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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第8回)「いざ、鎌倉」


今回は、
━━えっ、源義経ってこんなキャラなの?
って回でした。

もう「天真爛漫」の域を超えています。こういう「クレージー・ボーイ」を何と言うのか、久能整君に聞いてみたいです。「サイコパス」で合ってる?

《源頼朝略年表》-----------------------------------------------------------------

治承4年(1180年)

9月1日   安西景益に「以仁王の令旨」の内容を伝える。
9月2日   北条政子、伊豆山神社から秋戸郷へ移る。
9月3日   長狭常伴に襲撃されそうになるも三浦義澄が防ぐ。
9月4日   安西景益が参向する。
      安達盛長を千葉常胤、和田義盛を上総広常に派遣する。
9月8日   北条時政を甲斐国に派遣する。
9月9日   千葉常胤が参向する。
9月13日 300人を率いて安房国から上総国へ侵攻する。
9月15日 北条時政、武田信義&一条忠頼に伺候する。
9月17日 下総国府に侵攻し、千葉常胤の300人と合流し、目代を討ち取る。
9月19日 上総広常が20000人を率いて参向する。
     ---------------------------------------------------------前回はここまで
9月20日 土屋宗遠を甲斐国に派遣する。
9月24日 土屋宗遠、甲斐国に到着する。
10月1日 下総国鷺沼(習志野市鷺沼)の宿所で弟・阿野全成と対面する。
10月2日 武蔵国に侵攻する。
10月4日 畠山重忠が参向する。
10月6日 相模国に侵攻する。
10月7日 200000人を率いて鎌倉入り。
10月10日 北条政子、転居に縁起が悪い日なので、稲瀬川の民家に宿泊。
10月11日 北条政子、鎌倉入り。

・今回の『鎌倉殿の13人』、武田信義と北条義時の話の時、満月が登場しました。ということは、あの日は9月15日の話になりますね。

・源頼朝の鎌倉入り時の軍勢は20万人といわれているが、さすがに多すぎる。『鎌倉殿の13人』では、3万人とされた。

・北条政子の鎌倉入りが10月10日から11日に延期された理由は、『吾妻鏡』に「治承四年十月小十一日庚寅。卯尅、御臺所入御鎌倉。景義奉迎之。去夜自伊豆國阿岐戸郷、雖令到着給、依日次不宜、止宿稻瀬河邊民居給云々。又走湯山住侶專光房良暹、依兼日御契約參着。是、武衛年來御師檀也」(治承4年(1180年)10月11日庚寅。午前6時頃、御台所(北条政子)が鎌倉入りした。大庭景義が迎えた。昨夜、伊豆国秋戸郷から到着していたが、日次(ひなみ。その日の吉凶)が悪いので、稲瀬川の民家に宿泊したという。また、走湯山権現(伊豆山神社)の専光坊良暹が、兼ねてからの約束でやって来た。彼は武衛(源頼朝)の年来の師檀(寺僧と檀家)の仲である)とする。「庚寅は転居に良い」と専光坊良暹が指示したのであろう。『鎌倉殿の13人』では、10月10日から11日に延期した理由を「10日は亀の前と過ごすため」とし、易に詳しい阿野全成は、「庚寅に家移しをした家は、親子の縁が薄く、主人は不慮の死を遂げる」と止めたが、源頼朝と父・源義朝とは親子の縁が薄く、源義朝は既に不慮の死を遂げているので、専光坊良暹の言に従ったのであろう。というか、そもそも源頼朝の易担当は佐伯昌長でしょ。

1.源頼朝の相模国鎌倉入り

治承四年十月小七日丙戌。先、奉遥拝鶴岡、八幡宮給。次、監臨故左典厩〔義朝〕之龜谷御舊跡給。即、「點當所、可被建御亭」之由、雖有其沙汰、地形非廣、又、岡崎平四郎義實、爲奉訪彼没後、建一梵宇。仍、被停其儀云々。(『吾妻鏡』)

 治承4年(1180年)10月7日。(源頼朝は、相模国鎌倉入ると)先ず、元八幡(神奈川県鎌倉市材木座の由比若宮)を遥拝され(遠くから(鎌倉山から)拝まれ)、次に、亡き父・源左典厩(左馬頭)源義朝の亀谷の旧跡(邸宅跡)を見に行かれた。そして「この場所に御亭(御所)を建てよう」と点じられた(場所を定められた)が、敷地が広くなく、また、岡崎平四郎義実が、源義朝様の供養の為にお堂を建てていたので、やめたそうだ。

