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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第28回)「名刀の主」


タイトルの「名刀」は、梶原景時と善児のダブルミーニングか?

▲梶原景時弾劾事件

 「鎌倉殿」源頼朝が亡くなり、源頼家が鎌倉殿になると、安達盛長の子・安達景盛の愛妾(『鎌倉殿の13人』では妻)を奪おうとするなど、有力御家人と対立するようになった。この状況を嘆いた結城朝光は、「吾聞、『忠臣不事二君』云々。殊蒙幕下厚恩也。遷化之刻、有遺言之間、不令出家遁世之條、後悔非一。且、今見世上、如踏薄氷」(私が聞くに、『史記』に『忠義な家臣は、2人の主君には仕えない』とあるそうだ。特に主君・源頼朝様にはご恩を受けた。遷化の時に遺言があったので、出家して隠居しなかった事を、後悔している。かつ、今の政局は、薄氷を踏むようなものである)と仁田忠常に言った。これを盗み聞きした善児は、梶原景時に報告すると、梶原景時は、これは「源頼家の政治の批判である」と、源頼家に讒言した。

 翌々日(正治元年(1199年)10月27日)、女房(御所に勤める女官)・阿波局(北条政子の妹。『鎌倉殿の13人』では実衣)は、琵琶の師・結城朝光に「梶原景時に讒言されて悩んでいる」と告げられた。(『鎌倉殿の13人』では、これは梶原景時を鎌倉から追い出すためのラスボス・三浦義村の策だとする。)
 ところで、先週も、今週も気になっているのだが、琵琶を横倒しにしてギターのように持っている。琵琶は立てて持つ楽器だと思うぞ。

 三浦義村は、「源頼家に梶原景時の弾劾状を出そう」とし、署名運動を始めた。梶原景時のやり方を良しとしない御家人は多く、『吾妻鏡』には、一夜にして梶原景時糾弾の連判状に66名の御家人が署名したとあるが、『吾妻鏡』には38名しか記載されておらず、他の28名が誰だか分からない。(北条時政&義時の名は38名の中には無い。28名の中に含まれているのか、そもそも66名に含まれていないのか。)
 『鎌倉殿の13人』では67人の署名が集まり、りくの作戦で、端に書いた北条時政を切り取って、66人としたとする。

 「鎌倉殿」源頼家は、結城朝光の反逆の件は「結城朝光は無罪(梶原景時の報告は間違い)」と判決を下した上で、連判状を梶原景時に見せて弁明を求めたが、梶原景時は、何の抗弁もせず、「鎌倉殿に一任」としたので、「鎌倉殿」源頼家は、梶原景時を「奥州外ヶ浜(青森県北部、津軽半島の北東部)への流罪」とした。

■「梶原景時館跡」(現地案内板)
 梶原景時は治承4年(1180年)8月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。
 景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将でした。
 頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199年)11月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治2年(1200年)正月20日午前2時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最後を遂げました。
 館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。
  平成21年3月
                         寒川町教育委員会

※結城朝光(小山朝光)は、源頼朝の乳母・寒河尼の子とされるが、寒河尼の娘と源頼朝の子とする説もある。(伊豆配流時代の源頼朝の世話をしていたのは亀の前であるが、寒河尼の娘も世話をしていたという。)

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▲梶原景時の死

 『鎌倉殿の13人』の梶原景時は、一幡(源頼家の長男)を人質に、上京しようとして、北条義時が来るのを待っていた。
「刀は斬り手によって名刀にも、なまくらにもなる。なまくらで終わりたくはなかった」→武士らしく華々しく戦で死ぬ。
「坂東武者のために働け。源氏は飾りに過ぎぬ。忘れてはおらぬな? 己の道を行け」
「お主に譲る」(善児を譲る)
と言い残し、一幡を解放して奥州外ヶ浜へ向かった。北条義時は、上京する気であることを見抜き、追討軍の召集を指示した。
 なお、一幡は、3年後の建仁3年(1203年)9月2日、北条義時の郎党・藤馬(とうま。万年右馬允とも)に捕らえられて刺し殺されることになる。『鎌倉殿の13人』では、藤馬ではなく、善児が殺すのであろう。

 歴史の解説書は新しい程良い。日進月歩の研究──古い本を読んで、学会で否定された説を学んでいる時間が惜しい。
 上掲の平成21年(2009年)の現地案内板には、「一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最後を遂げました」とある。
 『鎌倉殿の13人』では死ぬシーンはなく(次回の冒頭にある?)、大河紀行では「鎌倉を追われ、京を目指した梶原一族。その道中、駿河の関所付近で追討軍と戦いました。静岡県静岡市。関所の跡地に立つ清見寺。大玄関の天井はこの戦いの血痕が残る古板が用いられたと伝わります。激闘の末、景時は現在の梶原山へ追い詰められました」と紹介された。
 最新の本には、梶原景時の死について、次のように記されている。

