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未発表記事 明智光秀と明智定政

1.「土岐頼尚譲状」


 明智光秀の出自には謎が多いが、祖父(?)については、「土岐頼尚譲状」に書かれている。

■文亀二年(1502年)4月13日付「土岐頼尚譲状」
譲渡 美濃国内土岐郡内妻木村、笠原村、駄智村、細野村(駄智、細野両所者、各半名、宛当知行)等事
右、実子・彦九郎仁所譲与也。兵部少輔頼典雖為嫡子、連々不孝之儀、重畳之間、令義絶之処、剰頼典並被官・肥田蔵人已下令造意、去月五日、無謂弥十郎房頼生害之上、向頼尚致敵条、前代未聞之次第也。然間、頼典、同子孫等、至末代、永不可許容也。於頼尚遺跡者、悉彦九郎仁譲渡者也。依之、鹿苑院殿様御判並勝定院殿様御判(頼尚童名長寿丸之時、安堵之御判也)、彼是肝要之御判物拾六通、相添譲状渡之訖。此御判之外、若証文頼典雖令出帯、既義絶之上者、不可及是非之御沙汰也。至子々孫々、更不可有違乱之族候。仍為後証所譲与之状如件。
 文亀二年壬戌四月十三日 土岐明智上総守頼尚(花押)

(美濃国土岐郡妻木村、笠原村、駄智村、細野村(ただし、駄智村、細野村については半分を宛がう)を譲る件
実子・頼明に譲与する。頼典は嫡子であるが、孝ならざる事を重ねたので、義絶した(親子の縁を切った)ところ、美濃国土岐郡肥田(ひだ)の土岐肥田蔵人に命じて房頼を顔戸(ごうど)城(岐阜県可児郡御嵩町顔戸)の麓の池畔に呼び出して殺害し、父・頼尚に(政策で)敵対するとは前代未聞である。頼典やその子孫を、未来永劫許さない。頼尚の遺領は全て頼明に譲渡する。足利義満、並びに足利義持の判物(頼尚、童名・長寿丸の時の安堵状)など重要な判物16通をこの譲状に添えて渡す。もし、頼典が、これら以外の証文を持っていたとしても、既に義絶しているので、効力は無い。この事は子々孫々にまで相違ないことをここに示す。)

以上、「土岐頼尚譲状」からは、

  土岐明智頼尚┬土岐明智頼典(嫡男であったが、廃嫡→義絶)
           └土岐明智頼明(頼典に代わって嫡男になる)

としか分からないが、想像するに、

  土岐明智頼尚┬土岐明智頼典─明智光隆─明智光秀
           └土岐明智頼明─明智定明─明智定政

となるのであろう。

 明智頼典は、義絶後、消息不明になり(出家して「明智坊」と名乗り、比叡山西塔堂行堂に住んだという)、明智光隆(光綱)が明智城主となったが、体が弱く、嫡男が生れなかったので、養子(妹の子・明智光秀)をとったという。若くして亡くなり、明智光秀はまだ幼かったので、明智光隆(光綱)の弟・明智光安が「明智光秀が元服するまで」という条件で明智城主となったという。明智光秀は、元服すると、明智城主の座を拒否し、以後、消息不明となったという。

 ここでおかしな事は、土岐明智頼典が義絶されて土岐家の通字「頼」が使えなくなったのか、「光隆─光秀」と、「連歌の家」として知られる京都明智家の通字「光」を使い、おかしなことに明智宗家も「定明─定政」と菅沼家の通字「定」を使っていることである。

2.『土岐定政伝』『定政伝記』


 沼田土岐氏第19代宗主・土岐實光氏が所蔵する『土岐定政伝』『定政伝記』を含む土岐家関係資料が、1979年、沼田市に寄贈され、2019年の沼田市歴史資料館の開館に伴い、同資料は同資料館に収蔵された。この時、『土岐定政伝』『定政伝記』に「土岐定政は明智光秀のいとこ」と書いてあることが発見された。

・土岐定政は明智光秀のはとこ(「土岐明智系図」「土岐頼尚譲状」)
・土岐定政は明智光秀の「従兄弟(いとこ)」(『土岐定政伝』)
・土岐定政は明智光秀の「従父昆弟(いとこ)」(『定政伝記』)

