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桶狭間の戦い

織田信長は清洲城から出陣した。
籠城戦では負けるからである。
かと言って、濃尾平野での野戦では大軍に小軍は勝てない。
勝てるとしたら、国境の丘陵部でのゲリラ戦である。

織田信長が熱田神宮へ戦勝祈願に行くと、
鳥居の下で元今川義元小姓・桑原甚内が待っていて、
「今川義元と影武者の区別がつく」
と言ったので、仲間に加えた。

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織田信長は善照寺砦に入った。
この時、お昼時で、今川義元は、お酒を飲んで踊っていた。
浮かれていた理由は、
①丸根&鷲津砦を簡単に落としたから
②千秋&佐々の首を簡単にとったから
である。一説に、佐々が織田信長の影武者を務め、今川義元は、織田信長の首をとったと思い込んだからだという。今川軍の兵たちもそう思い、近くの鳴海村で、戦が終わってから行う「乱妨取り」を始めている。

 『桶狭間~織田信長 覇王の誕生~』では、織田信長は、軍を2つに分け、正規軍を、柴田勝家を大将に、鎌倉街道の今川軍5000人(地図に「今川魁首此道筋を押」とある。今川軍は鎌倉街道を通って善照寺砦を襲う予定で、鎌倉街道は今川軍で埋め尽くされていた)に向かわせ、自分は馬廻衆と中島砦に入り、家老衆は善照寺砦に残ったとした。

 史実(と思われるの)は、織田信長は善照寺砦に自分がいると思わせるために多くの幟を立てさせ、砦の中が見えないようにしておいて、朝日出山の起請松(現在はえなこりんの母校の鳴海高校)で全軍に作戦を指示して中島砦に移った。この時、家老衆は「深田の道で・・・」と止めたとされる。(善照寺砦から中島砦へは山道を下って川を越えるだけであり深田はない。朝日出山から中島砦へ行くには深田を通る。)また、織田信長が善照寺砦に留まっていたら、鎌倉街道を通ってきた今川軍に討たれていたであろうから、織田信長はその情報を得て中島砦に移ったのであろう。
 織田信長は、中島砦で軍を2つに分け、1隊は漆山の今川軍先鋒に向わせた。彼らは派手に鉄砲を撃って今川軍の注意をひきつけた。織田信長本隊は、今川軍の物見からは見えない山陰(坊主山の裏)の「ぬかるんでいない山道」を通って桶狭間山に向かった。(「ぬかるんでいない手越川の堤防」を進んだのでは、物見から丸見えである。)
 嵐がおさまり、織田信長が、桶狭間山の今川義元本陣のピンポイント攻撃を開始させると、今川義元は、桶狭間山を下って逃げ、桑原甚内に今川義元を教えられた服部一忠と毛利良勝が、深田に足を取られていた今川義元を討ったという。(『改正三河後風土記』によれば、今川義元は、討たれる際、毛利良勝の左指を喰い切ったとある。)『桶狭間~織田信長 覇王の誕生~』では、深田から出てきた今川義元を織田信長が斬った。(「服部一忠と毛利良勝の褒賞があまりにも低い」という史実は謎であったが、織田信長が斬ったのであれば、説明がつく。)

 今川義元の敗因について、太田牛一『信長公記』では、桶狭間は元織田家家臣・山口教継の元領地であり、今川義元が鳴海城主・山口教継に切腹させた因果応報であるとし、『豊明市史』では、今川側には織田信長の顔を知る者がいなかったが、織田側には桑原甚内がいたから勝てたとある。(山口教継が生きていれば、織田信長と佐々政次の区別はついたろう。大高城に引き篭もった徳川家康も、若い頃の織田信長であれば、顔を知っているが。)『桶狭間~織田信長 覇王の誕生~』では、今川義元が、織田信長がどこから襲ってくるか分からないので、各地に兵を分散して配置したのがまずかったようなことを言っていた。(「そんなに心配なら、さっさと大高城に入ればよかったのに」と思う。)特に善照寺砦を挟み撃ちにしようとして鎌倉街道に多くを向かわせすぎたのがまずかったという。実際に鎌倉街道へ行ってみたら、細い山道であった。ここを柴田隊が通せん坊していた。細い山道では戦えるのは先頭の数人だけで、軍勢の大小は関係ない。そもそも戦いがあったかどうか・・・というのも、道の両側の木を倒せば、先に進めないので。

■参考:菊池寛『桶狭間合戦』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1358_35640.html

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