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第21回の再放送を観た。

1.北条八重


世の中「義経ロス」「八重さんロス」って悲しんでるけど、
「なんでだよっ」
小松菜奈さんとの結婚発表や、星野源さんとの結婚発表の時のショックに比べたらたいしたことないだろ。

○日暮らしの森/音無しの森
・日暮らしの森:人目を忍ぶが源頼朝と八重姫は夜にしか会えない。源頼朝は、「日暮(ひぐ)らしの森」で日暮れ(夜)になるのを待ったと伝えられている。日暮八幡神社(静岡県伊東市桜木町)が建つ。
・音無しの森:夜に源頼朝が八重姫と会っていた森。音無神社(静岡県伊東市音無町)が建つ。
https://www.surugawan.net/guide/1099.html

■「日暮八幡神社」現地案内板①
「ひぐらしの森と日暮八幡神社」
 日暮(ひぐらし)の森は、若き日の流人源頼朝が、伊東祐親の娘八重姫との逢う瀬を楽しみに、日暮し過ごしたというロマンスの伝承を秘めている場所で、明治中期の絵図では、田んぼの中に大きくこんもりと繁った日暮の森が川のふちまで続いている。
 この周辺の発掘調査により、弥生時代(約二千年前)から古墳時代(約千五百年前)にかけての集落群が発見され、日暮(ひぐらし)遺跡と名づけられて、出土品の一部は伊東市文化財センターに展示されている。
 この神社の創建年月の明らかな記録は無いが、古くから村民の五穀豊穣、家内安全、安産の守護神として崇敬されてきた。
 祭神  誉田別命(ほむたわけのみこと)
 例祭日 九月十五日
  平成十一年記 伊東市教育委員会
■「日暮八幡神社」現地案内板②
「日暮神社 ひぐらしの森 由来」
 源頼朝は、伊豆流人の約20年の一時期、伊東の「北の小御所」に暮らした。その時、伊東領主・伊東祐親の娘八重姫とのロマンスが生まれたのである。2人は対岸の音無の森で逢瀬を重ね、その折頼朝が日暮れを待ったのが、ここひぐらしの森であったと伝えられている。
 2人の愛は、一子千鶴丸の誕生を迎えたが、平家をはばかる祐親の激怒に触れ、仲を引き裂かれ、多くの悲劇の中ではかなく消え去った。
 最近のひぐらしの森付近の考古学調査によると、弥生時代前期(2000年前)から古墳時代前期(1700年前)に及ぶ遺跡が発見され、勾玉・壺・石斧等と共に、当時の墓も発掘され、まさにひぐらしの森は、先人達の生活の場であったことを物語ってくれている。
 この森の最も古い記録は、文禄3年(1594年)午、8月の「岡村差出帳」である。同書によると、頼朝とのかかわりの事蹟を伝え、「道法、村より4町御座候」と記録している。(当時は名主の家を中心に道法を出していて、その頃の名主は瓶山下の堀井家であったと考えられる。)
 また嘉永年中の「伊東誌」によると、この地に程近い所に、日暮山龍明寺という寺があったと伝え、建久3年(1192年)8月15日に頼朝が、寺領53石を永久の祈願料として与えたと記している。
 このような点から、鎌倉幕府創建の人、頼朝にとって生涯の忘れ得ぬ思いで深い森であったと想像出来る。
 日暮神社は、祭神「誉田別命」が、村民の五穀豊穣、縁結び、安産の守護神として崇敬され「日暮八幡」として祀られた。神社として風格を現したのは江戸時代中期後で、以来地域住民の氏神として篤く信仰されるに至ったのである。

2.大姫


 東京都出身の南沙良(大姫)さんの憧れの女性は、誕生日が同じ6月11日の沖縄県出身のガッキーこと新垣結衣(北条八重)さんで、同じ事務所に所属し、「第二のガッキー」と呼ばれていた。新垣結衣さんが北条政子であれば、「似てるね~、親子だね~」と話題になったであろう。(と言っても、北条政子は北条八重の姪(姉の子)で、大姫には北条八重と同じ血が流れているわけで、似てないわけではない。)

