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「光秀折檻事件」(『政春古兵談』と『乙夜之書物』)

斎藤利三は、

 ──今度謀反随一也。(『言継卿記』天正10年6月17日条)
 ──かれなと信長打談合衆也。(『天正十年夏記』天正10年6月17日条)

と言われた人物である。「信長打(信長討ち)」(織田信長殺人事件)の主犯は明智光秀、実行犯は彼の家臣たち(中心は丹波衆)で、最重要人物は斎藤利三だというのである。斎藤利三は明智家の家臣をまとめる家老であるから最重要人物なのであろうが、山科言継が、なぜ斎藤利三を「日向守内斎藤蔵助今度謀反随一也」と評価したのか、『言継卿記』には詳しく書かれてはいない。

 『明智軍記』や『乙夜之書物』によれば、「本能寺の変」の時、明智光秀は本陣にて本能寺へは行っていないという。実際に本能寺へ行って織田信長を討ったのは斎藤利三だというから、「今度謀反随一」なのだろうか。

 「今度謀反随一」の理由を想像するに、「信長打」(織田信長殺人事件)の動機は、
①斎藤利三が実行を迷っている明智光秀の背中を押した【野望】
②斎藤利三の受け入れを織田信長に叱責された【怨恨】
③斎藤利三が仲介していた長曽我部氏の扱いが変更された【四国政策転換】
ことだというのであろう。

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 稲葉一鉄の家臣だった新参者の斎藤利三がすぐに明智家の家老になれたのは、斎藤利三自身の優秀さもさることながら、斎藤利三が明智光秀の親戚だったからであろう。

①甥・伯父の関係(斎藤利三の母は明智光秀の妹・節)
②兄・義弟の関係(斎藤利三の姉は明智光秀の正室・牧

 明智光秀の妹・明智節は、織田信長に気に入られるほど優秀であったというが、明智光秀の正室・斎藤牧も(側室・「糟糠の妻」妻木煕子がスポットライトを浴びることが多くて見立たないが)かなり優秀で、明智光秀の軍師的存在だったと伝えられている。(実質的には妻木家の娘が正室であろうが、家格が高い斎藤家の娘が形式上は正室なのであろう。)

 さて、タイトルの「光秀折檻事件」であるが、2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、稲葉家を出奔してきた斎藤利三を、織田信長が「稲葉家に返せ」と明智光秀に言うと、明智光秀が「出奔した者を旧主に返せば打首である。1人の家臣の命を大事にしない主君は家臣に嫌われる」と言って反発したので、織田信長は明智光秀を折檻し、「まぁ許してやるが、その代わりに丹波国を平定せよ」と命じたことになっているが、実際の裁許は「本能寺の変」の4日前で、「その代わりに中国の羽柴秀吉に加勢せよ」だったという。

 加賀藩の兵学者・関屋政春(せきやまさはる)が、古兵らから「武辺噺」を聞き集めてまとめた『政春古兵談』と『乙夜之書物』には、織田信長の叱責について次のように記されている。

■『政春古兵談』
一、斎藤内蔵助ハ義龍ノ甥也稲葉伊与守ニ仕テ子細コトノ伊与ヲ立退明知一万五千石ニ召抱丹波福智山ノ城ヲ預ル稲葉是ヲ腹立シテ信長公ヱ訴訟ス依テ返ス様ニト明知へ被仰付候へトモ不返此出入ニテ信長公明知カ頭ヲ御張被成候由井上清左衛門語 (注)原文の「コト」「トモ」は合略仮名。
■『乙夜之書物』
一、明知日向守光秀ノ家老斎藤内蔵助ハ稲葉伊与守一鑓入道カ臣下ナリ伊与守家ヲ立ノキ明知ニ仕テ壱万五千石取ル稲葉イキドヲリ信長公ヱウツタヱ我等家礼斎藤内蔵助ト申者我等小身トテ見カギリ立退明知家ヱ参リ大身ニ被成候我等出小身ニテモ御用ニ立申度奉存能者ヲ取立候ヘバハヤ大身ドモヨリ高知行ニテヨビ候ヘバ人間ノ習イ欲ニフケリ取立ノ主ヲステ大身ノ方ヱ参立身仕是ヲ返セト申テモ當主人何角ト申カエサズカ様ニ候テハ以来小身者ハ御用ニ立申事モナリガタシ是非内蔵助ヲ返シ申様ニ日向守ニ被仰付候様ニト書付ヲ上ルニ依テ信長公尤ナリ日向守内蔵助ヲカヱス様ニト被仰付ル日向守我等儀御先手ヲ被仰付ルモ我等一人ニテ何ト存テモ不罷出能者ヲ召抱又私ノ先手ヲサイキョイタセテコソ大キナル御勝ヲモ被成ト得我等トモ能人ヲ持不申候テハ御先手モ如何ナリト申上ル信長公仕ト在リトモ内蔵助ヲ返セト被仰付光秀又何ト被仰候テモ内蔵助ヲ返シ申事ハ不罷成ト申付ル事ヲイハイ仕トテ日向守アタマヲ御自身ハリタマイ其後御前ニ居ル小性衆ニモハラセタマウ由明知キンカアタマハレタリト云々

以上、関屋政春は、『政春古兵談』では、井上清左衛門に聞いた話として「織田信長は、明智光秀の頭を張った」とし、『乙夜之書物』では、「明智光秀は自分で頭を張り、さらに近くに居た小姓たちにも張らせた云々(そうだ)」とする。(同じ人が書いた本なのに内容が異なるとは・・・ソース(情報源=取材した相手)が違うのか?)

 さてさて、稲葉一鉄の訴訟は史実であるが、折檻の有無はどうなん?

★織田信長による折檻の記載がある古文書
・ルイス・フロイス『日本史』「5」第56章 1588-1592
・アビラ・ヒロン『日本国王記』
・関屋政春『政春古兵談』
・林鵞峰『本朝通鑑(続編)』1670
・山鹿素行『武家事紀』1673?
・国枝清軒『武辺咄聞書』1680
・『宇土家譜』「忠興公譜」
・『稲葉家譜』(巻之四)
・『明智軍記』

 さらに『乙夜之書物』には、「この明秀折檻事件と、徳川家康の接待の叱責が「本能寺の変」の動機であると当時の人達が申し伝えている」とある。

 さてさて「本能寺の変」の動機は?

 儒学者・山鹿素行『武家事紀』にはとんでもないことが書かれている。

 ──信長、光秀を近く召して、拳(こぶし)を以てこれを托開せらる。群臣列参の時分故、光秀、大に赤面す。稲葉もこれによりて憤りを押さゆ。

 稲葉一鉄の訴えにより、織田信長は、家臣団の前で、明智光秀を近くに呼び寄せて、拳で「托開」(仏教用語で「突き返す」の意だが、ここでは「打つ」「殴る」「叩く」「張る」の意であろう)したので、明智光秀は恥をかき、稲葉一鉄は憤りを抑えた(鎮めた)という。

 ここまでは他の本にも書かれているので理解できるが、問題は、「本能寺の変」の動機である。

 ──余は余自ら死を招いたな。(by 織田信長)

 森蘭丸が、
「明智は必ず謀反をおこします。その前に私が討ちます」
というと、織田信長は、
「それで明智は討てるが、それでは、明智の家臣が怒って、そなたが明智の家臣に討たれてしまう。余に良い策がある」
と言ったいう。
 その明智の家臣が怒らない「良い策」が何であるか分からなかったが、『武家事紀』に書かれていた。(以下、有料にさせていただきます。取材費が不足していますので、すみません。サポートお待ちしています。)


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