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『鎌倉殿の13人』39「穏やかな一日」再放送を視聴 -北条朝時の失態-

ドライフルーツ(?)をわし掴みする「品の無い男」北条朝時が突然登場した感が強い。

※北条次郎朝時:北条義時と比企氏の姫の前の子。北条義時の次男であるが、長男の北条太郎泰時は側室の子であったので、北条次郎朝時は、正室の子としては長男であり、嫡男であったと考えられる。「朝」は、将軍・源実朝より与えられた偏諱だと思われ、祖父・北条時政の屋敷であった名越邸を継承し、名越次郎朝時とも、相模守・北条義時の次男であるので相模次郎朝時とも呼ばれた。(北条次郎朝時は、越後守、遠江守と歴任したが、相模守にはなっていない。)前途洋々な人物であったが、失態を演じた。

★『鎌倉殿の13人』での北条朝時
①阿波局(『鎌倉殿の13人』では、北条実衣)が、「源実朝が正室と別床」と侍女から聞き、源実朝に側室をもうけようとした。
②立ち聞きした和田義盛が「側室には声の大きな女子(おなご)がいい」と言い、源実朝も同意した。
③源実朝の側室候補に、声の大きな女子・よもぎが選ばれた。
源実朝「あなたを側室にするつもりは、ない」
よもぎ「失礼させていただきます」
源実朝「待ちなさい。すぐに帰ったら、そなたの立場もあるだろう。少し、話でもしよう。困っていることでも無いか?」
よもぎ「ひどい男にひっかかってしまいました。妻にすると言っていたのに、散々弄んだ挙句、別の女子をつくって捨てられてしまいました」
源実朝「鎌倉にそんなひどい男がいるのか」
この「そんなひどい男」が北条朝時である。

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                 ▲相模次郎朝時、局松島へ艶書を贈図

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              ▲朝時、御所に忍入、朝比奈に見顕さるる図

北条義時「どういうつもりだ? 御所にお仕えする女房に手を出すとは」
北条朝時「父上からどうか、鎌倉殿にとりなしていただけませんか?」
北条義時「軽々に私を頼りおって。お前には父を超えようという気概はないのか?」
北条朝時「あるわけないです。そんな大それたことを」
北条義時「もうよい」

以上が、『鎌倉殿の13人』での親子の会話であるが、『吾妻鏡』には、昨日の記事「星月夜鎌倉 」に書いたように、「北条義時は、親子の縁を切った」とある。夜這いは当時の風習であって、親子の縁を切るほどのことではない。『鎌倉殿の13人』の親子の会話からは「(身分の低い女性の家に夜這いに入るのは良いが)御所にお仕えする女房(京都から来た藤原氏の娘)は駄目」と読み取れるし、『鎌倉殿の13人』の北条義時は、北条朝時の不甲斐なさにあきれて追い返しただけで、親子の縁は切っていない。
 『鎌倉殿の13人』の北条朝時は、結婚詐欺師になっている。史実は不明だが、北条朝時が藤原親康(ちかやす。「親泰」とも表記)の娘・松島局に惚れて、艶書(ラブレター)を書いたが、断られたので、夜に御所に忍び込み、誘拐(拉致)しようとしたところを、和田義盛の三男・朝比奈義秀(母親は不詳。和田義盛と巴御前の子だというが、木曽義仲と巴御前の子だとも)に見つかって取り抑えられたという。北条義時は、「お前は北条家の恥だ」として、北条朝時と親子の縁を切った。松島局は、助けてくれた朝比奈義秀に一目ぼれし、婚約した。この事件を知った悪女・北条政子は、「甥・北条朝時がかわいそう」だとして、松島局に「婚約を破棄して、北条朝時と結婚せよ」と迫った。権力者・北条政子に逆らえない松島局は、悩んだ末に自害し、その結果、和田家(三浦一族)と北条家の関係は悪化し、北条泰時は正室(三浦義村の娘)と離婚し、安保実員(武蔵国安保(埼玉県児玉郡神川町元阿保)を本拠とする丹党の一族・安保氏の2代目 )の娘と再婚した。(『和田合戦女舞鶴』(歌舞伎「板額門破りの場」、通称『板額』で有名)では、北条義時と和田常盛が源実朝の妹・斎姫を奪い合い、仲介に入った和田胤長が斎姫を殺害したとするが、これは、近松門左衛門『ゑがらの平太』などによる創作である。また、『再桜遇清水』は、北条時政の娘・桜姫と千葉之助清玄(きよはる)の恋に和田胤長が横恋慕するという話である。)
 後に北条朝時は、北条義時との親子の縁を回復するも、北条泰時が覚醒し、父・北条義時を反面教師として「父を超えようという気概」を持って、偉大な政治家へと成長していくことになる。

建久5年(1194年)2月  2日 北条泰時、元服し、三浦義村の娘と婚約。
建仁2年(1202年)8月23日 北条泰時、三浦義村の娘と結婚。
建暦元年(1211年)9月8日 北条泰時、修理亮に任官。
建暦2年(1212年)5月  7日 北条義時、北条朝時を義絶し、駿河国へ追放。
 月日不詳 北条泰時、三浦義村の娘と離婚。
 月日不詳 北条泰時、安保実員の娘と再婚。
 月日不詳 次男・北条時実(北条泰時と継室・安保実員の娘の子)誕生。
建暦 3年(1213年)2月15日 「泉親衡の乱」が発覚。
         5月2&3日 「和田合戦(和田義盛の乱)」
建保4年(1216年) 3月28日 北条泰時、式部丞に遷任。
                               12月30日 北条泰時、従五位下に叙位。
建保6年(1218年)                  北条泰時、北条義時から侍所の別当に。
                                                  北条泰時、讃岐守に転任。
建保7年(1219年)1月  5日  北条泰時、従五位上に昇叙。
                                1月22日  北条泰時、駿河守に遷任。
                              11月13日  北条泰時、武蔵守に転任。
承久3年(1221年)6月16日  北条泰時、幕府六波羅探題北方に。
貞応3年(1224年)6月13日  北条義時、急死。
                                6月           「伊賀氏の変」
           6月17日  北条泰時、六波羅探題退任。
           6月28日  北条泰時、第3代執権となる。

「北条泰時の覚醒の契機」は、「和田合戦(の戦功で陸奥遠田郡の地頭職になったこと)」だとされる。確かに、「和田合戦」の前には有力御家人の娘との離婚もあって落ち込んでいたかもしれないが、すぐに再婚して子を儲け、「和田合戦」後には順調に出世し、北条義時が急死すると、「伊賀氏の変」(北条義時の正室(継室)・伊賀の方が、北条政村(北条義時と伊賀の方の子)を第3代執権にしようとした変)が起こるも、北条政子が鎮圧し、北条泰時が第3代執権となった。
 ただ、私は、「北条泰時の覚醒の契機」は、「和田合戦」よりも前の、北条義時が次男(嫡男)・北条朝時を義絶し、駿河国へ追放したことだと考えている。次男(嫡男)の追放を契機に、「側室の子ではあるが、長男である自分がしっかりせねば」という自覚が生まれて覚醒し、頑張り始めたので、「和田合戦」で戦功をあげられたと考えている。

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