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「十八松平」長沢松平家

1.十八松平


 松平家の庶子家は18家あり、「十八松平」と言うが、これは「松」という字を解体すると「十八公」になるためで、どの18家を指すのかは文献によって異なる。

「別格」
松平太郎左衛門家(本来の宗家):本拠地=松平郷
①岩津松平家(旧宗家):松平信光の流れ【絶家】
②安祥松平家(新宗家):松平信光の三男・親忠の流れ
『寛政重修諸家譜』の「松平庶流14家」
③竹谷松平家:松平信光の長男・守家の流れ 本拠地=蒲郡市竹谷町
④形原松平家:松平信光の四男・与副の流れ 本拠地=蒲郡市形原町
⑤大草松平家:松平信光の五男・光重の流れ 本拠地=額田郡幸田町
⑥五井松平家:松平信光の七男・忠景の流れ 本拠地=蒲郡市五井町
⑦深溝松平家:五井松平忠景の次男・忠定の流れ 本拠地=額田郡幸田町
⑧能見松平家:松平信光の八男・光親の流れ 本拠地=岡崎市能見町
⑨長沢松平家:松平信光の11男・親則の流れ 本拠地=豊川市長沢町
⑩大給松平家:安祥松平親忠の次男・乗元の流れ 本拠地=豊田市大内町
⑪滝脇松平家:安祥松平親忠の九男・乗清の流れ 本拠地=豊田市滝脇町
⑫福釜松平家:安祥松平長親の次男・親盛の流れ 本拠地=安城市福釜町
⑬桜井松平家:安祥松平長親の三男・信定の流れ 本拠地=安城市桜井町
⑭東条(青野)松平家:安祥松平長親の四男・義春の流れ
 本拠地=西尾市吉良町、岡崎市上青野町
⑮藤井松平家:安祥松平長親の五男・利長の流れ 本拠地=安城市藤井町
⑯合歓木(三木)松平家:安祥松平信忠の次男・信孝の流れ
 本拠地=岡崎市合歓木町、岡崎市上三ツ木町
家系が断絶した松平家
⑰西福釜(押鴨、鴛鴨)松平家:安祥松平親忠の七男・松平親光の流れ
 本拠地=豊田市鴛鴨町
⑱鵜殿松平家:安祥松平信忠の三男・康孝の流れ 詳細不明

※系図上は、松平郷の松平初代太郎左衛門親氏の長男の流れの家(松平郷松平家、松平太郎左衛門家)が宗家である。この松平太郎左衛門家以外の家(庶子家)が18家あるという。
 ところが、安祥松平家の松平元康が徳川家康と名乗って天下人となったので、徳川家康と松平初代太郎左衛門親氏を1本の線で繋ぐ系図が作られ、それが宗家の系図、そこに登場する9人が宗主ということになった。(松平初代太郎左衛門親氏の次男・松平信光は岩津を本拠地とする岩津松平家を興したが、度重なる戦で衰退して絶家。かわりに安祥松平家が台頭した。)

 「十八松平」の内、三河国宝飯郡長沢(愛知県豊川市長沢町古城)を本拠地とした松平家を「長沢松平家」と呼ぶ。

松平③信光┬3男・④親忠…⑨元康(後の徳川家康)
     └11男・親則─親益─親清┬勝宗─一忠─親広─政忠─康忠→
                 └信重【信重系長沢松平家】

→康直─松千代─忠輝【改易】

 長沢松平家は松平宗家3代・松平信光の11男・親則を祖とする家で、徳川家康の従弟(叔母の子)であり、義弟(妹の夫)でもある「徳川十六神将」の1人の8代・松平康忠が有名である。9代・松平康直が病死した時、嫡男がいなかったので、徳川家康の七男・松平松千代が継いだが、早世したので、徳川家康の六男・松平忠輝が継いだが、改易となった。

 松平清康┬松平広忠┬徳川家康─────────┬────────┐
     └碓井姫 └矢田姫        7男 ↓    6男 ↓  
       │    ├⑨松平康直─⑩松平松千代─⑪松平忠輝【絶家】
       ├───⑧松平康忠
      ⑦松平政忠

■『寛政重修諸家譜』(40巻)「長沢松平康直の女子②」
 母は上に同じ〔注:本多広孝の娘〕。外祖父・広孝に養はる。
 『寛永系図』「源七郎某」が伝に「故ありて家を継ぐこと得ざりしかば、 東照宮の御子・松千代丸、仰せによりて長沢の嗣となり、松千代丸早世の後、上総介忠輝朝臣、また、家督を継がせ給ふ」といふ。今の呈譜は、康直が事蹟上に記すが如くにして、康直死して嗣なかりしかば、父母、家名の絶へし事を歎きて、訴へ申せしに、東照宮にも憐れみおぼしめされ、「其の長女、成長せば聟を選びて嫁すべし」とて粧田を賜ひ、康直が遺領は松千代君に参らせられ、其の家臣をも付属せられて長沢の名蹟となされ、康直が妻と幼女とは本多康高に預け給ふ。慶長4年正月12日、松千代君、8歲にしてうせ給ひしかば、同母の御弟・忠輝朝臣にまた其の遺領をたまひ、長沢の家督となさる。元和2年7月8日、忠輝朝臣、御勘気かうぶり給ひしに至りて、嫡流は断絶すといふ。

