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嶋左近の5つの生存説と8基の墓

 黒田長政の家臣たちが、酒の席で、「関ケ原の戦い」での「鬼神をも欺くと言ひける島左近が其の日の有様、今も猶、目の前に在るが如し」(島左近の勇姿が今も目に浮かぶ)というので、「具体的にはどんな姿か?」と聞くと、皆、違うことを言うので、元石田軍の3人を呼んで正解を聞いてみると、全然違った。こうして、あまりの恐ろしさに、誰もはっきりと見てはいなかったことが判明した。
 この『常山紀談』の話は、隆慶一郎先生の『影武者 徳川家康』に次のように引かれている。

 島左近のこの日のいでたちについては『常山紀談』に記述がある。石田隊と正面から激突した黒田長政が、後年家臣と共にこの関ヶ原における左近の猛勇ぶりをしのんだ時、誰一人左近の甲冑について正確に語ることが出来なかった。そこで旧石田家出身の者を呼んで尋ねると、
「左近、冑の立物、朱の天衝。溜塗桶、革胴の甲に、木綿浅黄の羽織を著たりし」
 一座の者たち全員が間違っていた。まぢかに見ていながら、そのあまりに凄まじい戦さぶりに肝をつぶし『目の魂を失い』つまり見ていなかった。一同大いに恥入ったと書かれている。

隆慶一郎『影武者 徳川家康』

 ちなみに、原文はこうである。

 長政、筑前の国領せられて後、関ヶ原にて撰にあひ、長政のかたへにありて軍しける人々集て閑話しけるが、「石田が士大将、鬼神をも欺くといひける嶋左近が其の日の有様、今も猶、目の前に在が如し」と云ひけるに、其の物具の事をいひ出して更に定かならず。人々、口々にいひしかば、其の軍の頃、石田が方にありける士の筑前に仕へけるを、三人呼び寄せて問ひければ、「左近、冑の立物、朱の天衝、溜塗桶、かは胴の甲に、木綿浅黄の羽折を着たりし」と語る。人々驚きて、「近々とつめ寄せたるに見覚えざる事、能うろたへるよ。口をしき事なり」と云ひしに、其の中に取りわき剛の者の云ひけるは、「見たがへたるは、われながらもことはり哉。左近が引具したるは皆すぐりたる物師にて、七十許は柵際に残し、三十許左右に立てて、麾を取、下知したる有様、つくづくと案ずるに、三十人許の兵ども、鎗の合べき際にさつと引き取り、味方ばらばらと追かけんを近く引寄せ、七十余人の者ども、えいえい声を揚て突きかかり、手の下に追崩して残りなく討とらんとの手だてなりき。今思ひ出れば、誠に身の毛も立ちて、汗の出るなり。かく酒汲かはして、心安き朋友と物語するとは大にことならずや。人々大かた目のたましひは失ひたるにぞ。若、其の時、横合より鉄炮にて打すくめずば、われらが首は、左近が鎗にさし貫れなん。見たがへたりとて必ずしも恥にあらず」とぞいひける。

https://dl.ndl.go.jp/pid/778096/1/59

https://dl.ndl.go.jp/pid/778667/1/72

 嶋左近は、開戦早々に黒田隊の銃撃で被弾し、倒れたところまでは判明している。戸川達安が討ち取ったというが、嶋左近の兜はあっても、遺体は見つかっていないというので、現存する墓は、遺品を封じた供養塔ということであろうか?

──「嘉明の先手と戰切死せし大将は島左近也」と云へり。(『戸川記』)

・被弾し転倒:『落穂集』『黒田家譜』等
・戦死:『関ヶ原合戦誌』『関ヶ原軍記』『戸川記』等
・行方不明:『関ヶ原状』『慶長年中ト斎記』『武徳安民記』等
・佐和山城で自刃:『福島大夫殿御事』
・西国へ逃走:『古今武家盛衰記』
・対馬国へ逃走:『関ヶ原軍記大全』

 爰に於て、藤堂が家臣・玄蕃允と、三成が寵臣・島左近が一子・新吉と、暫くが程、秘術を尽くし、挑戦す。されども、雌雄更に付かざれば、玄蕃、槍を彼(かしこ)に投げ捨て、新吉と無手と組み、金剛力を出して追合ひしが、玄蕃、終に討たれたり。玄蕃が小姓・丹羽平三郎、生年18歳、今日、初軍と聞こえしが、新吉が引く所を「逃がさじ」と追馳せて、「返せ者共」といふ儘に、難なく主人の当の敵を眼前に討ち取りし若者の働きを、押し並べて威歎せぬ者ぞなかりける。
 去る程に、島左近は、正々(まざまざ)と愛子の討たるるを援(たす)けんと思ふ心もなく、空知らずして落ち行きしは、「日頃、勇者と訇りしも、畠水練の辞(ことば)かな」と、人々、嘲り笑ひけり。

