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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第41回)「義盛、お前に罪はない」

──千寿よ、お前に罪はない。

源頼家───┬長男・一幡    (相澤壮太):母・せつ =比企能員の娘
(金子大地)  ├次男・善哉丸→公暁 (寛一郎):母・つつじ=賀茂重長の娘
        ├三男・千寿丸→栄実(?)   :母・?=一品房昌寛の娘
        ├長女・竹御所   (?)   :母・?=源義仲の娘
        └四男・?→禅暁  (?)   :母・?=一品房昌寛の娘

第2代鎌倉殿・源頼家の跡継ぎ(嫡男)は、源頼朝が生きていれば、正室・賀茂重長の娘が生んだ善哉になっていたであろう。ところが、源頼朝が急死すると、有力御家人・比企能員の娘が生んだ一幡が跡継ぎ(嫡男)となった。(一説に源頼朝の遺言書に「善哉を跡継ぎ(嫡男)に」と書いてあったというが、この時期は『吾妻鏡』の記事が欠損していて詳細不明である。)
 そして、「比企能員の乱」が起こり、一幡は殺され、竹御所は入水自殺した。第3代鎌倉殿には源頼家の弟・源実朝が就任し、第2代鎌倉殿・源頼家は奇跡的に回復するも暗殺され、善哉は出家して公暁と名乗った。
 かわいそうなのは千寿である。お前に罪はない。罪があるとしたら「鎌倉殿になれる身分として生まれてしまったこと」(親ガチャ)である。泉親衡に、まだ元服前なのに「源実朝に代わって鎌倉殿に」と御輿に乗せられた。しかし、この「泉親衡の乱」(源実朝排除&北条義時暗殺計画)は事前に発覚し、千寿は捕らえられ、本来は斬首であるのに許されるも、出家させられて栄実と名乗った。そして「和田合戦」が起こり、落ち武者たちは、栄実の元に終結し、栄実を御輿に乗せ、リベンジ計画を練るが、事前に発覚し、栄実は自害した。享年14(合掌)。

──義盛よ、お前に罪はない?

 2度も御輿に乗せられた14歳の千寿(栄実)には罪はないが、67歳の和田義盛には罪がない? 「家族」がテーマと思われる『鎌倉殿の13人』の北条義時は、北条泰時のために和田義盛を討とうとし、繰り返し挑発しては和田義盛の挙兵を待ったとした。(『鎌倉殿の13人』の和田義盛は、「子供が自分に寄りつかない」と嘆いていた。嫡男・和田常盛は朝夷奈義秀より有名じゃないし、嫡孫(嫡男の嫡男)の和田朝盛は、「和田合戦」に際し、出家して京都へ逃げようとした。)

三浦義明┬杉本義宗──┬和田義盛┬長男・和田常盛─和田朝盛
     │      │    ├次男・和田義氏
     │      │    ├三男・朝夷奈義秀(栄信)⇒安房国へ
     │      │    ├四男・和田義直(内藤正記)
          │      │    ├五男・和田義重(林雄大)
       │      │    ├六男・和田義信
       │      │    ├七男・和田秀盛
       │      │    └八男・杉浦義国⇒近江国へ
       │      ├和田義茂
       │      ├和田義胤
       │      ├和田義長─和田〔荏柄〕胤長(細川岳)
       │      └和田宗実─藤原秀宗────藤原秀康
       └三浦義澄──┬三浦義村(山本耕史)─┬三浦泰村
             └三浦胤義(岸田タツヤ)└北条泰時室(福地桃子)

『鎌倉殿の13人』の和田義盛は愛すべきキャラであるが、本当に悪くないのか? 千寿のように担がれるスキはないのか?

──そもそも「和田合戦」はなぜ起こったのか?