今年の5月10日に発売された本には、

■山本みなみ『史伝 北条政子』(NHK出版新書)2022/5/10(p.106)
梶原一族は上洛の途中、駿河国清見関で幕府の派遣した討手に襲われ、滅亡するに至る。

2ヶ月後の今月10日に発売された本には、

■坂井孝一『鎌倉殿をめぐる人びと』(NHK出版新書) 2022/7/10(p.116)
上洛を企てたが、途中の狐ヶ崎付近で一族もろとも討ち取られた。

と、2ヶ月で学説が変わったとは思えないが、記述は微妙に異なり、どちらが最新の学説なのか判断できない。

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 私は、古い学説も、新しい学説も知らないが、地元の伝承なら知っている。地元では、

梶原の一族郎党33人は、上洛の途中、夜の10時頃、駿河国清見関で在地武士に見つかり、清見関を突破して狐ヶ崎(矢崎)周辺で戦ったが、在地武士がどんどん集まってきたので、
「もはやこれまで」
と夕日無山(梶原山)に登って自害した。
夜が明けて、鎌倉幕府の討伐軍が到着した時には、全てが終わっていた。

とされている。

 梶原景時の辞世には3パターンあり、どれが正しいか分からないが、歌意は
「(当国の郷士、家人等、勢を合して攻め来れば、もとより逃るるべきにあらず。今1日、路を進み得たらんには、再び頽勢(たいせい)を翻すこともあるべきに、途の半ばにて自害せんこと、まことに遺憾の極みなり。今日、吾、もとより死を決すれども)今、この路傍の露と消えれば、人は吾が深く期する所ありて上洛する心を知らず、『徒に生を惜しみて(午前2時に一宮館から)抜け出でし』とせんが、終生の憾(うらみ)なり。(然れども、天命、既に極まりてここに至りたれば、吾が心、既に決す。)」
であろうか。

▲名馬「磨墨(するすみ)

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 梶原景時と共に自害した嫡男・梶原景季の黒毛の愛馬を「磨墨」というが、インターネットで「磨墨」で検索したところ、「梶原景時の愛馬」とする記事が数多くヒットして驚いた。
磨墨が動かなくなると、梶原景季は、
「誰かに磨墨をられたくない」
として、磨墨を殺し、纏っていた鞍や轡等は投げ捨てた。それらの落ちた場所には神社が建てられた。(詳細は↓の別記事で。4万文字以上書いた。がんばった(*•̀ᴗ•́*)و ̑̑ )

・梶原景時(1/5)「梶原景時の変」(17705文字)
https://note.com/sz2020/n/nc49dc2b587d7
・梶原景時(2/5)「終焉の地」(10638文字)
https://note.com/sz2020/n/n977d1837530c
・梶原景時(3/5)「入江一族」(3336文字)
https://note.com/sz2020/n/nc87a237a9f64
・梶原景時(4/5)「嫡男の愛馬・磨墨」(11495文字)
https://note.com/sz2020/n/n62db75bf6aef
・梶原景時(5/5)「解説動画集」(0文字)
https://note.com/sz2020/n/n41e260888d8e

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▲北条時政の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

北条四郎時政┬長男・三郎宗時    (片岡愛之助)  :母・伊東祐親の娘
(坂東彌十郎) ├長女・政子=源頼朝室 (小池栄子)   :母・伊東祐親の娘
      ├次男・江間小四郎義時 (小栗旬)       :母・伊東祐親の娘
      ├次女・実衣=阿野全成室(宮澤エマ)   :母・伊東祐親の娘
      ├三女・ちえ=畠山重忠室(福田愛依)   :母・?
      ├四女・あき=稲毛重成室(尾碕真花)   :母・?
      ├三男・五郎時連→時房 (瀬戸康史)      :母・?
      ├?女・?=平賀朝雅室 (?):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=滋野井実宣妻(?):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=宇都宮頼綱室(?):母・りく=牧宗親の妹
      ├四男・遠江左馬助政範 (?):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=坊門忠清室(?):母・不明
      ├?女・?=河野通信室(?):母・不明
      └?女・?=大岡時親(牧宗親の子)室(?):母・不明

北条義時の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

北条義時──┬長男・金剛→頼時→泰時(坂口健太郎):母・伊東祐親の娘
(小栗旬)    ├次男・朝時(?):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├三男・重時(?):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├長女・竹殿=大江親広室(?):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├四男・有時(?):母・?=伊佐朝政の娘
       ├五男・政村(?):母・のえ=伊賀朝光の娘
       ├六男・実泰(?):母・のえ=伊賀朝光の娘
       ├七男・時尚(?):母・のえ=伊賀朝光の娘
       ├次女・?=一条実雅室(?):母・のえ=伊賀朝光の娘
       ├?女・?=一条実有室(?):母・不明
       ├?女・?=中原季時室(?):母・不明
       ├?女・?=一条能基室(?):母・不明
       ├?女・?=戸次重秀室(?):母・不明
       └?女・?=佐々木信綱室(?):母・不明