※「畑水練」:川や海ではなく、畑で水練(水泳の練習)をすること。実際には何の役にもたたないことのたとえ。

『石田軍記』(巻10「筑前中納言裏切事。付島左近脱げ足の事」
https://dl.ndl.go.jp/pid/948827/1/139

 去る程に、藤堂玄蕃頭、島左近総領の新吉と組み打ちなり。新吉、玄蕃を押し伏せ、頭をかき切り、玄蕃が小姓、又、おり合はせ、新吉を討ち留め候なり。
 島左近、行方不知。子供、打ち死に候なり。か様、色々、様々、思ひ思ひ。

『慶長年中ト斎記』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920433/1/36

 「関ケ原の戦い」の直後、「西へ行く」と言って姿を消したという生存説もあり、実際、京都で嶋左近の目撃情報が相次いだ(『石田軍記』『古今武家衰退記』『関ヶ原御合戦当日記』)。とすると、現存する墓は、潜伏先で亡くなったので葬ったということであろうか?(『どうする家康』では、比較的に信用されている『慶長年中ト斎記』の記述を採用したのか、「行方不明」とした。)


■5つの生存説


①立本寺(京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上る一番町)の僧になり、寛永9年(1632年)に没して立本寺の塔頭・教法院の墓地に葬られたという。享年92。

②余吾(滋賀県伊香郡余呉町奥川並)に潜伏していたが、「徳川四天王」の井伊直政領になると、「このまま匿っていると罰せられる」と思った村民に寝込みを襲われ、落命した。隠れ住んだ「殿隠しの岩」、「島林」等の「島」地名が残る。(余呉町教育委員会編『余呉の民話』/平群史蹟を守る会編『烏兎』48&49号)

③静岡県浜松市天竜区にご子孫(名字は「嶌(しま)」。中学校の先生)が住んでおられた。第23代・嶌茂雄氏によれば、京都で潜伏後にやってきて、「嶌金八」と名を変えて農民に化けて住み、春になると自身の部下を集めて桜の木の下で酒宴を催したという。また居住地を「おおさか」と呼んだとされており、これは「大坂」のことだと推察されている。(『ふるさといむら』)
 隆慶一郎先生は、嶌茂雄氏にインタビューし、静岡新聞(夕刊)の連載小説『影武者 徳川家康』では、島左近浜松生存説を採用した。

 島左近はすっかりこの天竜川流域二俣の近く、山王村に根付いていた。風魔の全国に張りめぐらされた諜報網は、関ヶ原以来行方不明になっていた左近の老母と弟、そして息子の一人権三を見つけだし、この土地に運んで来ていた。更に左近のかつての部下で勇猛のほまれ高かった者を七人まで見つけ出し、同様に山王村の一角に左近の屋敷を取り囲むようにして住まわせた。いつしか誰いうともなく、この一角を『おおさか』と呼ぶようになったという。勿論大坂の意味である。
 左近はここでは島金八と名乗っていた。山際にある桜の大木は、左近の思った通り美しい花を咲かせ、この年の春、左近は念願通りこの桜の木の下で宴を張ることが出来た。二郎三郎と六郎は残念ながら参加出来なかったが、風魔小太郎と風斎は列席し、左近の病身の母と弟、倅の権三、市郎兵衛、そして七人の部下たちが左近と共に、花吹雪を浴びながら、一夕楽しく酒を酌みかわしたものである。

隆慶一郎『影武者 徳川家康』

⓸熊本県熊本市の西岸寺には、島左近は、鎌倉光明寺で出家し、「泰岩」と名乗り、細川忠興に仕えて小倉に知足寺を建立し、細川忠利の肥後入国に際しては、細川忠利の命を受けて熊本に入り、情報収集に努めたという由来記が残る。

⑤陸前高田(岩手県陸前高田市高田町洞の沢)に潜伏して「島村甚兵衛」と名乗った(ご子孫の名字は「島村」)とか、浜田村(現・岩手県陸前高田市米崎町)に潜伏して「浜田甚兵衛」と名乗ったとか。(『気仙郡誌』)

【余談】東広島市西条の白牡丹酒造は、自社の創業に関し、古記録に「慶長五年九月 関ガ原の戦いに、島左近勝猛、西軍の謀士の長たりしも、戦に破れ、長男新吉戦死す。次男彦太郎忠正、母と共に京都に在りしが、関ガ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年酒造業を創む」とあるといい、同社の社長は島家が代々引き継いでいる。(『関ヶ原町史』は、母と共に京都にいた嶋左近の二男・嶋彦太郎忠正は、関ケ原の敗報に接し、西国へと逃れ、「坪島彦助」と改名して安芸国西条四日市に住んだというご子孫所有の古記録を紹介している。)

 嶋左近の子は三男二女だという。

┏長男:新吉政勝(「関ケ原の戦い」で、丹羽平三郎に討たれる。)
┣次男:忠正(母と共に京都から西条へ)─?─島晴正(白牡丹酒造を開業)
┣三男:清正(消息不明)
┣長女:?(小野木重勝正室)
┗次女:珠(柳生利厳室)─柳生厳包(尾張藩剣術指南役・連也斎)

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