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宗良親王の終焉地と墓所

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1.宗良親王の終焉地

信濃国大河原で薨去したとする説(「三宝院文書」)
遠江国井伊城で薨去したとする説(『南山巡狩録』)
信濃国長谷村で討死したとする説(「常福寺文書」)
他に信濃国浪合説、駿河国井谷説、河内国山田説など約10説。

 宗良親王の終焉地については、住んでいた信濃国大河原(長野県下伊那郡大鹿村大河原)で薨去したとする説と、晩年の2年前に遠江国井伊谷(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)に移られて、井伊谷城で薨去したとする説が有力でした。
 ところが、明治の中頃、太平山常福寺(長野県伊那市長谷溝口)領の「御山」と呼ばれる小山の北側から宗良親王の法名「尊澄法親王」が刻まれた無縫塔が見つかり、さらに昭和15年(1940年)5月12日、本堂屋根裏から僧形の宗良親王尊像が発見され、その背中の穴から見つかった文書により、宗良親王は、1385年に諏訪に向かう途中で討ち死にしたとする信濃国入野谷郷長谷村説(「入野谷」は「伊那谷」の別称)が有力説となりました。(所在地不明で「幻の城」とされてきた大徳王寺城(北条時行が篭城し、宗良親王が来て、足利尊氏軍と4ヶ月戦った「大徳王寺城の戦い」(1340年)の舞台の寺城)の位置も判明しました。)

■「大草の宮の御哥」(「三宝院文書」)
大草宮と申すは、南帝の宮にて御座候。信州より度々御出張。終に事もとゝかて、大草と申す山の奥の里の奥の大川原と申す所にてむなしくならせ給ふこそ、あはれなる事共なり。
■『南山巡狩録』
元中二年八月十日、遠江井伊谷に御座有り、彼地にて薨じ給へり。
■宗良親王尊像から発見された文書(「常福寺文書」)
元中二丑秋新田一族者桃井香坂知久等待受来擁護尊澄法親王赴諏訪祝岐辺逢逆賊其一族擁者二三帰松風峰大徳王寺恐顕法親王薨去又新田病死恐逆賊来奉埋神密桃井香坂知久去大河原今尹良親王来当寺築尊墓建立法像写法華経納尊墓造立法塔亦新田其他為一族立塔為菩提納金二枚上酬慈恩報愛族去桃井也
 元中八辛未              大徳王寺尊仁(花押)

【考察】 「終焉地」は、その時住んでいた場所か、戦場であろう。
 「三宝院文書」では大河原で亡くなったとする。(大草宮=宗良親王とは書いてないが、学者は「大草宮=宗良親王」で間違いない」という。)
 「常福寺文書」では、諏訪氏に会いに行って逆徒に討たれたという。どこからどこまで行こうとしたか書かれていないが、学者は「大河原から諏訪に行こうとした」という。であるならば、墓は終焉場所か大河原に築けばいいのに、大徳王寺にあるということは、大徳王寺城に居たのかとも思う。

■『鎌倉大草紙』(別名『太平後記』)
去程に新田殿は去永徳の比まで、信濃国大川原と云所に深くかくれて有けるを、国中皆背申、宮を始め新田一門、浪合と申所にて皆討死して、父子二人うちもらされて奥州へにけ下り、岩城の近所酒邊と云所に隠給ひし(後略)
(新田氏は、永徳 ( 1381~1384)の頃までは大河原にいたが、「浪合合戦」で負けて、奥州酒辺へ逃げた。しかし、「若犬丸の乱」によって奥州にもいられなくなり、箱根山の奥の底倉に隠れた。)
■『南山巡狩録』「元中二年(1385)三月条」
 『藤沢山録記』に、新田義宗朝臣の御子・相模守行啓は、信濃国大河原にかくれ、上野武蔵の官軍を催促せられしかば、世良田有親公をはじめ、新田の一門信濃に立ちこへ、義兵を挙げんとはかりごとをめぐらされたり。此使い二人梶原美作守が為に召捕られ、一門も多く信濃国浪合にて討死し給ひけり。されども、相模守行啓父子は奥州汐かまのかたにのがれ給ひて忍ばれしといひ、此の時有親公もまた父子ともに奥州にいたり給ふとも見ゆ。
(新田行啓は、大河原に隠れていたが、「浪合合戦」で負けて、奥州塩釜へ逃げた。この時、新田氏族の世良田有親、世良田親氏の父子も奥州塩釜へ逃げた。(後に世良田親氏は松平初代親氏になり、松平郷に六所神社(鹽竈六所宮の分社)を建てて、松平家の産土社とした。))
■佐々宗淳『十竹筆記』
宮は、信濃国波合と云ふ所にて生害。新田も打ち死にきわまりしを、一門の徳河殿、身がわりに打ち死になり。
(「浪合合戦」で新田行啓親子が討たれそうになったが、兄・世良田政義(世良田有親の祖父)、弟・世良田義秋兄弟は身を挺して助けたが、討ち死にした。)
 世良田政義─親季─有親─親氏【松平氏の祖】


