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『ウィキペディア(Wikipedia)』に書いてあることは事実か? ─【検証】藤原道綱【人物評】編─

 以前の私のモットーは、
──現地で考える。
で、現地へ行き、書き上げた記事は、現地の写真と、現地案内板の文字起こしが中心で、「論文」ではなく「紀行文」でした。ところが昨年の事故で、車椅子生活。しかも、外出禁止。視力は0.75以上あるので、運転免許の更新はできるけど、視界が狭く、車の運転は超危険とのこと。そんなわけで、運転免許を返上し、
──まずは参考に『ウィキペディア(Wikipedia)』を読んでから書く。
ということが多くなりました。

ところで、『ウィキペディア(Wikipedia)』に書かれている事は事実?

今回、思い立ったのは、

──藤原道綱【人物評】について記事を書こう。

です。

 早速、『ウィキペディア(Wikipedia)』を読みました。

人物
 官途における競争相手であった藤原実資は道綱のことを「一文不通の人(何も知らない奴)」「40代になっても自分の名前に使われている漢字しか読めなかった」などと記している[5]。父や兄弟に見られるような政治的才能や、母のような文学的素養はなかったと伝えられている。
 母が著した『蜻蛉日記』における道綱に関する記述は、母から見ても「大人し過ぎるおっとりとした性格である」と記されているが、弓の名手であり、宮中の弓試合で少年時代の道綱の活躍により旗色が悪かった右方を引き分けに持ち込んだという逸話が書かれている。
 勅撰歌人として『後拾遺和歌集』[7]、『詞花和歌集』[8]、『新勅撰和歌集』[9]、『玉葉和歌集』[10]、に各1首づつの計4首が入集している[11][12]。また、『和泉式部集』に和泉式部と歌の贈答が見えるが、そこで和泉式部は道綱のことを「あわれを知れる人」と詠んでおり、道綱に対して好感を持っていた様子が窺われる[13]。

『ウィキペディア(Wikipedia)』「藤原道綱」(2024/3/2現在)

 次に「藤原道綱」で検索して、「藤原道綱」について書かれた記事を読んでみました。

──ほとんどの記事が『ウィキペディア(Wikipedia)』と同じでした。

 完全一致したということは、
可能性①『ウィキペディア(Wikipedia)』にも記事にも事実が書かれている。
 徳川家康ですと、伝承や伝説はたくさんあるので、その中からどれを取り上げるかは、『ウィキペディア(Wikipedia)』の筆者と記事の筆者とでは選択基準が異なり、記事の内容も異なるのでしょうが、藤原道綱のようにエピソードが少ないと、完全一致してしまうようです。

可能性②記事のライターが『ウィキペディア(Wikipedia)』を写した。
 Webライターの原稿料は安く、1日に4記事は書かないと生活できないので、生活のために容易に書ける道を選んでしまうようです。

──記載事項が事実かどうか検証しましょう。

【検証事項①】藤原実資は、日記『小右記』に藤原道綱のことを「一文不通の人(何も知らない奴)」と記している。
【検証事項②】藤原実資は、日記『小右記』に藤原道綱のことを「40代になっても自分の名前に使われている漢字しか読めなかった」と記している。
【検証事項③】父や兄弟に見られるような政治的才能や、母のような文学的素養はなかったと伝えられている。
【検証事項④】母が著した『蜻蛉日記』に、母から見ても「大人し過ぎるおっとりとした性格である」と記されている。
【検証事項⑤】母が著した『蜻蛉日記』に、「弓の名手であり、宮中の弓試合で少年時代の道綱の活躍により旗色が悪かった右方を引き分けに持ち込んだ」という逸話が書かれている。
【検証事項⑥】勅撰歌人として『後拾遺和歌集』『詞花和歌集』『新勅撰和歌集』『玉葉和歌集』に各1首づつの計4首が入集している。
【検証事項⑦】『和泉式部集』に和泉式部と歌の贈答が見えるが、そこで和泉式部は道綱のことを「あわれを知れる人」と詠んでおり、道綱に対して好感を持っていた様子が窺われる。