比企能員の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

比企能員───┬長男・余一兵衛尉:母・?
(佐藤二朗)├次男・次郎   :母・?
      ├三男・三郎宗朝 :母・渋河兼忠の娘
      ├四男・弥四郎時員:母・渋河兼忠の娘
      ├五男・五郎   :母・?
      ├若狭局=源頼家側室:母・渋河兼忠の娘?→讃岐局?
      ├?=笠原親景室 :母・?
      ├?=中山為重室 :母・?
      ├?=糟屋有季室 :母・?
      ├?男・円顕
      ├末子・大学三郎能本→日学:母・三浦氏の娘?
      ├仙覚?:母・三浦氏の娘?
      └猶子・河原田次郎

源頼朝の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

源頼朝──┬千鶴【溺死】   (太田恵晴)   :母・八重=伊東祐親の娘
(大泉洋)   ├長女・一幡(大姫)(南沙良)    :母・政子=北条時政の娘
      ├長男・万寿→頼家 (金子大地)   :母・政子=北条時政の娘
      ├能寛→貞暁    (?)           :母・?=常陸念西の娘
      ├次女・三幡(乙姫)(太田結乃)   :母・政子=北条時政の娘
      └次男・千幡→実朝 (柿澤勇人)   :母・政子=北条時政の娘

源頼家の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

源頼家───┬長男・一幡    (?)   :母・せつ =比企能員の娘
(金子大地)  ├次男・善哉→公暁 (寛一郎) :母・つつじ=賀茂重長の娘
        ├三男・千寿丸→栄実(?)   :母・?=一品房昌寛の娘
        ├長女・竹御所   (?)   :母・?=源義仲の娘
        └四男・?→禅暁  (?)   :母・?=一品房昌寛の娘

▲「鎌倉殿の6人」(源頼家の「近習六人衆」)のメンバー

①北条五郎時連  (瀬戸康史):「近習六人衆」のリーダー
②小笠原弥太郎長経(西村成忠):「源頼朝の弓馬四天王」小笠原長清の子
③比企三郎宗朝  (Kaito)    :比企能員(佐藤二朗)の三男
④比企弥四郎時員 (成田瑛基):比企能員(佐藤二朗)の四男
⑤中野五郎能成  (歩夢)  :藤原助弘の子(娘婿?養子?)
⑥北条太郎頼時 (坂口健太郎):北条義時(小栗旬)の長男

▲「13人の合議制」のメンバー

○政所&問注所:文官
【政策担当】①中原(1216年以降「大江」)広元  (栗原英雄)
【外務担当】②中原親能(川島潤哉)【三幡の死(1199)。鎌倉から出る】
【財務担当】③二階堂行政             (野仲イサオ)
【訴訟担当】④三善康信              (小林隆)

○侍所:武官(宿老、有力御家人)
⑤【梶原派】梶原平三景時 (中村獅童)【1200年自害。享年60】
⑥【北条派】足立遠元   (大野泰広)
⑦【比企派】安達藤九郎盛長(野添義弘)
⑧【比企派】八田知家   (市原隼人)    
⑨【比企派】比企能員   (佐藤二朗)
⑩【北条派】北条四郎時政(坂東彌十郎)
⑪【中立派】北条小四郎義時 (小栗旬)
⑫【北条派】三浦新介義澄   (佐藤B作)
⑬【北条派】和田小太郎義盛(横田栄司)

▲NHK公式サイト『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

▲参考記事

・サライ 「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市 「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
・渡邊大門「深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon
・大迫秀樹「「鎌倉幕府の謎」源頼朝と北条義時たち13人の時代」
https://gentosha-go.com/category/t966_1・Yusuke Santama Yamanaka 「『鎌倉殿の13人』の捌き方」
https://note.com/santama0202/m/md4e0f1a32d37
・刀猫    「史料で見る鎌倉殿の13人」
https://note.com/k_neko_al/m/m0f7e5011a2ac

・愛知県犬山市羽黒 梶原景時公顕彰会
http://www.satoyama-koubou.jp/pop-kajiwara/

▲参考文献

・安田元久 『人物叢書 北条義時』 (吉川弘文館)       1986/  3/  1
・元木泰雄 『源頼朝』       (中公新書)           2019/  1/18
・岡田清一 『日本評伝選 北条義時』(ミネルヴァ書房)2019/  4/11
・濱田浩一郎『北条義時』      (星海社新書)       2021/  6/25
・坂井孝一 『鎌倉殿と執権北条氏』 (NHK出版新書)   2021/  9/10
・呉座勇一 『頼朝と義時』     (講談社現代新書)2021/11/17
・岩田慎平 『北条義時』      (中公新書)           2021/12/21
・大迫秀樹 『「鎌倉殿」登場!』  (日本能率協会)    2021/12/22
・山本みなみ『史伝 北条義時』   (小学館)               2021/12/23
・山本みなみ『史伝 北条政子』   (NHK出版新書)    2022/  5/10
・坂井孝一 『鎌倉殿をめぐる人びと』(NHK出版新書) 2022/  7/10



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