(1)「和田合戦」 の動機① -『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月2日条-


 先日一類を相率いて、胤長が事を参訴するの時、敢えて恩許の沙汰無く、剰えその身を緬縛し、一族の眼前を渡し、判官に下さる。列参の眉目を失うと称し、彼の日より悉く出仕を止めをはんぬ。その後義盛件の屋地を給い、聊か怨念を慰めんと欲するの処、事を問わず得替す。逆心いよいよ止まずして起こると。

(和田一族が御所に列参して和田胤長の赦免を強訴した。(室町時代の「御所巻き」のようなもの。)しかし、縛られた和田胤長は、和田一族の面前で判官に引き渡されたので、和田義盛は列参の面目を失い、出仕しなくなった。その報復か、与えられた和田胤長の屋敷は没収されて北条義時に与えられたので、反逆心を抑えられなくなった。)

※「和田系図」(佐野本系図)も同内容
「九日。義盛、引卒一族九十八人、参上于御所、奉請赦免甥・胤長罪、無御許容。則、緬縛胤長、引渡一族座前、被渡廷尉山城判官行村、令禁獄訖。義盛、太鬱憤。而自是起逆心。
 二十五日。義盛、請賜胤長荏柄宅地、有御許容。四月二日、実朝公、以胤長宅地、先約変替賜北条義時。義盛、弥含鬱胸、不止逆心之志」

(3月9日。和田義盛は、一族98人を引率し、御所に参上し、「甥・和田胤長の罪を許して欲しい」と訴えたが、許されなかった。そして、和田胤長は縛られ、一族が座っている前を通って、二階堂行村に引き渡され、牢屋に入れられた。和田義盛は、大いに憤慨した。そして、この時から逆心を抱いた。
 3月25日。和田義盛が和田胤長の荏柄の宅地を拝領する許可が下された、4月2日、源実朝は、和田胤長の宅地について、先約を変え、北条義時が拝領した。和田義盛は、いよいよ憤慨し、逆心の志を止められなくなった。)

(2)「和田合戦」 の動機② -『明月記』建暦3年(1213年)5月9日条-

去る春、謀反の者、党を結ぶの由、風聞、落書等有り。件(くだん)の義盛、その張本たり。而るに、自ら披陳(ひちん)す。子細を聞き、すでに以て免許し、和解の気色有り。尋常の時の如く、近辺の宿所に在り。而るに猶、内々の議有り、鯨鯢(けいげい)たるべきの由、これを聞く。茲に因て更に党を聚(あつ)め、その計を成す。是れ、只以て韓彭葅醢(かんぽうにらきす)也。

(今年の春(今は5月なので夏)、謀反人が、仲間を募っているという噂、落書などがあった。この件の張本人が和田義盛であった。しかし、自ら弁明(裁判で意見陳述)をした。詳細を聞いた源実朝は、既に和田義盛の罪を許しており、和解した様子であり、何も無かった時のように、和田義盛は、御所近くの宿所(上総国の屋敷ではなく、鎌倉在中時の屋敷)に住んでいた。しかし、御所では、(源実朝が許したのに)引き続き、内密に和田義盛の処分についての審議がなされており、「和田義盛は鯨鯢(クジラの総称。クジラは小魚を食いつくす猛悪な大魚であるので、転じて、弱い者をひと呑みするような大悪人、悪党の首領。反逆者)である」と言っていたのを耳にした。これにより、和田義盛は仲間を募り、謀反の計画を立てた。これは、ただ、韓彭 (中国の名将・韓信(かんしん)と彭越(ほうえつ))のように葅醢(人をずたずたに切り殺してその肉を塩漬けにする刑)に処される(粛清される)と考えたためである。)

※「去る春、謀反の者、党を結ぶ」を2月に発覚した「泉親衡の乱」とする学者もおられるが、その事件の張本(鯨鯢)は泉小次郎親衡であって、和田義盛は無関係である。(ただし、子が関係していたので、弁明はしている。)それとも泉親衡をそそのかした黒幕は和田義盛だとでも?

