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(旧)来援をせかじとつげし鈴木金七

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■鈴木金七(金七郎/重政):旧案内板
 新城市富永旧川上村の鈴木一族の出自天正3年5月18日(陽暦7月)長篠城から敵の重囲を破り城将貞昌の「城兵は意気軒昂たり、決戦を急ぎ給うな。」の言を家康本陣に伝え、これが連合軍の勝機につながったと言う。
 後、父祖の地作手亀山城主となった松平忠明は、作手村田代に帰農していた金七をたずね、二百石の禄を与えて往年の労をねぎらった。
   昭和57年1月1日
     新城市富永 鈴木寿一郎

 「長篠の戦い」のヒーローと言えば、使者・鳥居強右衛門ですが、使者については、
①磔死した鳥居強右衛門のみ(鳥居単独説。通説)
②鳥居強右衛門と鈴木金七の2人(同行説。『長篠日記』)
③鈴木金七は鳥居強右衛門磔死後の第二の使者(第二の使者説)
の3説があります。

 現在の「かるた看板」は、
  来援を見届け金七郎帰農する
です。(平成29年(2017年)改定)
 鈴木家は武家で、代々、奥平家に仕えてきたので、「帰農」という言葉は不適切だと思われるので、この記事では以前の「かるた看板」を載せています。辞書で「帰農」を引くと「①離村して農業をやめていた者が農業に戻ること。②都会での生活をやめて地方に行き、農業を始めること」あり、②の意味では不適切だとは思われませんが、①の意味で使われることが多いので、誤解されると思います。
 なお、改定の理由ですが、「来援をせかじとつげし」というのは、③鈴木金七は鳥居強右衛門磔死後の第二の使者説の本に出てくる話であり、②鳥居強右衛門と鈴木金七の2人説が史実であると分かったので、改定したとのことです。案内板も替えられました。

■鈴木金七郎重政:新案内板
 新城市富永旧川上村の鈴木一族の出自。
 天正3年5月14日(陽暦7月2日)、長篠城を鳥居強右衛門と共に、武田軍の重囲を破り脱出。籠城軍の窮状と援軍要請を岡崎城の家康につぶさに伝えた。
 「援軍来る」を2人の狼煙で知った城兵は意気軒昂に城を守りぬいた。
 戦いの後、父祖の地作手亀山城主となった松平(奥平)忠明は、作手村大田代に帰農していた金七を訪ね、二百石の禄を与えて往年の労をねぎらった。
当会の調査研究により従来の第二の使者説を同行説に改めた。
  平成29年10月吉日
  鈴木金七郎の業績を見直す会
http://www13.plala.or.jp/kinnsitirou/
■鳥居強右衛門磔図(設楽原歴史資料館)解説「もう1人の使者」
実は鳥居強右衛門の他にもう1人使者に立った人物がいたと伝えられています。その人物は鈴木金七郎です。彼は帰路に雁峯山でのろしを上げるところまで、鳥居強右衛門と同じ行動をしていました。ここでのろしを上げるまでが彼らに与えられた命令でした。その命令を果たした金七郎は厳重に囲まれた長篠城に再度入城することは不可能と考え、ここで強右衛門と別れます。金七郎はその後、奥平貞昌の子、松平忠明に仕えますが、やがて武士を辞め、作手に残ったといわれています。
https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/shitaragahara/torii-suneemon.html

■史料

■阿部四郎兵衛『長篠日記』
 信昌、其の志を感じ、「左有らば何卒忍び出で、注進為すべし。併せて、1人にては心許無し。鈴木金七社(こそ)水練上手なり。其の上、物馴れし者。是と共に今夜城を出で、信長公へ申し上げるべき旨は、弓、鉄砲に事欠き申すにては、之無く候え共、城中の粮尽き、当月の内を過ぎ難く候。御出陣延引に於いては、信昌1人切腹仕り、諸卒の命に替はり、城を勝頼に相渡すべき旨、委細に言上せよ」と云ふ。(中略)金七は、中々城入為し難く、是に従り、立ち帰り貞能へ申し上げるべし迚(とて)、道にて互ひに詮議して、強右衛門許(ばか)り長篠の向かひ、篠原と云ふ所に来り(中略)鱸金七郎は代々、奥平譜代の士にて、参州川上村を領す。度々の武功あり。故有りて信昌の勘気を蒙り、関東ゑも行かず、右所に引き篭もり、年、久しく蟄居す。然る所に信昌次男・菅沼小大膳の養子・松平摂津守忠政、憐愍(れんびん)を加へ、呼び出し、濃州加納に住す。子孫、今、松平下総守家にあり。