 『南山巡狩録』では井伊谷で亡くなったとする。『南山巡狩録』は史書であるが、典拠が歴史小説の『太平記』であるので、書いてあることが史実とは限らない。宗良親王の「終焉場所」は、井伊谷城がある城山の頂上の「御所丸」(陵石)だとされる。井伊谷の地元資料『宗良親王御事雑記』(「方広寺文書」)に「征東将軍宗良親王、井伊城中にて薨ず。御齢七十三」とあり、龍潭寺の『開山過去帳』にも「冷湛寺殿」とある。

 崩御された元中2年(1385年)に「三宝院文書」や「常福寺文書」では、「宗良親王は信濃国大河原に住んでいた」と言いたいようであるが、当時の信濃国は、南朝勢力が壊滅状態で、住める状態ではなく、宗良親王は宮将軍を息子・尹良親王に譲って政治活動から引退しており、文中3年(1374年)には吉野に戻り、長谷寺で出家している。そして、長慶天皇の命を受け、弘和元年(1381年)に『新葉和歌集』を完成させたところまでは分かっているが、その先が分からない。
 信濃国浪合説は尹良親王との混同、駿河国井谷説は井伊谷との混同、河内国山田説は『新葉和歌集』は吉野ではなく、河内国山田へ移って完成させたのであり、その先が分からないというのは、そこで崩御されたからだとする説です。

・文中3(1374) 宗良親王、大河原から吉野に戻る。
・天授3(1377) 吉野での3年間で『李花集』を完成させる。出家。
・天授6(1380) 河内国山田へ移る。
・弘和元(1381)『新葉和歌集』を河内国山田で完成させる。
・弘和3(1383) 井伊谷へ移る。
・元中2(1385) 8月10日、宗良親王、井伊谷城で崩御。

2.宗良親王の墓

大河原薨去説長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔
井伊谷薨去説→井伊谷城→井伊谷宮(旧・宗良親王御社)
長谷村討死説溝口の「御山様」の「尊澄法親王」と刻まれた無縫塔
など10ヶ所以上。

◆井伊谷の墓

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 宗良親王、元中2年8月10日(1385年9月22日)に亡くなりました。異母弟の方広寺初代住職・無文禅師が葬儀の大導師を務めました。
 墓は井伊谷城にありましたが、自浄寺に移葬し、諡号「冷湛寺殿」により寺号を「冷湛寺(れいたんじ)」と改めました。(自浄寺は、冷湛寺塔頭・自浄院となり、その後、冷湛寺は井伊直盛の菩提寺となって、井伊直盛の法名「 龍潭寺殿前信州太守天運道鑑大居士」により「龍潭寺(りょうたんじ)」と改められ、臨済宗妙心寺派の寺になりました。)
 明治元年(1868年)、龍潭寺の北半分を「宗良親王御社」(明治5年(1872年)に井伊谷宮と改称)とし、明治6年(1873年)、明治政府は、井伊谷宮の墳墓を宗良親王の陵墓と定めました。

◆溝口の墓

 明治の中頃、常福寺領「御山」と呼ばれる小山の北側から無縫塔が見つかり、正面に十六弁菊花御紋章(南朝の紋)と宗良親王の法名「尊澄法親王」が刻まれていました。
 昭和15年5月12日、常福寺本堂の屋根を改修中、屋根裏から天台宗の袈裟を着た僧形座像の木像(宗良親王が天台宗の座主であったことから、宗良親王像と考えられる)が落下し、背中の穴から後掲の文書が出てきました。この文書には、「元中2年(1385年)の秋に宗良親王は諏訪氏に会いに行く途中に逆賊に討たれ、大徳王寺に密葬された。宗良親王の子・尹良親王が6年後の元中8年(1391年)に大徳王寺に来て、父・宗良親王の像と墓を作られた」とあります。つまり、宗良親王は長谷村で討ち死にし、長谷村溝口の「御山」は、尹良親王が築いた宗良親王の墓であると考えられています。

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★宗良親王の墓だと考えられてきた古墳

・城山東麓の二宮山円通寺(ニ宮御殿跡)境内の無名の塚(直径5m)
・「火穴」(城山西斜面の「西の谷」(妻・井伊重子の屋敷跡)の円墳)
・「火穴」(城山南西麓の城山古墳群の円墳):現在立入禁止
・「高部の石棺」こと「大門大塚古墳」(袋井市高尾大門)
・親王塚古墳(愛知県春日井市大留町)

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【考察】 「墓」は、首塚、胴塚、遺品を埋めた供養塔など、複数ある人もいるので、「全部本物」と言いたいですね。宗良親王は天皇の子なので、塚が築かれたはずであるが、さすがに古墳時代の古墳は違うと思う。(宗良親王の墓跡とされる御所丸跡は、石がゴロゴロ。破壊された古墳のようでした。)

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