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小説書いてみた。─明智光秀の最期─

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(1)短編小説『光秀の最期』


 明智光秀、正確には惟任日向守光秀は、「本能寺の変」の時、本陣にいて、本能寺にはいなかったというが、「山崎合戦」の時も、戦場からかなり離れた御坊塚(恵解山古墳)の本陣にいた。そして、明智軍の形勢が不利になると、明智光秀は、ひとまず勝竜寺城へ逃げ込んだ。その後、「山崎合戦」で勝利をおさめた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、勝竜寺城を取り囲んだ。

 ここにきて、羽柴秀吉に不利な連絡が届いた。先日、正親町天皇が、明智光秀に「天下を任せる」と言い、噂では明智光秀は征夷大将軍に任命されており、その明智光秀を倒そうとする羽柴秀吉は、天皇の命に背く逆賊だと噂されているというのである。

 ──このまま攻め続けたらまずい。

 羽柴秀吉は、勝竜寺城の北の守備を解いた。案の定、明智光秀は、勝竜寺城の北口から坂本城を目指して勝竜寺城から脱出した。
 勝竜寺城といえば、細川藤孝の城であった。かつて羽柴秀吉は、この細川藤孝と共に戦ったことがあった。六角征伐──織田信長の足利義昭を擁しての上洛の前哨戦である。この時、細川藤孝は城を包囲すると、南側を開けて六角方の城兵を逃し、空同然の城を攻め落とすという戦法をとったことを羽柴秀吉は思い出したのであろう。

 もちろん、羽柴秀吉は明智光秀を逃がそうとは思ってはいない。家臣に農民に変装させて後をつけさせ、

 ──隙きあらば討て。

と命じた。明智光秀は、羽柴秀吉が倒したのではなく、落ち武者狩りに遭って倒れたとしたかったのである。逆賊にはなりたくなかった。(後に羽柴秀吉は、正親町天皇の宣下を無かったこととし、自分が明智光秀を倒したと猛烈にアピールするのではあるが・・・。)

 ──明智光秀は、疲れていた。

ふと気づくと、自分の前を歩いていた一団が随分と先にいて、自分が集団の先頭になっていた。

 ──まずい。間を詰めねば。

そう思った瞬間、落ち武者狩りの連中が、目の前の竹藪から飛び出してきた。「あっ」と思った瞬間、左の脇腹に激痛が走った。かなり痛い。生まれて初めて味わう激痛である。手で押さえても血が止まらない。

 ──上様と同じ場所を、同じ武器で突かれるとは、これは因果応報か。

騒ぎに気づいた前を歩いていた一団が戻ってきて、落ち武者狩りの連中を追い払ったが、明智光秀が受けた傷は予想以上に深く、しばらく先まで進んだが、観念して切腹し、明智勝兵衛が介錯した。時は天正10年6月。命日は13日だとされるが、実は14日へ変わった直後であった。月は満月に近かった。

(2)ちょっと長い「あとがき」(自己解題)


★細川藤孝の策

 細川藤孝を描いた細川家譜『綿考輯録』のネタ本『永源師檀紀年録』によれば、箕作城を取り巻いて、三昼夜、四方から絶えること無く攻めたところ、細川藤孝と明智光秀が、城兵が辟易していることを見てとり、南側からの攻撃を中止すると、城兵は、南から逃げ出したとあります。細川藤孝は、観音寺城を取り巻いている織田信長にその事を伝え、「観音寺城も同様にしましょう」と言うと、織田信長は、「鏖(なべ)ん」(皆殺しにする)と言ったので、細川藤孝は、「足利義昭公の代理で戦っているのであるから、徳に欠けてはならない。罰を軽くし、賞を重くすれば、戦わずして敵は服従するものだ」と諭し、織田信長が細川藤孝の言うことを信じて、南側をあけると、城兵は逃げたり、降参したりしたとある。

『永源師檀紀年録』
 九月十一日より三州勢、岐阜勢、埋草、野草を用て左右より鉄炮打ち掛け、三昼夜たゆなく攻にれば、城柔り、義弼を始め、吉田雲州実重、匹田四郎左衛門、今村掃部頭、真野土州信重、大宇和州、舟木十兵衛、駒井作州氏宗、建部源八信勝等、必死に究て支へるを、藤孝、光秀料り知て軍使を信勝に馳せて曰く、「城中柔りてみへぬ、一方を攻られば、退散せんか」と。其の言の如、南一方を開ぬれば、果して城兵、遁れ去る。細川の臣・松井康之、志水清久等を初め、最も戦功あり。
 藤孝、又、虎口の場を一色に預け、自ら急に観音城に至り、信長に謂て曰く、「今、箕作陥りぬ。此の城をも一方を啓て厳しく攻られんか。其の際に、某は、城中の近藤、後藤等え書を馳せ、開城して遁さしめん」と。信長の曰、「鏖(なべ)ん」と。藤孝曰、「不可也。公は、義昭公の羽翼として忠義の旗を揚ぐる。初に仁恵を本とせずんば非ず。殺さずして人を和し、罰を軽くし、賞を重くせば、刃に血ぬらずして服従す可し。如かじ徳を仰れんには」と。信長、此を信用して、南を啓て攻ぬれば、果して、或は降し、或は遁ぬ。

