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源実朝の首


 建保7年(1219年)1月27日、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝は、鶴岡八幡宮で、公暁によって暗殺された。公暁は、源実朝の首を切り落として、持ち去ったという。

 公暁は、源実朝の乳母夫・三浦義村の邸宅へ赴く途中、三浦義村が放った長尾定景とその部下である雑賀次郎、武常晴ら5名によって討たれた。そして源実朝の首は行方不明となってしまい、『吾妻鏡』によると、勝長寿院の墓には、首のない遺体と宮内公氏に与えていた髪の毛が納められたという。

今曉、加藤判官次郎爲使節上洛。是、依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰剋、御臺所令落餝御。莊嚴房律師行勇、爲御戒師。又、武藏守親廣、左衛門大夫時廣、前駿河守季時、秋田城介景盛、隱岐守行村、大夫尉景廉以下、御家人百餘輩、不堪薨御之哀傷、遂出家也。戌剋、將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜、不知御首在所、五體不具、依可有其憚、以昨日所給公氏之御鬢、用御頭、奉入棺云云。

(今朝、加藤景廉の使節団として京都へ向かった。これは、将軍・源実朝
の薨去を(朝廷へ)申し上げるためである。行程は5日と決められたという。(注:鎌倉-京都間は約480km。飛脚の行程は、文治3年(1187年)に7日、延応元年(1239年)に急使は4日と決められていた。)ましたとの事です。辰の刻(午前8時頃)、御台所(源実朝の正室)は出家した。退耕行勇(栄西の弟子)が戒師を務めた。また、源親広、長井時広、中原季時、秋田城介景盛、二階堂行村、加藤景廉以下の御家人達百余人が、源実朝薨去
の悲しみに耐え切れず、出家した。戌の刻(午後8時頃)、源実朝は、勝長壽院の傍に葬られた。昨夜、首が見つからず、五体が揃っていないので、昨日、宮内公氏に与えた髪の毛を頭の代わりに入棺したという。)

『吾妻鏡』「建保7年(1219年)1月28日」条

<北条政子の3つの墓>

①勝長寿院:北条政子の墓は、源頼朝、源実朝の墓と共に勝長寿院にあったというが、勝長寿院は、応永12年(1405年)に焼失し、墓は移されたという。
②寿福寺:勝長寿院から源実朝の墓と北条政子の墓が移されたとされているが、源実朝の正室が寿福寺で出家している。彼女の墓の横に、勝長寿院から源実朝の墓を移したのであろう。
③安養院(旧・祇園山長楽寺):長楽寺は、嘉禄元年(1225年)、北条政子が源頼朝の菩提を弔うために創建した寺だと伝えられる。元弘元年(1333年)、兵火により焼失し、善導寺に統合されて安養院長楽寺と号した。(安養院は、政子の法号「安養院殿如実妙観大禅定尼」から取られた。)境内の「伝・北条政子の墓」は、勝長寿院から移されたものであろう。

 北条政子:嘉禄元年(1225年)病死(享年69)⇒勝長寿院
   ├────┬大姫:建久8年(1197年)病死(享年20)⇒粟姫稲荷
   │   ├頼家:元久元年(1204年)暗殺(享年23)⇒指月殿
   │   ├三幡:正治元年(1199年)病死(享年14)⇒亀谷堂
   │   └実朝:建保7年(1219年)暗殺(享年28)⇒勝長寿院
  源頼朝:建久10年(1199年)落馬で死去(享年53)⇒勝長寿院
   ├─────貞暁:寛喜3年(1231年)自害?(享年46)
  大進局(常陸入道念西の娘):没年未詳

■kuc tarou「寿福寺:北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔があります」
 このあたりは源頼朝の父、義朝の屋敷があったところと言われ、北条政子が頼朝の父、義朝の旧邸跡に明菴栄西を招いて創建、三代将軍実朝もしばしば訪れ最盛期には十数か所の塔頭を擁する大寺であったという。現在は中門の手前まで入ることができます。境内裏手の墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、星野立子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐらには、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔があります。

動画の解説文

神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある寿福寺です。鎌倉幕府3代将軍源実朝と北条政子のものと伝わる墓(やぐら)があります。また付近には扇ガ谷上杉氏館跡や太田道灌館跡(英勝寺)などもあります。

麻布狸穴「源実朝・北条政子墓~鎌倉市寿福寺」

『吾妻鏡』によれば、「去夜、不知御首在所、五體不具、依可有其憚、以昨日所給公氏之御鬢、用御頭、奉入棺云云」(昨夜、首が見つからず、五体が揃っていない(と成仏出来ない)ので、昨日、宮内公氏に与えた髪の毛を頭の代わりに入棺したという)とあるが、実は、頭は見つかっており、成仏させない(怨霊にする)ために、入棺しなかったのではないか? 『愚管抄』には、

──実朝ガ頸ハ岡山ノ雪ノ中ヨリ求メ出タリケリ。
(源実朝の首は、低い山の雪の中を探して見つけた。)

とある。

■源実朝の首塚


 源実朝の首は、公暁討伐隊の武常晴(たけつねはる)が得て、三浦義村に渡したが、処分に困った三浦義村は、武常晴に源実朝の首を渡したということになっているが、武常晴は、源実朝暗殺を企てた三浦義村に怒り、「源実朝の首を渡すものか」と、三浦氏と仲の悪かった波多野氏に頼み、波多野氏の領地内(神奈川県秦野市東田原にある源実朝が再興した大聖山金剛寺の境内)に「御首塚(みしるしづか)」名づけて源実朝の首を埋めたという。しばらくして御首塚は荒れてしまったが、死後700年の大正8年(1919年)に整備されたという。