※『明月記』建暦3年(1213年)5月9日条の「為鯨鯢」「韓彭葅醢」「一以当千」「天地震怒」「練精兵」「兵尽矢窮」「策疲足之兵当新覊之馬」「追奔逐北」等は『文選』「答蘇武書」の表現である。
 「韓彭葅醢」は『平家物語』でも使われている。「蕭樊囚はれて、韓彭葅醢されたり、鼂錯戮をうけ、周魏罪せらる。たとへば、蕭何樊噲、韓信、彭越、これらは皆高祖の忠臣たりしかども、小人の讒によつて、禍敗の恥を受くとも、かやうの事をや申すべき」(巻第二「小教訓」)。

■山本みなみ「和田合戦と千葉一族」
 この記事は、去る春に謀反(泉親衡の乱)を起こした者が結集しているとの風聞・落書があり、首謀者は和田義盛である。そこで、義盛は自ら弁明し、将軍実朝の許しを得、和解した。しかし、幕府では義盛粛清の密議が行われていた。この動きを察した義盛はさらに兵を集め、謀反の計画を立てた、と解釈することができます。研究者のなかには、「件の義盛其の張本たり」に注目し、親衡の乱の首謀者は義盛であったと指摘する方もいますが、義盛は親衡の乱の余党と手を結んだにすぎず、乱の首謀者と断定することはできません。この記事からは、義盛が幕府側の動きを察知した後、早急に兵を招集したことを読み取るべきです。

(3)「和田合戦」 の動機③ -『保暦間記(ほうりゃくかんき)』-

去程に其比、三浦和田左衛門平義盛と云者あり。頼朝の時は、侍所なんどして、さるべき人也けるが、義時に権を取れて、今は主従の如なれば、口惜事に思はれける処に、義盛が子、朝印南三郎義秀、和田四郎義胤、同平太胤長、渋谷六郎、上総介次郎、園田七郎、渋川六郎、泉小次郎等、頼家将軍の二男・千寿丸を取立て、謀反を起しかば、義盛、幸も時も来れりと同意して、建暦二年五月三日、既に合戦に及しかども、終に打負て、義盛已下所々にて討れ語らう所の土屋兵衛、中山四郎、横山、渋谷なんども誅しけり。是を和田合戦と申也。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532209/54

(さて、その頃、和田義盛という者がいた。源頼朝の時代は、侍所の別当を務める立派な人物であったが、北条義時に権力を奪われて、今は主従のような関係になっていたのを悔しく思っていた時、和田義盛の子・和田義秀、弟・和田義胤、甥・和田胤長、渋谷六郎、上総介次郎、園田七郎、渋川六郎、泉親衡等、故・源頼家将軍の二男・千寿丸を取り立て、謀反「泉親衡の乱」を起こすと、和田義盛は「幸いにも時来たれり」(チャンス到来!)と意を同じくし、建暦2年5月3日には合戦に及んだが、遂には負け、和田義盛以下、あちこちで討ち取られた。一揆を結んだ土屋兵衛、中山重政、横山、渋谷なども誅殺された。これを「和田合戦」という。)

※「泉親衡の乱」の説明で、最初に載せられた名が釈放された和田義秀で、主犯の泉親衡の名が一番最後と言うのは変ですね。

■山本みなみ「和田合戦と千葉一族」
 和田合戦に至った経緯については、義盛の子らが頼家の遺児の擁立を謀り、義盛もこれに同意したと説明しています。ここから当初、義盛自身が主導して新将軍の擁立を計画したわけではなかったが、子息たちの計画に同意せざるをえず、結果として合戦に至ったことがわかります。要するに、義盛は、子息たちに担ぎ上げられてしまったのです。義盛は、将軍実朝と親密な関係を築いていましたが、上総介就任は叶わず、和田氏の基盤強化が上手くいかなかった以上、一族の結集を容認せざるをえなかったのでしょう。


──和田義盛は、子たちに担ぎ上げられてしまった。

『吾妻鏡』「建暦3年(1213年)4月27日」条によれば、源実朝は、和田義盛邸へ若狭忠季を派遣して発向(出陣)しないよう伝えたが、和田義盛は、
「上に於ては全く恨を存さず。相州が所為、傍若無人之間、子細を尋ね承はらん為、発向す可しの由、近日、若輩等、潜に以て群議令めん歟。義盛、度々、之を諌ると雖も、一切拘らず、已に同心を成し訖。此の上は、事、力に及ばざる」(源実朝には恨みは無いが、北条義時の傍若無人な振舞いの詳細を聞くために「発向(出陣)すべきである」と、近頃、若輩(若衆)が密かに会議して決めたようで、私は何度も諌めたが、無視され、最後には私に同心を促して終わった。こうなっては、もう、どうにも止められない)と答えた。