 『黒田家譜』には、羽柴秀吉が勝龍寺城の北側を開けたのは、黒田官兵衛の策で、逃げる城兵が現れて、城兵の数が少なくなることを期待してのことであり、明智光秀がの領国・丹波国へ逃げ込むと考え、丹波側(北側)を開けたとある。
 なお、『黒田家譜』では、明智光秀の享年を55ではなく、57としている。『明智軍記』をはじめ、ほとんどの本が明智光秀は子年生まれで、享年55としており、享年57とするのは、『黒田家譜』以外では、『織田信長譜』『続本朝通鑑』、細川家譜『綿考輯録』くらいである。

■『黒田家譜』
孝高、思案して秀吉に告げ給ひけるは、「明智、一命を捨て、防がんと存じ候えども、付き従ふ士卒は此の大軍に囲まれ、数千の篝火(かがりび)に気を落としなば、必ず逃げんと思ふ心出来申し候べし。今夜、一方の責め口を明け候はば、士卒大半、落ち失せ申すべし。然らば、明智は、今夜、城を出て落ち行くか、若し其のまま籠城仕り候は、敵の人数、減じ候はば、明日の合戦、身方に勝利を得ん事、たやすかるべく候。明智が領地、丹波の方の囲みをときて責められ然るべく由」申されければ、秀吉、「尤も」と思し召して、北の口の責め口を明け給ふ。案のごとく、其の夜、城中の士卒、彼の明けたる方より大勢落ち失せ、残る勢すくなければ、戦はんとするに力なくして、其の夜半ばかりに、明智日向守、従者5、6人召し連れ、ひそかに城を出て、江州坂本の城へと心ざし、本道をば通らずして、伏見山を過ぎ、山中にて物の具ぬぎ捨て、小栗栖を通りける時、郷人共出でて、藪の内より、鎗にて突ける。光秀、手を負ひければ、持ちたる鎗を田の中に立て置きて逃げたりける。鎗を立て置きし事は、「鎗を捨てて逃げたり」といはれじと也。其の後、終に、郷人に討れける。明智が城を出て後、其の余の敵共も落ち行ける。光秀は此の時、57歳也。主君を殺して天下を奪はんとせしが共、天罰なにかわ遁るるべき。兼ねて思ひし事も1つも叶わず、13日を経て、同月14日に亡ひける。

★明智光秀は、なぜ竹槍で討たれたのか。

「甲冑を着ていれば、竹槍は刺さらないはず」
ですが、逃げる時は、できるだけ馬に負担をかけず、早く走られるように甲冑を脱いで軽くするのが原則で、実際、『黒田家譜』や『豊鑑』には甲冑を脱いだとあります。
 また「落ち武者狩り」「一揆衆」というのは村の自警団であり、甲冑を身に着け、槍や刀を持っていたと言います。(それで豊臣秀吉は「刀狩り」を行った。)

★明智光秀は誰にどこを刺されたのか?

 後掲『明良洪範』には、「小栗栖の作右衛門が脇を刺した」とあります。小説では、「羽柴秀吉の家臣が落ち武者狩りに変装して討った可能性も有り」としてみました。
 明智光秀が刺された箇所は、上の錦絵にあるように左の脇腹です。
 織田信長は、安田国継に「肘」を刺されたと太田牛一『信長公記』にありますが、肘を刺されたくらいでは死を覚悟しないでしょう。『翁草』では「右の脇腹」としています。小説では、明智光秀同様、「左の脇腹」としました。

★当日、月は出ていたか?

 当日は13日。満月の15日まであと2日。あと少しで・・・。
 上の錦絵では、雨が降っているのに月は出ています。小説でも月が出ていることにしましたが、後掲の太田牛一『太閤様軍記』では、雨が降っていて、月が雨雲に隠された闇夜であり、明智光秀は、畦道を踏み外して深田に落ち、匍匐前進しているところを百姓に棒でビシバシ殴られて死んだとしています。美しくない・・・。

★従者は何人いたのか?

 織田信長の「金ヶ崎の退き口」にしても、武田勝頼の「長篠の戦い」後にしても、最終的には数騎になったという。これは、織田信長や武田勝頼が名馬に乗って先頭を駆けたので、多くの家臣は追いつけなかったということであろう。「本能寺の変」の時も、本能寺に入ると、まずは馬小屋をおさえた。織田信長が駿馬に乗ったら誰も追いつけず、逃げられるからである。
 この勝竜寺城からの脱出に関しても、通説では「最後は7騎」とされる(上掲『黒田家譜』には「明智日向守、従者五、六人つれ、ひそかに城を出て」と最初から7騎とある)が、後掲『明智軍記』には、勝竜寺城を出た時は500余騎であったが、最終的には30余騎で、明智光秀は6騎目だったとある。
 落人狩りが最初の5人を刺さず、6人目を刺したことを、『明智軍記』では「薄運」とするが、6人目が一番いい着物を着ていて、大将ぽかったので刺したとも考えられる。(大将(最も懸賞金が高い人物)は、列の真ん中にいることが多い。)小説では、「第一集団の人達に離されて、明智光秀が第二集団の先頭になっていたために狙われた」と解した。あるいは、落ち武者狩りに変装した明智光秀の顔を知っている武士が討ったのか。

★殉死者はいたのか?

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