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「和田合戦」再考

1. 「和田合戦」再考

「和田合戦」の前哨戦と位置づけられている「泉親衡の乱」について、まとめてみた。

※絵本風「泉親衡の乱」
https://note.com/sz2020/n/n8f01c20623c1
※『吾妻鏡』にみる「泉親衡の乱」
https://note.com/sz2020/n/n2dc4314df1ca

「和田合戦」については、超長文になることが分かっているので、記事を書こうか、(数十人しか読まない記事の執筆にかける時間がもったいないので)やめようか迷っている。(上の「泉親衡の乱」の2つの記事にたくさん「いいね」がついたら書く予定。)
 今は書く気が起きないので、「和田合戦」の実際については、日本史サロンさんの10万PV以上の動画(前後2本)で代用。
 学者に言わせれば、「和田合戦」については史料が少なく、『吾妻鏡』と『明月記』くらいだから1日あれば読めるし、新史料が発見されるまで再考の必要はない(議論はされ尽くした)という。
「和田合戦再考」とは、『吾妻鏡』と『明月記』を読み比べ、両書を比較して相違点を書き出し、『明月記』は日記であるから史実が書かれており、『吾妻鏡』はなぜ史実を変えたのかと、『吾妻鏡』の編集意図を探る研究である。

・山本みなみ「和田合戦再考」2016
・藪本勝治「『吾妻鏡』の文脈と和田合戦記事」2020

「和田合戦」については、『吾妻鏡』と『明月記』以外では1行~数行の扱いで、『愚管抄』にもちょっと載っている。

■慈円『愚管抄』
 実朝は、又、関東に不思議いできて、我が舘、皆焼かれて、危うき事、有りけり。義盛左衛門と云ふ「三浦の長者」、義時を深く嫉みて討たんの志ありけり。ただ、「あらはれに、あらはれぬ」と聞きて、俄かに建暦三年五月二日、義時が家に押し寄せてければ、実朝、一所にてありければ、実朝、面にふたがりて戦はせければ、当時ある程の武士は、皆、義時が方にて、二日戦いて、義盛が頸とりてけり。それに同意したる児玉、横山なんど云ふ者は、皆、失せにけり。
 其の後、又、頼家が子の、葉上上人がもとに法師になりてありける十四になりけるが、義盛が方に打ち漏らされたる者の集まりて、一心にて此の禅師を取って打ち出んとしける。又、聞へて、皆、討たれにけり。十四になる禅師の自害、いかめしくしてけり。其の後は、少し鎮まりにけり。

(源実朝は、また、関東で不可解な事が起こり、御所を全焼され、命の危険にさらされたことがあった。和田左衛門尉義盛という「三浦長者(三浦一族の長)」は、北条義時を深く恨み、討とうとした。しかし、「暗殺計画が露見した」と聞いて、突然、建暦3年5月2日、北条義時の屋敷を攻めた。源実朝も、北条義時の屋敷にいて、源実朝が先頭に立って戦うと、(北条側につこうか、和田側につこうか、どちらが幕府軍(官軍、大義名分にある軍)か迷っていた)当時、鎌倉にいた武士は、(源実朝の姿を見て)皆、北条義時方につき、2日間戦って、和田義盛の首を取った。和田義盛についた児玉党、横山党なども、全員、討ち取られた。
 その後、また、源頼家の子で、葉上上人(栄西)のもとで法師になっていた14歳の子・栄実のもとに、和田義盛方の残党が集まり、心を1つに、この禅師・栄実を擁して謀反を起こそうとした。またこれも発覚して、謀反人は皆、討ち取られた。14歳の禅師・栄実は、立派にも自害した。その後、関東は、少し鎮まった。)

※千寿丸:「千手丸」とも表記。源頼家の三男。泉親衡に擁立され、源実朝&北条義時暗殺に加担させられるが、建暦3年(1213年)2月15日、計画が露見して捕縛された(「泉親衡の乱」)。祖母・北条政子の命により、出家することで助命され、栄西の弟子になって栄実と名乗った。京都滞在時に「和田合戦」の残党に擁立されて六波羅を襲撃しようとするも、計画が露見し、建保2年(1214年)11月13日、一条北辺の旅亭で幕府方の襲撃を受けて自害した。享年14。

源頼家┬長男・一幡     :母は比企能員の娘
        ├次男・善哉丸→公暁  :母は賀茂重長の娘
        ├三男・千寿丸→栄実  :母は一品房昌寛の娘
           ├長女・竹御所    :母は源義仲の娘
           └四男・?→禅暁    :母は一品房昌寛の娘