沼田市歴史資料館蔵『土岐定政伝』(1679年)
五月、神君、到江州安土城、右信長之所播也。信長命明智(日向守)光秀而、饗応。光秀嘗謂「土岐氏之族而、与定政属従父弟」。以定政従神君而、有功、贈以剱(備前兼光所造)、及、甲冑(以烏糸綴織乃土岐氏之冑也)、馬銜(佐佐木高綱乃生食之)、鎗(名血水)、而通好。

(天正10年5月、徳川家康は、近江国の安土城に着いた。ここは右府信長の本拠地である。右府信長は、明智日向守光秀に饗応を命じた。光秀は、嘗て(生前)、「(私は)土岐一族で、定政とは従父弟(いとこ)である」と言っていた。定政は徳川家康に従って軍功をあげ(「明智」を名乗っ)たので、備前兼光作の刀、土岐氏伝来の烏絲綴織の甲冑、佐々木高綱の馬「生食(池月)」の轡、「血吸い」銘の槍を贈って(同じ土岐明智氏としての)好みを通じた。)

※「~而通好」(~して通好(つうこう)す):「通好」は「互いに仲よくし、交わりを結ぶこと。通交」の意で、国と国の通交条約のイメージであるが、ここでは、「土岐氏ゆかりの品々を贈り、その品々の由緒を語ったり、明智定明の思い出話をしたりして、親交を深めた」程度の意。
沼田市歴史資料館蔵『定政伝記』(1714年)
五月、太祖、赴江州、謁平公信長、於安垜土。信長命明智光秀礼饗。光秀与定政従父昆弟。光秀、嘉其不墜家声、贈遺以刀、鎗、盔甲、烏糸鎧、及、馬銜之属。

(天正10年5月、徳川家康は、近江国へ向かい、織田信長に安土に於いて謁見した。織田信長は惟任光秀を饗応役に命じた。惟任光秀と明智定政は従父昆弟(いとこ)である。惟任光秀は、明智家の名誉を落とさず、褒め称えようと、刀、槍、兜、烏糸の鎧、及び、銜(くつわ)の類を贈った。)

 明智頼典が義絶されて寂れた明智家を、明智光秀が織田信長の下で再興し、明智光秀が「明智」を捨て、新しく「惟任」を名乗る(惟任氏の祖は、明智初代頼重の子・頼秀)と、菅沼定政は、明智光秀に気を使うことなく、明智定明が討たれ、土地も奪われて寂れた明智家を徳川家康の下で再興した。菅沼定政に、明智家の家宝(注)を渡した。これは「本能寺の変」の半月前、安土城に徳川家康が来た時の話だという。(「本能寺の変」後の徳川家康の「神君伊賀越え」のメンバーを記した古文書に「菅沼定政」の名がある。)

(注)この槍は「血吸いの槍」とされるが、「血吸いの槍」は徳川家康が所持し、(「謀反人・惟任日向守光秀を連想させる」として、誰も「日向守」を名乗らなかったが)「倫魁不羈」の「鬼日向」こと水野勝成が「日向守」を名乗った時に与えたとも伝わる。

 また、『明智物語』では、明智光秀が、愛菊丸が生きていることを知ったのは、「菅沼藤蔵」と名乗った時だとする。

■『明智物語』
角て光秀思はれけるは「土岐をば愛菊を落としたりとなん聞へしが、何国にありとも知らざりける。年月経ぬれば、成長しさむらはん。定明の御子なれば、最も懐か敷き侍れば、尋ね見ましく欲する」と、長臣などには語り給ふと也。(中略)拾兵衛は、「愛菊丸が菅沼藤蔵と改名し、家康公に勤仕せらる」と伝へ聞給ひければ、「定明の願い、叶ひたり」と悦びて、定明より預け給ひける旄(ざい)に「血吸」の鑓を添へ、過ごし昔の言の葉を念比に書き付け、永沼喜八が子・喜兵衛を使者として譲り玉ひける心の内こそ頼母もしけれ。