  伊東祐親┬北条時政前室┬北条政子─大姫
      └八重姫   └北条義時─金剛

 新垣結衣さんは、ポッキーのCM「ポッキンナベイべー」で人気者になった。南沙良さんのポッキーのCM「何本分話そうかな」の母親役は宮沢りえ(りく)さんである。
https://note.com/sz2020/n/nddca8b741bb2

○葵:大姫が葵と自称するには、『中二病でも恋がしたい!』の中二病患者・小鳥遊六花が「邪王真眼の使い手」と自称するようなものか?
 SNSでは、「葵は『源氏物語』の葵の上で、再来年の『光る君へ』の番宣か?」と話題ですが、来年の『どうする家康』の徳川家の家紋「三つ葉葵」も掛けてるのかと。

○如意宝珠の真言:如意宝珠(チンターマニ)は、現世でのあらゆる願意を「意の如く」叶える珠(マニ)であり、その如意宝珠そのものの化身仏が、「十三仏」の13番目、子供が13歳になった時に参拝する4月13日の「十三参り」の本尊・虚空蔵菩薩である。
【如意宝珠の真言(Mantra)】
Oṃ  vajraratna,       Oṃ     trāḥ        svāhā
唵  伐折羅囉怛嚢    唵  त्राः     蘇婆訶
おん ばざらあらたんのう おん たらく そわか
帰命し奉る。金剛宝菩薩よ。帰命し奉る。虚空蔵菩薩よ。成就あれ。
・おん(唵)=帰命(きみょう)する。身命を投げ出して仏の教えに従う。
・ばざら(伐折羅/跋折羅/縛日羅/斡嚩囉)=金剛。
・あらたんのう(囉怛嚢、らとな、羅怛曩)=宝、宝石。
 ・ばざらあらたんのう=金剛石(ダイヤモンド)。ここでは金剛宝菩薩。
・おん(唵)=帰命する。
・たらく(たらーく。とらーは)=虚空蔵菩薩の種字。
・そわか(蘇婆訶/薩婆訶/莎訶)=成就あれ。畏み申し上げる。

 「虚空蔵」は、虚空がすべてを蔵するように、無量の智慧と福徳を備え、人々にこれらを与え、願いを満たし、救うという菩薩で、右手に智慧の宝剣、左手に福徳の如意宝珠を持つ。
「おん たらく そわか」(虚空蔵菩薩よ、我に智慧を得しめ給え)
と虚空蔵菩薩を念じると、記憶力が増大すると言われ、2月13日の虚空蔵尊大祭には多くの受験生が、記憶力増大→合格祈願に訪れる。

○イワシの頭:1年に4日ある節分(季節の節目。立春、立夏、立秋、立冬の前日)には、その節目の隙間から鬼(災い)が訪れる。それで、立春の前日の節分には追儺を行う。また、魔除けとして柊鰯(ひいらぎいわし)を門に飾る。ヒイラギの棘の痛さは鬼を追い払い、イワシの頭の臭さは鬼を寄せ付けないという。

3.小ネタ集


○八田知家登場:これで鎌倉殿の13人が出揃った。かっこいい登場であったが、道路工事は、家臣の職務怠慢による罰である。

■『吾妻鏡』「文治4年(1188年)5月20日」条
文治四年五月小廿日丙辰。「八田右衛門尉知家、郎從・庄司太郎、被遣大内夜行番之處、懈緩」之由、依令風聞、「早可召進其身於使廳」之趣、今日、被仰遣定綱。此上「可造鎌倉中道路」之旨、被仰知家云々。

(文治4年(1188年)5月20日。「八田知家の家来・庄司太郎(信太頼康?)は、京都御所の夜間警備に派遣されていたが、怠けている」と噂が伝わってきたので、「早く身柄を検非違使庁へ引き渡すように」と、今日、佐々木定綱に命令した。その上、「(「部下の不始末は、上司の責任である」として)鎌倉中の道路を整備するように」と、八田知家に命じたそうだ。)

