嶋左近の5つの生存説と8基の墓
黒田長政の家臣たちが、酒の席で、「関ケ原の戦い」での「鬼神をも欺くと言ひける島左近が其の日の有様、今も猶、目の前に在るが如し」(島左近の勇姿が今も目に浮かぶ)というので、「具体的にはどんな姿か?」と聞くと、皆、違うことを言うので、元石田軍の3人を呼んで正解を聞いてみると、全然違った。こうして、あまりの恐ろしさに、誰もはっきりと見てはいなかったことが判明した。
この『常山紀談』の話は、隆慶一郎先生の『影武者 徳川家康』に次のように引かれている。
ちなみに、原文はこうである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/778667/1/72
嶋左近は、開戦早々に黒田隊の銃撃で被弾し、倒れたところまでは判明している。戸川達安が討ち取ったというが、嶋左近の兜はあっても、遺体は見つかっていないというので、現存する墓は、遺品を封じた供養塔ということであろうか?
──「嘉明の先手と戰切死せし大将は島左近也」と云へり。(『戸川記』)
・被弾し転倒:『落穂集』『黒田家譜』等
・戦死:『関ヶ原合戦誌』『関ヶ原軍記』『戸川記』等
・行方不明:『関ヶ原状』『慶長年中ト斎記』『武徳安民記』等
・佐和山城で自刃:『福島大夫殿御事』
・西国へ逃走:『古今武家盛衰記』
・対馬国へ逃走:『関ヶ原軍記大全』
「関ケ原の戦い」の直後、「西へ行く」と言って姿を消したという生存説もあり、実際、京都で嶋左近の目撃情報が相次いだ(『石田軍記』『古今武家衰退記』『関ヶ原御合戦当日記』)。とすると、現存する墓は、潜伏先で亡くなったので葬ったということであろうか?(『どうする家康』では、比較的に信用されている『慶長年中ト斎記』の記述を採用したのか、「行方不明」とした。)
■5つの生存説
①立本寺(京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上る一番町)の僧になり、寛永9年(1632年)に没して立本寺の塔頭・教法院の墓地に葬られたという。享年92。
②余吾(滋賀県伊香郡余呉町奥川並)に潜伏していたが、「徳川四天王」の井伊直政領になると、「このまま匿っていると罰せられる」と思った村民に寝込みを襲われ、落命した。隠れ住んだ「殿隠しの岩」、「島林」等の「島」地名が残る。(余呉町教育委員会編『余呉の民話』/平群史蹟を守る会編『烏兎』48&49号)
③静岡県浜松市天竜区にご子孫(名字は「嶌(しま)」。中学校の先生)が住んでおられた。第23代・嶌茂雄氏によれば、京都で潜伏後にやってきて、「嶌金八」と名を変えて農民に化けて住み、春になると自身の部下を集めて桜の木の下で酒宴を催したという。また居住地を「おおさか」と呼んだとされており、これは「大坂」のことだと推察されている。(『ふるさといむら』)
隆慶一郎先生は、嶌茂雄氏にインタビューし、静岡新聞(夕刊)の連載小説『影武者 徳川家康』では、島左近浜松生存説を採用した。
⓸熊本県熊本市の西岸寺には、島左近は、鎌倉光明寺で出家し、「泰岩」と名乗り、細川忠興に仕えて小倉に知足寺を建立し、細川忠利の肥後入国に際しては、細川忠利の命を受けて熊本に入り、情報収集に努めたという由来記が残る。
⑤陸前高田(岩手県陸前高田市高田町洞の沢)に潜伏して「島村甚兵衛」と名乗った(ご子孫の名字は「島村」)とか、浜田村(現・岩手県陸前高田市米崎町)に潜伏して「浜田甚兵衛」と名乗ったとか。(『気仙郡誌』)
【余談】東広島市西条の白牡丹酒造は、自社の創業に関し、古記録に「慶長五年九月 関ガ原の戦いに、島左近勝猛、西軍の謀士の長たりしも、戦に破れ、長男新吉戦死す。次男彦太郎忠正、母と共に京都に在りしが、関ガ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年酒造業を創む」とあるといい、同社の社長は島家が代々引き継いでいる。(『関ヶ原町史』は、母と共に京都にいた嶋左近の二男・嶋彦太郎忠正は、関ケ原の敗報に接し、西国へと逃れ、「坪島彦助」と改名して安芸国西条四日市に住んだというご子孫所有の古記録を紹介している。)
嶋左近の子は三男二女だという。
┏長男:新吉政勝(「関ケ原の戦い」で、丹羽平三郎に討たれる。)
┣次男:忠正(母と共に京都から西条へ)─?─島晴正(白牡丹酒造を開業)
┣三男:清正(消息不明)
┣長女:?(小野木重勝正室)
┗次女:珠(柳生利厳室)─柳生厳包(尾張藩剣術指南役・連也斎)
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