(明智光秀は、「愛菊丸は土岐から落ち延びたと聞いているが、何処にいるのか知らない。落城から年月が経ったので、成長していることであろう。定明の子であるから、最も懐かしい人物であり、居場所を聞いて会いたいものだ」と、重臣に言っていた。(中略)明智光秀は、「愛菊丸が「菅沼藤蔵」と改名し、徳川家康に仕えている」と伝へ聞いて、「定明の願いが叶った」(注:『明智物語』では、明智定明は、徳川家康が天下人になると信じ、家臣になろうとしていたとする)と喜んで、定明より預かっていた旄(旄牛(ヤク)の尾を竿に飾った旗)に「血吸」の槍を添え、思い出話を丁寧に書き、永沼喜八の子・永沼喜兵衛を使者として譲った。)

『明智物語』では、明智光秀は、明智定明の意思を継ぎ、「本能寺の変」をおこして織田信長を倒し、徳川家康を天下人にしようとしたとする。

文亀  2年(1502年)4月13日 「土岐頼尚譲状」
享禄元年(1528年)8月17日 明智光秀、生まれる。
天文18年(1549年)4月23日 明智定明、光秀に明智光秀と名乗らせる。
天文20年(1551年)9月  3日 愛菊丸(明智定政)、生まれる。
天文21年(1552年)6月16日 明智定明、討たれる。
天正  3年(1575年)7月  3日 明智光秀、惟任日向守と名乗る。
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼自害=武田氏滅亡。
天正10年(1582年)5月日  明智光秀、菅沼定政に土岐縁の品々を譲与。
天正10年(1582年)6月  2日 「本能寺の変」
天正10年(1582年)月日    菅沼定政、明智定政と名乗る。
天正10年(1582年)6月13日 惟任(明智)光秀、死去。享年55。
文禄  2年(1593年)月日    明智定政、土岐定政と名乗る。
慶長  2年(1597年)3月  3日 明智定政、死去。享年47。

・『明智物語』(内閣文庫本)
https://www.digital.archives.go.jp/file/1251805.html
・現代語訳
https://academic-post.nihon-kenkyusya.com/2021/02/05/post-4608/

・内閣文庫『山城守土岐定政伝

・『羽生雅の雑多話』「群馬寺社遠征&明智光秀探訪5」
https://hanyu-ya.hatenablog.com/entry/2020/07/20/200015



































【追記】 沼田土岐氏第19代宗主・土岐實光氏が所蔵する『土岐定政伝』『定政伝記』を含む土岐家関係資料が、1979年、沼田市に寄贈され、2019年の沼田市歴史資料館の開館に伴い、同資料は同資料館に収蔵された。

・土岐定政は明智光秀の(『明智物語』)
・土岐定政は明智光秀のはとこ(「土岐明智系図」「土岐頼尚譲状」)
・土岐定政は明智光秀の「従兄弟(いとこ)」(『土岐定政伝』)
・土岐定政は明智光秀の「従父昆弟(いとこ)」(『定政伝記』)

※参考記事:『羽生雅の雑多話』「群馬寺社遠征&明智光秀探訪5」
https://hanyu-ya.hatenablog.com/entry/2020/07/20/200015

 『明智物語』では、土岐定明の家臣が土岐定明を土岐氏嫡流と言っているのですが、土岐氏嫡流は土岐頼芸ですので、土岐明智氏嫡流の誤りではないでしょうか?

 『明智物語』の系図上では、土岐定政は、明智光秀の「甥」である。
 しかし、『明智物語』において、土岐定明が明智光秀に向かって、「其の方の事、連枝とはいへども、実は猶子也」(お前は実の弟ではない。親戚ではあるが、猶子(養子)である)と言っている。ようするに、明智光秀の正体は、「土岐定政の弟」ではなく、「土岐定政の連枝(親戚)から迎えた猶子(養子)」であって、正体(父親の名前)は不明である。

 『明智物語』では、天文18年(1549年)4月23日、明智定明は領地の3分割統治を提案し、自分は土岐を領して土岐定明と名乗り、弟・定衡に遠山を与えて遠山定衡、弟・光秀に明智を与えて明智光秀と名乗らせたとするが、明智定明の父・明智頼明が譲られた明智領は、美濃国内土岐郡内の妻木(明智光秀の妻の出身地)、笠原、駄智(ものまねの神奈月さんの出身地)、細野だけであり(下掲「土岐頼尚譲状」)、明智定明が明智(西美濃)、土岐(中美濃)、遠山(東美濃)と広範囲(美濃国南部全域)にわたって領していたとは考えにくい。