治承四年十月小十二日辛卯。快晴。寅尅、爲崇祖宗、點小林郷之北山、搆宮廟、被奉遷鶴岡宮、於此所、以專光房暫爲別當軄、令景義執行宮寺事。(中略)本社者、後冷泉院御宇、伊予守源朝臣頼義奉勅定、征伐安部貞任之時、有丹祈之旨、康平六年秋八月、潜勸請石淸水、建瑞籬於當國由比郷。(今號之下若宮。)永保元年二月、陸奥守同朝臣義家加修復。今又、奉遷小林郷、致蘋繁礼奠云々。(『吾妻鏡』)

 治承4年(1180年)10月12日。快晴。午前4時頃、祖先を祀る為、小林郷の北山に点じて(場所を定めて)、宮廟(社殿)を構えて、鶴岡宮をここへ遷され、専光坊良暹(伊豆山権現の僧侶)を暫く八幡宮の別当(長官職)と為し、大庭景義(大庭景親の兄)に宮寺の執行(事務職)をさせた。(中略)本社は、後冷泉天皇の御代(1045〜1068)に、源伊与守頼義が勅命を受けて安倍貞任を征伐した「前九年の役」(1051〜1062)の時に、願い事があって(「前九年の役」の戦勝を祝って)、康平6年(1063年)8月、密かに石清水八幡宮(京都の石清水八幡宮護国寺)から勧請して瑞垣(社殿)を当相模国由比郷に建てたものである。(今はこの神社を「下の若宮」という。)永保元年(1081年)2月、源陸奥守義家(八幡太郎義家)が修復した。そして、今(治承4年(1180年)10月)また、源頼朝が、小林郷に遷座させ、蘋繁(ひんぱん。粗末な供物)を礼奠(れいてん。神前に供物を供えること)したそうだ。

治承四年十二月小十二日庚寅。天晴風靜。亥尅、前武衛將軍、新造御亭、有御移徙之儀。爲景義奉行。(中略)推而爲鎌倉主。所素邊鄙而、海人、野叟之外、卜居之類少之。正當于此時間、閭巷直路、村里授号。加之家屋並甍、門扉輾軒云々。(『吾妻鏡』)

 治承4年(1180年)12月12日。天晴れ、風静か。午後10時頃、源頼朝が新築の御亭(御所)「大倉宮」(鎌倉宮)への引越す儀式があった。大庭景義が奉行(執行役)であった。(中略)源頼朝を推して「鎌倉の主」(鎌倉殿)と為した。鎌倉所は、元々辺鄙な所で、海人(漁師)、野叟(田舎の老人。村翁。野老)以外、卜居(ぼっきょ。土地を占って住居を決めること)する人は少なかった。正にこの時、街中の道を真っ直ぐにし、村や里に名前(村名、里名)を付けた。加えて家屋が屋根を並べ、門扉(もんぴ。フェンス)が軒を輾(きし)めた(ひしめき合った)という。

 『吾妻鏡』によれば、鎌倉に入った源頼朝は、まずは源頼義が祀った元八幡(由比若宮)を遥拝し、小林郷北山に遷座した。そして、その鶴岡宮と御所(大倉宮)の造営を並行して行い、御家人と従者が住めるよう、整備もした。こうして寒村であった鎌倉は都会になったという。(徳川家康による江戸の開発のようなものか。)

鎌倉駅から北へのびる小町通りは、多くの観光客で賑わいます。しかし、頼朝と義時が鎌倉入りした当時は、鶴岡八幡宮の前を東西に走る六浦路・横大路がメインストリートでした。この道を中心に、幕府の重要な施設が建てられていきます。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/kikou/08.html

 源頼朝が入った時の鎌倉について、学者は、『吾妻鏡』の通り、寒村であったとしていたが、鎌倉郡の郡衙「今小路西遺跡」の発掘調査(1984-1992)以降は、郡衙所在地で、都会であり、「寒村ではなかった」「『吾妻鏡』の記述は、源頼朝の都市開発を賞賛する文飾である」とする学者が増えた。

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