       松平康直
       ├───┬j女子①連姫(徳川家康の養女)
 本多広孝─女子   └女子②

 本多康高は「徳川二十八神将」=有名人なのに、本多氏系図にその名が無い。

※参考記事:「徳川家康の妻子と家臣」
https://note.com/sz2020/n/nf641425bca3f

 長沢松平家は、松平忠輝の時に絶家となったとはいえ、分家は多く、長沢松平家の血脈は絶えなかった。たとえば『寛政重脩諸家譜』に、

 長沢松平孫三郎信重(松平広忠家臣)┬信次(松平康直家臣)─信宗…
                  └長次【桑谷松平家の祖?】

という「信重系長沢松平家系図」が掲載されている。松平信重は、長沢松平3代親清の2男と言われているが、それでは次男・長次が松平広忠に仕えたとするには年齢的にどうなのかな?
・松平信重:文禄4年(1595年)死亡。墓所:妙心寺。
・松平信次:文禄2年(1593年)死亡。墓所:妙心寺。
・松平長次:寛永5年(1628年)死亡。墓所:広忠寺。
(松平信重については、中嶋次太郎『松平忠輝と家臣団』では、「松平康忠の近親者の可能性もある」と指摘されているが、『寛政重脩諸家譜』で、幕府の御用学者たちが指摘しているように、「松平忠政の関係者(もしかしたら父親)」ではないだろうか。松平忠政(『寛政重脩諸家譜』の松平長次)は徳川家康の弟であるが、松平忠政の弟にして徳川家康の双子の弟・樵暗恵最の存在を消すために、ついでに徳川家康を松平広忠の長男にするために、松平忠政の存在も消された?)

※参考記事:「樵暗恵最」
https://note.com/sz2020/n/nbd516fc611d8

2.本拠地・長沢城へ行ってみた。


 安祥城から東へ、東海道53次・岡崎宿へ。
 東海道53次・藤川宿を過ぎ、山中八幡宮、山中城、
 広忠寺、桑谷城を過ぎ、
 奈良官道・山綱駅へ。
 本宿の二村山は東西三河の境界。
 豊川市に入ると、宮路山の上り口・関屋、そして長沢。

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安祥城(愛知県安城市安城町八幡前67)から山中城舞木口(愛知県岡崎市羽栗町長寄1)まで最短距離で何kmあるのかカーナビに入力すると、38.2km。
山中城舞木口から長沢城(愛知県豊川市長沢町字午新88)までは6.0km。

 松平7代清康(徳川家康の祖父)は西三河の中央の安祥城にいたが、西三河を統一すると、東三河を得て三河国を統一しようと考え、西三河の東端の山中城に居城を移した。矢作川を越えての約40kmの移動は大変であったろう。(この時から松平家の家臣となった内藤、平岩、天野、高力、榊原家を「山中譜代」と呼び、安祥譜代、山中譜代、岡崎譜代をまとめて三河譜代と呼ぶ。いわゆる「三河武士」である。)
 山中城から長沢城へは6kmと近いが、西三河(額田郡)と東三河(宝飯郡)の間の壁は、厚く、高かったと思う。ところが、簡単にやってのけた人物がいる。松平3代信光である。彼は長沢を得て、11男・親則を長沢に置いた。これが長沢松平家の始まりであるが、

 ──有り得ない!

どう考えても3代目にして山奥の松平郷から東三河長沢への進出は考えられない。早すぎる。あるとしたら、額田郡一揆鎮圧の褒章で得たか。
 平野明夫『三河 松平一族』では、「松平3代信光が得たのは豊田市長沢町で、豊田市の長沢松平家と、後の豊川市の長沢松平家は別の家であるが、系図を接合した。そもそも松平親則は長沢ではなく、京都に居た」とする。
 

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■長沢城跡(現地案内板)

 長沢は東西三河の境目にあり、両側から山が迫る地形で、中世において戦略上重要な位置であった。東海道を挟んで南(御城山山頂)に岩略寺城跡、北(古城団地)に長沢城跡がある。
 長沢城は、東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なもので、主郭の全面を土塁や三重の堀が巡り、南側に出入り口があった。現在は宅地化されて、堀の一部をわずかに残すのみである。
 また、寛永11年(1634)家光上洛のときに休憩所として建てられたいわれる御殿が長沢小学校敷地内にあった。

 案内板の元禄12年(1699年)の絵図を見ると、長沢城は東海道の北にあったことが分かる。

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 長沢城は、現東海道(国道1号線)の建設により、南北に分断されている。南には豊川市立長沢小学校が建ち、北の古城山麓「古城」(地名)には石碑が立っている。

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 この地には、巨大な関所のような長沢城(桜ヶ城)と山城・岩略寺城(長沢山城)があった。岩略寺城は関口氏の居城である。関口家は、徳川家康の正室・築山殿の家である。
 長沢松平氏は、初代松平親忠から第11代松平忠輝まで、ずっと長沢にいた訳ではない。正確な系図を書くのは難しい。






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