文亀  2年(1502年)4月13日 「土岐頼尚譲状」
享禄元年(1528年)8月17日 明智光秀、生まれる。
天文18年(1549年)4月23日 明智定明、光秀に明智光秀と名乗らせる。
天文20年(1551年)9月  3日 愛菊丸(明智定政)、生まれる。
天文21年(1552年)6月16日 明智定明、討たれる。
天正  3年(1575年)7月日  明智光秀、惟任日向守と名乗る。
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼自害=武田氏滅亡。
天正10年(1582年)月日    菅沼藤蔵、明智定政と名乗る。
天正10年(1582年)5月日  明智光秀、明智定政に土岐縁の品々を譲与。
天正10年(1582年)6月  2日 「本能寺の変」
天正10年(1582年)6月13日 惟任(明智)光秀、死去。享年55。
文禄  2年(1593年)月日    明智定政、土岐定政と名乗る。
慶長  2年(1597年)3月  3日 明智定政、死去。享年47。

・『明智物語』(内閣文庫本)
https://www.digital.archives.go.jp/file/1251805.html
・現代語訳
https://academic-post.nihon-kenkyusya.com/2021/02/05/post-4608/

・内閣文庫『山城守土岐定政伝

【まとめ】


「土岐頼尚譲状」からは、

  土岐明智頼尚┬土岐明智頼典【義絶】
           └土岐明智頼明

としか分からない。
 『明智物語』のいう「明智定政は明智光秀の甥」は系図上の事で、実際は『土岐定政伝』や『定政伝記』にあるように「明智定政は明智光秀の従兄弟」だとすると、

  土岐明智頼尚┬土岐明智頼典〔行方不明〕
           └土岐明智頼明┬明智定明─明智定政【沼田土岐家】
                 ├明智頼安─明智広忠【土岐妻木家】
                 └明智光隆─明智光秀【土岐明智家】

となるが、これも、系図上の操作にしか見えない。定明、定政は土岐明智家の通字「頼」を使わず、土岐島田家(菅沼家)の通字「定」を使い、光隆、光秀は、京都明智家の通字「光」を使っている。大胆な仮説を立てれば、

  土岐明智頼尚┬土岐明智頼典【絶家】
           └土岐明智頼明【滅亡】…明智光秀【明智家再興】
                     …明智定政【明智家中興】

となる。土岐明智家(宗家)は、土岐家と斉藤家の「美濃国内乱」により滅亡し(土岐妻木家になり)、120家以上ある土岐庶子家の生き残りの2人が「明智光秀」「明智定政」と名乗って土岐明智家を再興、中興したのではないだろうか?

①不思議なのは、土岐明智頼明の領地は「美濃国内土岐郡内妻木村、笠原村、駄智村、細野村(駄智、細野両所者、各半名、宛当知行)」(美濃国土岐郡妻木、笠原と、駄智と細野の2ヶ所は半分)と狭いばかりか、遠山氏に奪われたのか、本貫地・明智を含まないことである。

②駄智と細野の半分を領していたのが京都明智氏で、美濃国に送られた明智光秀は、土岐妻木氏の娘と結婚し、妻木村を領しようとするも、「美濃国内乱」により失敗したようである。(土岐妻木氏は、織田信長の家臣となって生き延びた。)なお、「光」を通字とする京都明智氏は「連歌の家」として知られている。明智光秀は、織田信長の家臣となると、土岐妻木氏のフォローと、京都に通じ、連歌が得意ということで出世した。

③土岐島田家の本貫地・島田の西の山を越えると多良である。多良は「明智光秀生誕候補地」の1つであるが、明智光秀が土岐妻木氏の娘と結婚する前、山岸氏の娘との間に儲けた山岸晴光(出家して玄琳)が育てられた場所であり、玄琳が「明智系図」を制作した時に操作したのであろう。(玄琳曰く、明智光秀の正しい系図は坂本城にあったが、「本能寺の変」直後の落城時に焼失したので、自分の制作した系図は(制作のための史料が少なく)不正確だという。なお、明智定政の正しい系図は土岐高山城にあり、落城時に明智定政の母が持ち出して菅沼に逃げたというが、現存しない(未発見なだけ?))

※参考:『光秀の源流を探る』
・第4回 土岐明智氏から妻木氏へ
https://www.city.toki.lg.jp/fs/2/5/4/1/0/6/_/17.pdf
http://www.toki-bunka.or.jp/archives/books/books-974-c


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