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司馬遼太郎『覇王の家』を読む ③

 松平親氏、つまり徳阿弥は、どうやらその種の魅力に富んだ人物であったらしい。
 かれは三河をさすらううち、西三河の酒井郷の土豪酒井家と、この山間の里の土豪の家を往来するうち、両家のおんなに孕ませてしまい、それぞれ男子ができた。松平・酒井という小さな連合勢力が誕生するのは、このときからである。
                     ──司馬遼太郎『覇王の家』

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 徳阿弥(後の松平親氏?)の正体については、よくわからない。『松平氏由緒書』には、徳阿弥(徳翁斎信武)にどこから来たのか尋ねると、
「惣じて我等と申すは、東西南北を巡りし回る旅人の者也」
と答え、先祖を問うと、
「我等共の先は、東西を嫌はずして牢浪の者に候へば、御恥ずかしく候」
と答えたとある。
 一説に、徳阿弥は、南朝遺臣の得川氏(清和源氏新田氏流。本貫地は上野国得川荘)であり、時宗総本山・藤沢山無量光院清浄光寺(通称「遊行寺」。神奈川県藤沢市西富)で出家後、遊行で三河国の時宗の寺に来て、酒井氏(清和源氏新田氏流。本貫地は肥前国養父郡酒井村)の婿養子になって、子・酒井広親を儲けるが、妻(酒井氏の娘・おりん)が亡くなったので、子供を酒井家に残し、今度は在原松平氏の娘・水女の婿養子になったという。

  酒井りん(在原松平海女?
   ‖──長男:広親(?-1459)【酒井宗家(左衛門尉家)】
  徳阿弥(徳翁斎。得川親氏→松平親氏(1332?-1394?)?)
   ‖─┬次男:信広(?-?)【松平郷松平太郎左衛門家】
   ‖  └三男:信光(1404?-1488?)【松平宗家(岩津松平家)】
  在原松平水女

※松平親氏の生没年は不明であるが、私は、鎌倉幕府滅亡の1年前の元弘2年/正慶元年(1332年)に生まれ、満62歳で応永元年(1394年)に没した(明徳5年(1394年)7月5日、「応永」に改元)と考えている。松平郷では明徳4年(1393年)に没したとして、平成5年(1993年)に「親氏公600年祭」が行われた。
 没年が1393年であれ、1394年であれ、1400年頃には生きていても高齢であったとすると、松平親氏の子とされている長男・酒井広親、次男・松平信広、三男・松平信光の3人は、1400年頃の生まれであろうから、松平親氏の子である可能性は非常に低い。この3人は、松平親氏の「子」ではなく、「孫」の世代の人物である。(松平親氏は突然、病死したが、この時、次男・松平信広、三男・松平信光の2人はまだ幼かったので、松平親氏の弟・松平泰親が松平家を継いだとされる。)
 また、徳阿弥(徳太郎)が三河国へ行きたのは、称名寺では永享13年(1441年)、光明寺では永享12年(1440年)としている。1440年であれ、1441年であれ、長男・酒井広親、次男・松平信広、三男・松平信光の3人の子はすでに生まれていると思われる。元服もしていたのではないだろうか。徳阿弥と徳翁斎は別人なのだろう。
 称名寺でも、光明寺でも、徳阿弥(徳太郎)が三河国へ行きたのは、出家した次の年だとするが、『塩尻』には、徳太郎が出家したのは6歳の時で、その後、12~13年、(新田義陸を大将として再起しようと南朝遺臣が集結した)宮城県塩竈市にいたとある。(大久保忠教『三河物語』にも「徳の御代に時宗にならせ給ひて、御名を徳阿弥と申し奉る」(松平親氏が、元服前、まだ「徳太郎」と幼名を名乗っていた時期に、出家して時衆になられ、徳阿弥と名乗られた)とある)そして松平郷に入ると、「塩竈六所宮」の祭神を「六所神社」として祀ったという。

※松平親氏の没年には、明徳4年没説以外に11説あり、106年の開きがある。
 ①康安元年(1361年)4月20日(「法蔵寺由緒」「大樹寺記録」等)
 ②応永元年(1394年)4月20日(『三河海東記』)
 ③応永元年(1394年)4月24日 享年63(『高月院記』、高月院の墓)
 ④応永20年(1413年)(「信光明寺縁起」)
 ⑤応永21年(1414年)(「松平総系譜」)
 ⑥応永28年(1421年)(「参陽松平御伝記」)
 ⑦応永35年(1428年)(『東栄鑑』)
 ⑧永享9年(1437年)  (「瀧村万松寺系図」、妙昌寺位牌)
 ⑨康正2年(1456年)  (『大三河志』『三河刪補松』)
 ⑩応仁元年(1467年)4月20日(『徳川歴代記』)
 ⑪応仁元年(1467年)4月21日(光明寺位牌)

 さて、徳阿弥が来た三河国の時宗の寺酒井氏の居住地には2説ある。

・説①:大浜の称名寺&西尾市吉良町(三河国幡豆郡坂井郷)
・説②:矢作の光明寺&刈谷市東境町(三河国碧海郡酒井郷)

1.称名寺&西尾市吉良町説

(1)称名寺


 長阿弥&徳阿弥&石川孫三郎一行は、永享12年(1440)正月、信濃国林郷(現在の長野県松本市里山辺)に隠れ住んでいた三河林氏の祖・小笠原光政(清和源氏義光流小笠原氏族林籐助光政)に「ウサギの吸い物」をごちそうしてもらい、4月に石川氏第二の本拠地・三河国へ入ると、運が開けたという。

◆参考記事:「請西藩林家と献兎乃記念碑」
https://kazusa.jpn.org/b/archives/3857

■『称名寺の由緒』「三 松平氏との有縁・寄進」
 寺伝によれば、永享13年(1441)に徳川有親・松寿丸の親子は、従者石川孫三郎が付添い称名寺に移住された。時の住持は孫三郎の弟、7世其阿龍全であった。
 有親は、所持の「渡唐天神画像」を寄付、父の徳川親季の分骨を境内に祀り、連歌会を興行、など閑居した。やがて享徳元年(1452)に歿し、当寺に葬られる。
 のち松寿丸は、連歌の縁で加茂郡松平郷の松平信重の跡を継ぎ、松平太郎左衛門尉親氏となり、松平氏がはじまった。かくて、松平氏の勢力は拡大、碧海郡南部に及んだ。

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