見出し画像

水野信元の死

 水野信元の死については、誅殺説、切腹説、銃殺説がある。
 死因も謎だが、「織田信長は、なぜ水野信元を岐阜に呼んで誅殺しなかったのか」、言い換えれば、「なぜ水野信元は岡崎で誅殺されたか」である。
考えられる理由には、
・誅殺されることを知った水野信元は、岡崎に逃げ込んだ。
・伯父が誅殺されることを知った徳川家康は、岡崎に呼んで匿った。
くらいしか思いつかないが、
・水野領を奪って佐久間に与えるための誅殺(信長&家康共犯説)
という学説があるそうだ。「戦国時代勢力図」を見たら、尾張国(織田領)と三河国(徳川領)の国境に「水野領」が描かれていたが、こうして水野領は消えた。(「徳川家康は三河国を平定した」とされているが、「ほぼ平定」であり、三河国西端の南部は水野領で、北部は織田領だったようだ。)

 『どうする家康』では、「織田信長は、裏切り者が築山殿と知った上で、まずは伯父を殺させて、『裏切り者は親族であっても死罪だ』と警告した」(織田信長は、裏切り者が親族であっても殺せるか、徳川家康の忠誠心を試した)とした。

 時系列に沿って見ていこう。
①五徳から織田信長に手紙(報告書)が届く。内容は「築山殿が望月千代と会っている(武田と内通している)」であった。呼ばれた佐久間信盛が、織田信長に「武田と内通している不届きな者は誰?」と聞くと、織田信長は五徳からの手紙を燃やし、「水野信元が岩村城に兵糧を送っている」と答えたようだ。
②翌日、水野信元が呼び出され、佐久間信盛が「岩村城に兵糧を送った罪が問われている。判決を岡崎城で待て」と告げられた。佐久間信盛は、水野信元を岡崎城まで送った足で浜松城へ行き、徳川家康に、水野信元を殺すよう告げた。
③身の危険を感じた水野信元は、大樹寺へ逃げ込んだ。
④水野信元は、徳川家康に、「裏切るとこうなるという見せしめのための死罪」「身近な誰かが裏切っている」と言った。
⑤水野信元が脇差を抜き、切腹すると見せかけて、久松長家を人質にとると、背後から平岩親吉に斬られた。
と通説を上手にアレンジした。その通説では、
①「水野信元が岩村城に兵糧を売っている」と佐久間信盛が織田信長に讒言した。
②織田信長は、徳川家康に、水野信元を殺すよう告げるが、出来ない徳川家康は、水野信元を大樹寺に潜居させた。
③徳川家康は、織田信長から再度水野信元を殺すよう告げられた。『寛政重修諸家譜』では、潜居先の大樹寺へ使者・石川数正が迎えに行き、岡崎城へ向かう途中、密命をうけた平岩親吉が斬った。
とする。

 12月、水野下野守信元、織田右府の怒りに触る事あり。右府より東照宮の御許に信元を害すべき旨申し来るといへども、これを殺すに忍び給はず、大樹寺に潜居せしめらるゝのところ、右府、怒解ざるにより、石川数正をして信元を岡崎にむかへしめらるゝのとき、親吉、密旨を奉はり、中途にして、これを殺害す。

(天正3年(1575年)12月、水野信元は、織田信長の怒りに触れた事があった。織田信長から徳川家康へ「水野信元を殺すように」と言ってきたが、徳川家康は、水野信元を殺す事が出来ず、大樹寺に潜居させていたが、織田信長の怒りが解けなかったので、石川数正を使者として水野信元を岡崎城に迎え入れる時、平岩親吉が密命を受け、大樹寺から岡崎城に向かう途中で、水野信元を殺害した。)

『寛政重修諸家譜』

【原因】
・水野信元と佐久間信盛の仲の悪化

【影響】
・久松長家が出奔→於大の方の岡崎城入り
・於大の方と石川数正の仲の悪化→石川数正の出奔


記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。