■「和田合戦」の実際

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                    ▲「鎌倉勝概図」(江戸時代)

※「和田合戦」-『吾妻鏡』と『明月記』-

※「和田合戦」再考
https://note.com/sz2020/n/n92bbe50631a6

■「和田合戦」の補説


「和田合戦」と千葉氏

 『明月記』で注目すべきは、県名にもなっている千葉氏の活躍である。(徳川県も豊臣県も織田県もないのに、千葉県があるって凄いぞ、千葉氏!)隣国(下総国?)から千葉成胤が応援に来たって・・・「鎌倉で合戦が始まった」と下総国まで連絡が届き、家人に装備を整えて集合するように伝え、鎌倉に着いたら、「和田合戦」は終わっているはず・・・船で移動したのか? 船を用意してあったのか? それにしても、5月2日に合戦があることを知っていたかのような迅速な行動・・・。そもそも、「和田合戦」の発端は「泉親衡の乱」であり、その「泉親衡の乱」が事前に発覚したのは、千葉成胤が阿静坊安念を捕らえ、北条義時のもとへ連れて行くと、阿静坊安念が和田義盛の子や甥も加担しているとペラペラしゃべったからである。もし、阿静坊安念が武士であれば、千葉成胤は北条義時ではなく、侍所別当・和田義盛のもとへ連れて行ったであろう。(当時、和田義盛は、鎌倉を離れて上総国夷隅郡の伊北庄にいたので、引き渡せなかった。)そうであれば、和田義盛は一族の関与をもみ消し、阿静坊安念の首を刎ねたであろう。(阿静坊安念は四国へ流罪になっただけで済んだ。)
 余談であるが、「和田合戦」における三浦義村の裏切りを「三浦の犬は友を喰らふ」と言った生意気な小僧は、千葉成胤(1218年に病没)を継いだ千葉胤綱である。
※「下総の子犬の話」
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/inu.htm

★「和田合戦」と島津氏

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「和田合戦」を描いた日本唯一の屏風である竹之下信成筆「紙本金地著色和田合戦図」が都城市立美術館(宮崎県都城市姫城町)にある。源頼朝の子孫だと自称する北条義時方の島津氏が、自分の活躍を示すために描かせた屏風で、絵師の竹之下信成は都城市の人だという。
・右から3曲目で、紅白の旗の下で指揮を執っているのが和田義盛。
・左から3曲目で、大倉御所の南門を破壊しているのが朝比奈義秀。
・島津氏はどこに?
https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/bunkazai/2994.html

もともとは都城島津家の学校である明道館(現在の明道小学校)に所蔵されていました。六曲一双の屏風ですが、現在は左隻が行方不明となっています。
この左隻も含めて、都城ゆかりの画家である山内多門が模写したものが残っており、当館で所蔵しています。(都城市立美術館 @mcma1981)
https://twitter.com/mcma1981/status/1329039041560395777
木挽町狩野家に学んだ都城の絵師・竹之下信成
https://yuagariart.com/uag/miyazaki02/

★その他の人々(北条氏、伊賀氏、大江広元)

 北条氏では、北条義時、弟・北条時房、2人の子・北条泰時&朝時が活躍したと思われる。北条義時と北条時房については『明月記』には登場しない。(北条義時は政所別当に加え、侍所別当も兼ねての「執権」となった。)2人の子について、『明月記』には「相模国司両息(中略)皆死云々。不知実否。」(死んだそうだが定かではない)とある。実際は2人とも生きているが、北条朝時は朝比奈義秀と1対1で戦って大怪我をした。(『鎌倉殿の13人』の北条朝時は弱々しく、戦線離脱の卑怯者。)
 北条義時の岳父(正室(継室)の父)・伊賀朝光も活躍し、常陸国佐都を恩賞として得た。

  伊賀朝光┬伊賀光季:常陸国塩籠庄を恩賞として得る。
      ├伊賀光宗:甲斐国岩間を恩賞として得る。
      └伊賀の方
         ├北条政村
        北条義時

