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第5回「瀬名奪還作戦」(復習)

永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月26日 「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日   「元康」から「家康」に改名
永禄9年(1566年)5月     「三河国平定」(牛久保の牧野氏が従属)
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。三河守叙任。


 毎回、新しい人が登場する『どうする家康』──今回は服部半蔵と本多正信が出てきました。私のイメージは、
・服部半蔵は「神君伊賀越え」で活躍(「上ノ郷城攻め」は伊賀衆ではなく甲賀衆が活躍)
・本多正信は平和な時代になってから活躍した側近(吏僚派)
だったので「登場が早いな」と思いました。

本多正信は嫌われ者で、
松平元康「忠真、平八郎、そなたたちの縁者か?」
本多忠真「とんでもない。我ら本多家とは縁もゆかりもないやから」
本多忠勝「あれは偽本多じゃ。いかさま師じゃ」
と言われてましたが、本多は本多、縁者です。ただ本多家は5つに分かれていました。これを「五本多」といいます。「五本多」の内、「徳川四天王」本多忠勝を輩出した【平八郎家】が本家とされていますが、武功派の本多忠勝【平八郎家】も、吏僚派の本多正信【弥八郎家】も系図上は傍流で、系図上は伊奈本多氏【八郎家】が嫡流のようです。

            ┌定吉─正明─忠正【弥八郎家】………………本多正信
          ┌定正┴正吉─正経─秀清【彦三郎家】………………本多広孝
  本多助定─助政┴定通─定忠─定助┬正時┬正助【八郎家】…………本多忠俊
                
 │  └信正【作左衛門家】…本多重次
                  
└助時【平八郎家】………………本多忠勝

 感想文/感想動画は、「ここが良かった/悪かった」と思ったことを載せれば良い。
 解説文/解説動画は、
①分かりにくかった箇所の解説
②史実との違い
を載せれば良い。①に関しては、本作も前作も脚本が素晴らしく、こういう理由で、こうしたら、こうなったという流れが自然で、解説は必要ない。②に関しては、前作は公式サイトに時代考証の学者の解説や『吾妻鏡』の該当部分が載せられていたが、本作の公式サイトにはにはそれがない。(平山氏がツイートして下さっている。)
 次回「続・瀬名奪還作戦」については史実との違いを語れそうだが、今回の「瀬名奪還作戦」は創作と思われ、史実との違いを語れば、「すべて史実ではないです」のひとことで終わる。
 私が気になったのは、「服部党がどうやって駿府へ行き、どうやって岡崎へ戻ろうとしたか」である。
①駿府へは船で行ったのか、徒歩で行ったのか?
②大崩海岸(駿河湾沿いの静岡市駿河区石部から焼津市浜当目にかけて続く急崖の約4kmの海岸)には海蝕洞があるが、満潮時には海水が入り込むので人は住めない。(ホームレスが住んでいるのは1887年に開通したトンネル(廃隧道)である。) 
④服部党が本拠とした大崩海岸の海蝕洞から「日出の石門」(愛知県田原市)が見えていた。見えるとしたら虚空蔵山(当目山)のはず。
⑤瀬名姫の父親は持舟城主である。城山の山麓(現・用宗港)には多くの軍船が泊まり、商船も出入りしていた。竹千代(後の徳川家康)が岡崎に戻る時、商船に潜り込んだと伝えられている。(小舟では荒海として知られる遠州灘を越えられない。)
⑥本多正信が「夜陰に紛れて駿河の浜から船にお乗せしてしまえばこちらのもの。水野殿に師崎(もろざき)あたりの港をお借りし、お迎えすればよろしいかと」と言った。「矢作川を遡って岡崎城へ」では吉良領を通るのでまずいのか? 師崎とは、知多半島の先端、SKE48の聖地「羽豆岬」のことで、「桶狭間の戦い」で討ち死にした千秋氏の領地であった。


★今後の『どうする家康』
・第6回「続・瀬名奪還作戦」
・第7回「わしの家」
・第8回「三河一揆をどうする」
・第9回「守るべきもの」
・第10回「側室をどうする」
・第11回「信玄との密約」
・第12回「氏真」


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