 「和田合戦」といえば、執権・北条義時(北条氏、足利氏、千葉氏) vs 侍所別当・和田義盛(和田氏、三浦氏、横山氏、土屋氏)の合戦であって、三浦義村の裏切りで北条義時が勝利した。 この「和田合戦」の再考のポイントは、
論点①:三浦義村が裏切った時期は「和田合戦」の直前か、最初からか。
論点②:源実朝の扱い。御所が焼かれているので、源実朝も標的ではないかとする説と、源実朝と和田義盛は仲が良く、源実朝は標的ではなかったとする説がある。

(1)論点① 三浦義村が裏切った時期


 北条氏と和田義盛や三浦義村といった三浦一族は内部で対立したようで、北条義時が対立した比企氏の娘と離婚したように、北条泰時は三浦義村の娘(『鎌倉殿の13人』では「初」)と離婚した。もし三浦義村の裏切りが「和田合戦」の直前ではなく、最初から(三浦義村は、北条義時に和田義盛を討たせて「三浦長者」になろうと企んでいた)であり、この離婚が、「北条氏と三浦義村は仲が悪い」と和田義盛に思い込ませるための作戦(偽装離婚)なら、それは凄いことだと思う。

(2)論点② 攻撃対象


 『愚管抄』では、攻撃対象を北条義時とするが、『吾妻鏡』を素直に読むと、仲良し3人組、すなわち、源実朝(伊豆国から来た流人の子)、北条義時(伊豆国の土豪・伊東氏配下の小豪族)、大江広元(京都では出世の見込みがないので、いちかばちかで鎌倉の下向した公家)であり、和田義盛は軍勢を3つに分けて、源実朝の御所、北条義時邸、大江広元邸を攻めたとする。結果、和田義盛は負けた。そして、関東の有力武将は三浦義村くらいで、関東は新参者の仲良し3人組が支配することになった。
 新説では、源実朝と和田義盛は仲が良く、源実朝は標的ではなかったとする。

2. 「和田合戦」の実際

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3. 「和田合戦」の影響

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                ▲『詳説日本史図録』(山川出版社)

執権体制化の源実朝


説①「和田合戦」後、源実朝は
消極的になった。

 源実朝は、和田義盛の死により、政治は執権・北条義時に任せて、高校日本史の補助教材『詳説日本史図録』にあるように、「現実から逃避」したとする。

  世の中は常にもがもな渚こぐ海人の小舟の綱手かなしも
(世の中は、いつまでも変わらないでほしいものだなあ。渚を漕ぐ漁師の小舟(源実朝)が、綱手(北条義時)にひかれてゆく様は、何とも切ないものだ。)

・和歌  :歌道に没頭。
・渡宋計画:命を狙われているので、宋に亡命したいと思った。
・昇進願望:死ぬ前に可能な限り位階を上げておきたい。

説②「和田合戦」後、源実朝は積極的になった。

 源実朝は、和田義盛の死により力を得た執権・北条義時に対抗できる力を欲しがり、後鳥羽上皇に急接近した。
・和歌  :歌道は、公家や後鳥羽上皇に接近する道。
・渡宋計画:日宋貿易をしたいと思った。
・昇進願望:執権・北条義時を大きく引き離す地位を得たい。

建暦 3年(1213年)5月2&3日 「和田合戦」
            5月21日 鎌倉大地震
          12月18日 『金槐和歌集』成立

源実朝の歌集『金槐和歌集』は、「和田合戦」の約7ヶ月後に完成した。
注目すべきは、最後の3首「太上天皇御書下預時哥」(太上天皇(後鳥羽上皇)の御書(お手紙)を下し預りし時の歌)である。

太上天皇御書下預時哥
①大君の勅をかしこみちちわくに心はわくとも人に言はめやも
②東の国に我をれば朝日さす藐姑射(はこや)の山の影となりにき
③山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