①金剛寺(神奈川県秦野市東田原)の住職には、源実朝の正室を出家させた退耕行勇がなったという。北条政子は、金剛寺阿弥陀堂に、源実朝が生前礼拝していた阿弥陀三尊像を送ったという。本堂には、源実朝像が安置され、11月23日(勤労感謝の日)には「実朝まつり」が開催される。

②高野山(和歌山県伊都郡高野町高野山)には、北条政子の発願により、源実朝の菩提を弔うために創建された金剛三昧院(こんごうさんまいいん)がある。

建暦元年|西暦1211年
高野山金剛三昧院は、建暦元年(西暦1211年)、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公の菩提を弔うために、その妻で尼将軍としても名高い、鎌倉二位禅尼・北条政子が創建しました。始めは禅定院と称しており、落慶法会には、日本臨済宗の開祖である、明庵栄西禅師を請じ入れ、開山第一世としました。

金剛三昧院公式サイト

https://www.koyasan-u.ac.jp/laboratory/pdf/kiyo33/33_kinoshita.pdf

③東京の惠日山金剛寺(東京都中野区上高田)は、波多野忠経が、源実朝「金剛寺殿鎌倉右府将軍実朝公大禅門」のために建長2年(1250)相模国波多野庄田原に創建した寺を移転した寺だと言う。


金剛寺は。小石川金富町十八番地に在り。恵日山と号す。曹洞宗にして吉祥寺の末なり。
『新編江戸志』に寺伝を載せて云。「鎌倉源頼朝公、尾州愛智郡山崎の陣所に於て、天竺仏地蔵尊を得て、源家一統の祈誓をなし、天下平定の後、鎌倉円覚寺後に安置す。右大臣実朝、波多野中務大輔忠経に命じて寺を相州波多野庄田原村へ定立して、孤舟和尚を開山とす。其後、江戸下野入道必仏。寺を武州江戸小日向郷金杉村に移す。文明年中、太田持資再興。永正六己巳年、駒込吉祥寺洪州和尚の時吉祥寺末寺とす。中興開山天目中峰普応国師なり。今の開山は吉祥寺五世用山元照禅師なり」と云々。
『東鑑』治承六年、金剛寺住侶訴の事を記せり。今も当寺に実朝公石碑あり。太田道灌位牌あり。地蔵堂山の上に在り。
因て実朝追悼の墓碑を検せしに、『江戸志』に載る寺伝に訛りあるを発見せり。他なし。寺伝には実朝の命じて建たるよしをしるしたれども、之を墓碑に徴すれば、波多野忠経が菩提の為に建たること是なり。左に其の碑文を録して證とす。
右面。恵日山金剛禅寺者。始波多野中務忠経為鎌倉右将軍實朝公菩提。建長二庚戌年建之相州波多野庄田原村。江戸下野入道心佛移寺於武州江戸庄小日向郷金杉村。亦其後文明年中。當寺承久元卯年。
正面。金剛寺殿鎌倉右府将軍實朝公大禅門。
左面。開基正月廿七日。太田左衛門入道静勝軒春苑道灌重興為。昔日者臨済宗也。其時之開山普應國師。二代巨舟和尚。中興叔悦禅師。永正六己巳年改曹洞宗者也。維持永正十癸酉年七月十日金剛現住比丘實山翁記之。

『東京名所図会』「金剛寺」

神奈川県秦野市にある鎌倉幕府三代将軍源実朝の首塚! 右大臣昇進の拝賀で鶴岡八幡宮に拝賀した夜、甥の別当公暁に暗殺されました。武三浦常晴が波多野氏を頼ってこの地に実朝公の首級を葬ったと伝わります。秦野を本領とする波多野氏は藤原秀郷流藤原家の娘婿で一時藤原姓を名乗っていました。その為、秦野市内には【田原】の地名も見かけます。

麻布狸穴「【源実朝公首塚】神奈川県秦野市」

■源実朝公御首塚(みなもとのさねともこうみしるしづか) 昭和46年指定
概要 鎌倉幕府3代将軍源実朝は、建保7(1219)年1月27日に鶴岡八幡宮への参拝が終わり、階段を下りている最中に潜んでいた甥の公暁に暗殺されます。公暁は実朝の御首を持ち三浦義村を頼って逃走しました。しかし、義村には北条氏より公暁追討が命じられていたため、公暁は義村の家来に殺されてしまいます。その時以来、実朝の首は行方不明となり、実朝は首のないまま勝長寿院に葬られました。この失われた首を三浦の武将武常晴が探し出し葬ったのが、東田原の御首塚であると伝えられています。
 武常晴は三浦氏が公暁を討ち取るために差し向けた家臣の中の一人で、公暁との戦いの中、偶然に実朝の御首を手に入れました。その後、何らかの理由により首を主人である三浦氏のところへ持ち帰らず、当時三浦氏と仲の悪かった波多野氏を頼り埋葬したと伝えられています。
 その後、波多野忠綱が実朝の厚い帰依を受けていた僧、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて御首塚の近くに金剛寺を建て供養しました。その際、木造であった御首塚の五輪塔を石造に代えたと云われています。なお、首塚を飾っていたと伝えられる五輪木塔は、現在、鎌倉国宝館に収蔵されています。
実朝まつり 毎年11月23日に御首塚及び田原ふるさと公園で実朝まつりが開催されます。実朝の供養や稚児行列などが行われます。

市指定の史跡「源実朝公御首塚」

※玉川学園「実朝さんの二つの供養塔が語るもの」

※葉室麟『実朝の首』(角川文庫)

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