※『ウィキペディア(Wikipedia)』に事実に反することが書かれている場合は「ノート」で、指摘されますが、現時点(2024/3/2時点)での「人物」についての指摘はありませんでした。


【検証事項①】

 藤原実資は、日記『小右記』に藤原道綱のことを「一文不通の人(何も知らない奴)」と記している。
→「一文不通」は「文字の読み書きができない」の意味であるが、藤原道綱は勅撰歌人であるから、ありえないので、歴史学者の呉座勇一先生は、「漢文の読み書きが出来ない人」と解釈しておられる。
 『小右記』は長文だが検索サイトがある。「一文不通」でヒットしたのは1件のみ。その記事の文脈からは「政治に疎く、大臣になった前例がない人」と読み取れる。現代語訳は、「何も知らない奴」でもよいが、「文字の読み書きが出来ない一文不通の人のように、政治に関しては何も知らない奴」かなと。

【検証事項②】

 藤原実資は、日記『小右記』に藤原道綱のことを「40代になっても自分の名前に使われている漢字しか読めなかった」と記している。
→検索用語が不適切であったのか、ヒットせず。「自分の名前に使われている漢字しか読めなかった」の有無は不明だが、藤原道綱が43歳の時の記事に「わずかに名字は書ける」とある。
→現時点での結論では、事実無根。『ウィキペディア(Wikipedia)』の筆者の誤りであり、「40代になっても自分の名前に使われている漢字しか読めなかった」と書いてある記事は、自分で調べて書いた記事ではなく、『ウィキペディア(Wikipedia)』を写した記事であると考えられる。自分で調べて書いた記事では「40代になっても自分の名字しか書けなかった」となっている。

【検証事項③】

 父や兄弟に見られるような政治的才能や、母のような文学的素養はなかったと伝えられている。
→『小右記』を読むとそんな感じがする。
→和歌については、母親が代筆した話が『蜻蛉日記』に載っている。

【検証事項④】

 母が著した『蜻蛉日記』に、母から見ても「大人し過ぎるおっとりとした性格である」と記されている。
→検証中

 藤原道綱が優しい子であったことは、テストによく出る「鷹を放つ」のエピソードから分かりますね。

【検証事項⑤】

 母が著した『蜻蛉日記』に、「弓の名手であり、宮中の弓試合で少年時代の道綱の活躍により旗色が悪かった右方を引き分けに持ち込んだ」という逸話が書かれている。
→「宮中の弓試合で少年時代の道綱の活躍により、旗色が悪かった「しりへ」(後手組)を引き分けに持ち込んだ」とは書いてあるが、「弓の名手」とは書いてない。

【検証事項⑥】

 勅撰歌人として『後拾遺和歌集』『詞花和歌集』『新勅撰和歌集』『玉葉和歌集』に各1首づつの計4首が入集している。
→この通り。

【検証事項⑦】

『和泉式部集』に和泉式部と歌の贈答が見えるが、そこで和泉式部は道綱のことを「あわれを知れる人」と詠んでおり、道綱に対して好感を持っていた様子が窺われる。
→和泉式部は、夫が死んですぐに藤原道綱に文を送っており、その後、やり取りが続いているので、好意は持っていたのかもしれない。
『和泉式部集』に、
  さる目見て世にあらじとや思ふらんあはれを知れる人の問はぬは
(このようなつらい目(夫・帥宮が27歳という若さで薨去)に遭い、「もう死んでしまおう」と思っている。可哀そうだと思ってくれる人が訪ねてこないので。)
とある。和泉式部は「(藤原道綱は「あわれを知れる人」だと思っていたが、実は「あわれを知らぬ人」であり)来て慰めてくれない」と恨んでいるようであり、藤原道綱は「自殺されて、その原因が自分にあると広められたら迷惑である」と思ったのか、文を送って反論し、その後、文の応酬となった。
 なお、この歌は、『和泉式部続集』では、
  さる目見て生けらしとこそ思ふらめ哀知るべき人も問はぬは
(このようなつらい目(夫・帥宮が27歳という若さで薨去)に遭ったが、「頑張って生きていこう」と思っている。可哀そうだと思ってくれるはず人が訪ねてこないので(あてつけに)。)
と書き換えて掲載されている。和泉式部、恐るべし。

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