○源範頼のひとこと:北条八重が行方不明になったと知って不安な北条政子に対し、源範頼は、
「大丈夫。きっと無事で戻って来ます」
と言った。源範頼は優しい。
 「富士の巻狩」で源頼朝が亡くなったという噂が鎌倉に伝わり、不安な北条政子に対し、源範頼は、「大丈夫。きっと無事で戻って来ます」と言えばいいのに、
「範頼、左(たすけ)て候へば、御代は何事か候べき」(『保暦間記』)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879818/377
と言った。「大丈夫です。安心して下さい」という意味で、優しい男性が、地震、雷、停電などの時、横にいる彼女にかけそうな言葉であるが、
「鎌倉殿(源頼朝)が亡くなっても、私が次の鎌倉殿になりますから、鎌倉は安泰です」
と、とらえられ、詫び状(起請文)を書く羽目になったという。
https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/dj-nihonshi/FRk5GejXgq.html

○後白河法皇と双六:源行家は、手を抜いたので、後白河法皇に「面白くない」と言われ、北条時政は、手を抜かなかったので、後白河法皇に「胆がすわっている」と褒められた。
 ちなみに、「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ我が心にかなはぬもの」(『平家物語』)と言ったのは白河法皇である。

○仁田忠常の妻:実は「貞女の鑑」と言われた仁田忠常の妻・菊子も、渡し舟が転覆して溺死している。

■『吾妻鏡』「文治3年(1187年)1月18日」条
文治三年正月大十八日庚申。新田四郎忠常病惱太辛苦、已欲及死門。仍二品渡御彼宅、令訪之給云々。

(文治3年(1187年)1月18日。新田(仁田、日田)忠常が病気で苦しみ、既に死にそうであった。それで、二品(源頼朝)は、彼の屋敷へ(病気見舞いに)行ったという。)

■『吾妻鏡』「文治3年(1187年)7月18日」条
文治三年七月小十八日丁巳。新田四郎忠常妻、參豆州三嶋社。而洪水之間、掉扁舟浮江尻渡戸之處、逆浪覆船、同船男女皆以入水底。然而、各希有兮存命、忠常妻一人没畢云々。
 是信力強盛者也。自幼稚之昔、至長大之今、毎月不闕詣當社之處、去正月比、夫重病危急之時、此女捧願書於彼社壇云。「縮妻之命、令救忠常給」云々。若、明神納受其誓願兮令轉歟。「志之所之、爲貞女」之由、在時口遊矣。

(文治3年(1187年)7月18日。新田忠常の妻・菊子が、伊豆国三嶋大社を参拝した。その時、洪水に遭い、江尻の渡船場の小舟に乗ったとたん、逆波が船を転覆させ、船に乗っていた男女は皆、水の中へ放り出されてしまった。とはいえ、それぞれ、奇跡的に助かったのであるが、新田忠常の妻・菊子だけは溺死したという。
 妻・菊子は、とても信心深い人である。幼い昔から、大人になった今に至るまで、毎月必ず三嶋大社へ参拝しており、今年の1月の頃に、夫が病気で危篤となった時、妻・菊子は、願書を三嶋大社に捧げて言った。「私の命を縮めてでも、夫・新田忠常を助け給え」と。もしかして、三嶋明神が、この願いを受け入れたのか。「その志は貞節な女性の鏡だ」と、当時、噂になったという。)

 仁田忠常は、建久4年(1193年)の「富士の巻狩り」の最中に起きた「曽我兄弟の仇討ち」において、従兄弟とされる曾我祐成を討ち取った。危篤の時に見舞ってくれた源頼朝への恩返しであろうか。その後、不運が続き、建仁3年(1203年)9月6日、和田義盛に討たれた。享年37。
 不運が続き、短命に終わった理由としては、
・「富士の巻狩り」で仕留めた山ノ神(巨大猪)の祟り
・「曽我兄弟の仇討ち」で討ち取った曾我祐成の祟り
・建仁3年(1203年)の富士山麓の「人穴探検」の祟り
が挙げられている。

★冒頭の「奥州合戦」の首検分の時、北条義時はなぜ鎧を着てないんだろう? 源頼朝ですら武装してるのに。史実の北条義時は「奥州合戦」には参陣しているが、目立った戦功をあげなかったようである。

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