり。■々窃々として錯雑弾、大絃小絃の金柱の操、大珠小珠の玉盤に落るに相似たり。御祈誓の験にや、御納受の至か、神明の感応と覚くて、宝殿大に動揺し、■振玉の簾のさゞめきけり。霊験に恐て大臣暫琵琶を閣給けり。神明白貍に乗給示して云、
「我、天上にしては文曲星(もんぎょくしょう)と顕て、一切衆生の本命元辰として是を化益し、此の国に天降りては、赤青童子(しゃくしょうどうじ)と示して、一切衆生に珍宝を与、今此社壇に垂跡して年久。而を汝が秘曲に不堪、我、今、影向せり。君、配所に下り給はずは、争此の秘曲を聞べき。帰京の所願疑ひなし。必復本位給ふべし」
と御託宣有て、明神上らせ給たりしかば、諸人身毛竪て奇異の信心を発す。大臣も平家係る悪業を致さずは、今此瑞相を可奉拝や、災は幸と云事は、加様の事にやと感涙を流し給ても、又末憑しくぞ覚しける。抑此曲と申は、仁明天皇御宇、承和2年に、掃部頭貞敏、遣唐使として牒状を賜り、観密府に参じ、上覧に達して、琵琶の博士を望申れしに、開成2年の秋の比、廉承武を被送て、秘曲を被授、我朝に伝しは、流泉、啄木、楊真操の3曲也。其後村上帝御宇、朗月明々として澄渡り、秋風さつ/\として物哀なる夜、御心をすまし、昼御座の上にして、玄象と云琵琶を、水牛の角の撥にて弾じすまさせ給ひ、小夜深人定るまで唯一人御座有けるに、一叢の雲南殿の廂に引覆、影の如なる者空より飛参て、琵琶の音に合て舞侍ければ、何者ぞと問せ給ふ。「我は是、大唐の琵琶の博士、劉次郎廉承武也。琵琶を極めて仙を得たり。御琵琶の撥音のいみじさに参たり。去承和の比、遣唐使貞敏に3曲を授て、今、2曲を残せり。君の玄象の御調べの目出きに、貞敏に惜て秘蔵したりし曲也。授け奉らん」と申せば、聖主叡感の気ましまして、御琵琶を差遣たりければ、掻直して、「此は廉承武が琵琶也。貞敏に2賜ひたりし内也」と申して、終夜、御談話有て、上玄、石象の2曲を奉授、仙人即飛去ぬ。帝御名残惜く思召、雲井遥に叡覧ありて、感涙を流させ給し曲也。
 「三曲」と云時は、流泉、啄木、楊真操是也。「五曲」と云時は、上玄、石象を具すとかや。係る目出き曲なれば、廉承武も貞敏には惜て伝ざりし曲也。玄象と云も、又彼仙人の琵琶也。希代の重宝なりければ、清暑堂の御厨子に、ふかく被納たり。(異本に云ふに「此の曲と申すは、かたじけなく、霊仙玉廂軒にして操学、神楽につたへし妙調、堯採館の月の下に、承武が攘■に立翔り、天子にさづけし秘曲也」と。)
 此師長公、保元の昔西国へ流され給しに、年12、3計りと見えて、優なる童1人御舟に参て、朝夕に仕へけり。彼国近く成て、童、暇を申て罷さらんとしければ、大臣、之を怪しみ、「汝は何の国のいかなる者ぞ」と問給へば、「京都に侍る者也。君の流罪の由を承て、路の程の御徒然に参りたり」と申す。都にても御覧たりとも覚えず、「京は何所ぞ」と尋ね給ひければ、「大内裏に常に出入侍也」と申す。「我、内裏に奉公して年久し、去れ共、懸る童在とも不覚者をや」とて、能々尋給ければ、「清涼殿の御節の箱に、玄上と申す琵琶也」とて、掻消様に失にけり。されば師長流罪の後は、玄上の甲はなれ絃切て、天下の騒にぞ有ける。理や西国までましましたりければ也。

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