 大江広元には武蔵国横山庄が与えられた。「鎌倉殿を避難させた」という功績もあろうが、焼失した屋敷再建費ともとれる。

※「和田合戦女舞鶴」(創作)
http://hachisuke.my.coocan.jp/yukahon/wadakass.html

■「和田合戦」の影響


【感想】----------------------------------------------------------------------------

★凄かったこと
和田義盛の「弁慶の立ち往生」のような最期。泣けた;

★残念だったこと
巴御前 vs トウを見たかった。
史実と異なる点が多々あった。

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▲北条時政の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

北条四郎時政┬長男・三郎宗時    (片岡愛之助)  :母・伊東祐親の娘
(坂東彌十郎) ├長女・政子=源頼朝室 (小池栄子)   :母・伊東祐親の娘
      ├次男・江間小四郎義時 (小栗旬)       :母・伊東祐親の娘
      ├次女・実衣=阿野全成室(宮澤エマ)   :母・伊東祐親の娘
      ├三女・ちえ=畠山重忠室(福田愛依)   :母・?
      ├四女・あき=稲毛重成室(尾碕真花)   :母・?
      ├三男・五郎時連→時房 (瀬戸康史)      :母・?
      ├?女・きく=平賀朝雅室(八木莉可子)  :母・りく
      ├?女・?=滋野井実宣妻(?)  :母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=宇都宮頼綱室(?)  :母・りく=牧宗親の妹
      ├四男・遠江左馬助政範 (中川翼):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=坊門忠清(坊門信清の子)室(?):母・不明
      ├?女・?=河野通信室(?):母・不明
      └?女・?=大岡時親(牧宗親の子)室(?):母・不明

北条義時の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

北条義時──┬長男・金剛→頼時→泰時(坂口健太郎):母・伊東祐親の娘
(小栗旬)    ├次男・朝時(髙橋悠悟):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├三男・重時(加藤斗真):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├長女・竹殿=大江親広室(?):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├四男・有時(?):母・?=伊佐朝政の娘
       ├五男・政村(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├六男・実泰(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├七男・時尚(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├次女・?=一条実雅室(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├?女・?=一条実有室(?):母・不明
       ├?女・?=中原季時室(?):母・不明
       ├?女・?=一条能基室(?):母・不明
       ├?女・?=戸次重秀室(?):母・不明
       └?女・?=佐々木信綱室(?):母・不明

源頼朝の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

源頼朝──┬千鶴       (太田恵晴)   :母・八重=伊東祐親の娘
(大泉洋)   ├長女・一幡(大姫)(南沙良)    :母・政子=北条時政の娘
      ├長男・万寿→頼家 (金子大地)   :母・政子=北条時政の娘
      ├能寛→貞暁    (?)           :母・?=常陸念西の娘
      ├次女・三幡(乙姫)(太田結乃)   :母・政子=北条時政の娘
      └次男・千幡→実朝 (柿澤勇人)   :母・政子=北条時政の娘

源頼家の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

源頼家───┬長男・一幡    (相澤壮太):母・せつ =比企能員の娘
(金子大地)  ├次男・善哉→公暁 (寛一郎) :母・つつじ=賀茂重長の娘
        ├三男・千寿丸→栄実(?)   :母・?=一品房昌寛の娘
        ├長女・竹御所   (?)   :母・?=源義仲の娘
        └四男・?→禅暁  (?)   :母・?=一品房昌寛の娘

▲NHK公式サイト『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

▲参考記事

・サライ 「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
・呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市 「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
・渡邊大門「深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon
・大迫秀樹「「鎌倉幕府の謎」源頼朝と北条義時たち13人の時代」
https://gentosha-go.com/category/t966_1・Yusuke Santama Yamanaka 「『鎌倉殿の13人』の捌き方」
https://note.com/santama0202/m/md4e0f1a32d37
・刀猫    「史料で見る鎌倉殿の13人」
https://note.com/k_neko_al/m/m0f7e5011a2ac

▲参考文献

https://note.com/sz2020/n/n7aec3eacdf80

・毛利豊史「源実朝試論」
https://core.ac.uk/download/pdf/80536497.pdf

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