①大君の勅書を謹んで承り、あれこれと心はワクワクしますが、人に言ったりしましょうか(言いませんよ)。
※ちちわくに:とやかくと。
※心はわく:「分く」で「分かる」の意とする説と、「湧く」で「心が湧き立つ」の意とする説がある。
②東国(鎌倉)に私はおりますので、朝日が昇る藐姑射の山、すなわち、院御所の影に入っています。(京都は鎌倉の西であるから、「夕陽さす」だと思うが。)
※藐姑射の山(はこやのやま):①中国で、仙人が住んでいるという想像上の山。姑射山(こやさん)。 ②日本で、上皇の御所を祝っていう語。仙洞御所。
③(鎌倉大地震では)大地が裂け、海が浅くなったが、私(源実朝)が君(後鳥羽上皇)に背くことはありません。
「実朝はこの時期、和田合戦を経験した。さらに、その直後に鎌倉を襲った大地震で現実に「山が裂ける」のを見た。たとえそうなったとしても、後鳥羽院に対する忠誠は変わりませんと強く訴えたのである。大げさな表現であるが、実朝の本心を示したものであることは確かであろう」(三木麻子『源実朝』)

■太宰治『右大臣実朝』
このとしの三月、弾正大弼仲章さまの御使者が、京都より到着なさいまして、去月二十七日京都の御所に於いて、このたび閑院内裏御竣工につきその造営の賞が行はれ、将軍家正二位に陞叙せられた事の知らせがございまして、昨年の暮、従二位に叙せられたばかりのところ、今また重なる御朝恩に浴し、これすでに無上の光栄、かたじけなさにお心をののいて居られる御様子に拝されましたが、さらにその除書に添へられ、かしこくも仙洞御所より、いよいよ忠君の誠を致すべし、との御親書さへ賜りました御気配で、その夜は前庭に面してお出ましのまま、深更まで御寝なさらず、はるかに西の、京の方の空を拝し、しきりに御落涙なさつて居られました。
百ノ霹靂一時ニ落ツトモ、カクバカリ心ニ強ク響クマイ。
 と蒼ざめたお顔で、誰に言ふともなく低く呻かれるやうにおつしやつて、その夜、三首のお歌を謹しみ慎しみお作りになられました。
太上天皇御書下預時歌
オホキミノ勅ヲカシコミ千々ワクニ心ハワクトモ人ニイハメヤモ
ヒンガシノ国ニワガヲレバ朝日サスハコヤノ山ノカゲトナリニキ
山ハサケ海ハアセナム世ナリトモ君ニフタ心ワガアラメヤモ
 御説明もおそれおほい事でございますが、ハコヤノ山とは藐姑射之山、仙洞と同義で、すなはち仙洞御所をそのやうに称し奉る御ならはしのやうでございます。このお歌に就いても、いつたいその時の御書の御内容はどういふものであつたのか、さうして将軍家はそれに依つて如何なる決意をなさつたのか、などと要らぬ不敬の探索をなさるお方もございますやうですが、別にそのやうな御苦労の御詮議をなさるまでもなく、何もかもそつくり明白にそのお歌に出てゐるではございませぬか。かたじけなくも御親書を賜り百雷一時に落ちる以上の強い衝動を覚えられ、その素直なる御返答として、大君への純乎たる絶対の恭順のお心をお歌におよみになつたのでございますから、御書の御内容もおのづから推量できる筈でございます。すなはち将軍家に対して、さらに朝廷への忠勤をはげむやう、との極めて御当然の御勅諚であられたといふより他には何も考へられないではございませぬか。前にもくどいくらゐ申し上げましたが、将軍家のお歌はいつも、あからさまなほど素直で、俗にいふ奥歯に物のはさまつたやうな濁つた言ひあらはし方などをなさる事は一度もなかつたのでございます。この時お二方の間に、何か御密約が成立したのではなからうか、などとひどく凝つた推察をなさるお人さへあつたやうでございますけれど、それなら、将軍家の方からも機を見てひそかに御返書を奉るべきでございまして、何もことさらに堂々とお歌を作り、御身辺の者にも見せてまはるなどは、とんでもない愚かな事で、ばからしいにも程がございます。そのやうな、ややこしい理由など、一つも無いのでございます。大君への忠義の赤心に、理由はございません。将軍家に於いても、ただ二念なく大君の御鴻恩に感泣し、ひたすら忠義の赤誠を披瀝し奉らん純真無垢のお心から、このやうなお歌をお作りになつたので、なんの御他意も無かつたものと私どもには信ぜられるのでございます。御胸中にたとひ幽かにでも御他意の影があつたら、とても、このやうに高潔清澄の調べが出るものではございませぬ。将軍家はこの時は御年わづかに二十二歳でごさいましたが、このとしの暮に、例の、鎌倉右大臣家集または金槐和歌集とのちに称せられた御自身の和歌集を御みづからお編みになつてその折に、この三首のお歌を和歌集の巻軸として最後のとどめの場所にお据ゑになり、やがてその御歌集を仙洞御所へも捧げたてまつつた御様子でございました。


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