 奥平貞昌→奥平信昌(「長篠に戦い」の戦いぶりを織田信長から賞賛され、「信」は織田信長の偏諱)→松平信昌(徳川家康の長女・亀姫と結婚して改姓))は、鳥居強右衛門の志に感銘し、「そこまで言うのであれば、どうか長篠城から密かに出て、注進(事件を急いで目上の人に報告すること)する役を務めるがよい。ただし、1人では心配である。鈴木金七は水練(水泳)の達人であり、物馴れし者(熟練した者/世事に通じている者/親しい譜代の者/狼煙のあげ方を知っている者)であるから、一緒に今夜、長篠城を出よ。織田信長公へ申し上げる内容は、弓や鉄砲には事欠かないが、城内の兵糧が尽き、今月(5月)分しかない。援軍の出陣が延びて来月(6月)になったら、城主・奥平貞昌1人が切腹し、交換に家臣の助命をして、長篠城を武田勝頼に渡すつもりでいると、詳細に申し上げよ」と言った。(中略)鈴木金七は、(武田軍の警備が厳しく)長篠城へ戻りにくいとして、岡崎城に立ち帰って奥平貞能(奥平貞昌の父)に報告しようと道中で相談して、鳥居強右衛門だけが長篠城の向かいの篠原(篠場野)と言う所に来た。(中略)鈴木家は、代々、奥平譜代の武士で、川上村(愛知県新城市富永上野)を領していた。鈴木金七は、度々、武功をあげていたが、事情があって奥平貞昌の勘気を蒙ったので、(徳川家康の関東移封に伴い、皆、関東へ移住したが)関東へは行かず、川上村に引き篭もり、長年蟄居していた。こうした状況を、奥平貞昌の次男(菅沼定吉の子とも、菅沼定直(菅沼定吉の叔父)の子とも)の菅沼小大膳定利の養子・松平摂津守忠政(奥平貞昌の三男。美濃加納藩第2代藩主)が哀れんで、美濃国加納(岐阜県岐阜市加納)に呼んで、住まわせた。子孫は、今、松平下総守家(松平下総守忠明の家。奥平松平家)に仕えているというが、通説では、鈴木金七は農民となって作手村大田代(愛知県新城市作手田代大田代)に住み、奥平貞昌の四男・松平忠明が作手の亀山城主になってその事を知り、200石を与え、田代鈴木家の祖となり、子孫は松平下総守家に仕えているとする。また、徳川家康の命により、水戸徳川頼房の家臣となったともいう。
 鈴木金七郎夫妻の墓は田代にある。祠は花崗岩製で、右に「金七郎」、左に「同室」、下の墓石には「鈴木金七重正」とある。

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 ──来援をせかじとつげし鈴木金七
  (「救援を急ぐな」という奥平貞昌の言葉を伝えた鈴木金七)

■『四戦紀聞』「参州長篠戦記」
 18日の夜、城中より川上村の産、鈴木金七郎を以て神君へ1翰を呈す。其の詞に曰く、「信長、着陣し玉ふに依て、急に戦を挑まんと欲し玉ひ、卒璽の御合戦、有るべからず。城、尚、堅く守るべし。攻むる事、急ならば、鐘を鳴らすべし」と云々。
 鈴木、城を出る時、西方の岩根を伝ひ、大野、滝川の底に、敵より縄を張り、水上に鳴子網を掛け置き、物音を改むると云へども、鈴木、元来、水練の達者、川の浅瀬を能く知りたり。小脇差を抜きて、川底を潜り、当る縄を切りて通る。長走りと云ふ所にて鳴子網を切りて通る所に、カラカラと鳴りければ、武田の番兵、怪しき由、云ひけるに、其の中に1人、「今、五月雨の時分には、かやうなる大河をば、必ず大鱸通る也。定めて鱸なるべし」と申しければ、咎むる者無くして虎口を遁れて参上する由、金七郎、委細に演達せしかば、神君は信昌が勇有りて。且つ、其の慮り深き事を御感、斜めならず。即ち、金七郎を信長の陣所・極楽寺山に遣はされて、是を達せしめ玉ふ所に信長も亦大に信昌が真忠、且つ、鈴木を褒賞し玉ふ。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568321/11

 天正3年(1575年)5月18日の夜、(奥平貞昌は、)長篠城から川上村生まれの鈴木金七郎を使者として、徳川家康へ1通の手紙を送った。その手紙には、「織田信長が着陣したことによって、急いで合戦しようと思って、軽々しく合戦を始めないで下さい。(相手は強敵・武田軍ですので、よく作戦を練ってから戦って下さい。)長篠城は、尚一層堅く守ります。急襲されて危険になったら鐘を鳴らすので救ってください」などと書かれていた。
 鈴木金七郎は、徳川家康に手紙を渡す時、徳川家康に向って、「長篠城を出る時、長篠城の西の岩を伝って(ロッククライミングの逆で)川に入った。武田軍は、大野川(宇連川)、滝川(豊川)の底に縄を張り、水上には鳴子網を掛けて、物音を察知するようにしていたが、鈴木金七郎は、元来、水練の達人で、川の浅瀬をよく知っていた。小脇差を抜いて、川に潜り、当る縄を切りながら泳いだ。「長走」という所に仕掛けられた鳴子網を切りながら泳いでいる時に、鳴子網が「カラカラ」と鳴ってしまい、武田軍の番兵に怪しまれたが、番兵の今井新介が、「今は五月雨(さみだれ。今の梅雨)の期間で、こういう大河(豊川)を、必ず(鈴木金七郎だけに?)大きな鱸(スズキ)が通るものである。多分、鱸だろう」と知ったかぶりしてくれた番兵がいたので、とがめられずに窮地を逃れて、こうして参上できました」と詳細に報告したので、徳川家康は、奥平貞昌の武勇と思いやりの深さに感動した。そこで、鈴木金七郎を織田信長の本陣である極楽寺山に遣わすと、織田信長も奥平貞昌の忠勇(忠義と勇気)、かつ、鈴木金七郎の忠勇を褒めた。

★参考文献
・皆川登一郎『長篠実戦記』「鈴木金七郎密使の事」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960812/44
・夏目利美「強右衛門と金七郎、二人脱出の説検証」(『郷土』第205号)

★鈴木金七郎オリジナル応援歌「我らの鈴木金七郎」

★『鈴木金七郎物語』(無料)

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