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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第3回)「挙兵は慎重に」


   都に激震が走る。

   平清盛は、後白河法皇を幽閉。

   自分の孫を、帝に即位させたのである。

   安徳天皇━━この時、1歳と3ヶ月。

   その頃、伊豆では、

   頼朝を婿に迎えた北条家に

   都の不穏な気配が、忍び寄っている。

★第1&2回(1175年)の出来事については、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には記載されていないが、第3回(1180年)以降は記載されている。

■『吾妻鏡』 ~第3回より~
 脚本の三谷幸喜さんが「これが原作のつもりで書いている」と話されている『吾妻鏡』。この史書には、治承4年(1180)の「以仁王の乱」をはじまりとする鎌倉幕府の歴史が記されています。そこで第3回より、ドラマで描かれた主なエピソードをご紹介していきます。
・治承4年(1180)4月27日条
以仁王の令旨が伊豆の北条館に到着。持ってきたのは源行家。源頼朝は正装の水干に着替え、謹んで令旨を開きました。
・治承4年(1180)5月26日条
源頼政が平家軍2万と宇治で戦い、敗死。以仁王も最期を遂げました。
・治承4年(1180)6月19日条
三善康信の使者が北条へ到着。「以仁王の令旨を受けた源氏はすべて追討せよという命令が出されています。早く奥州へお逃げください」と源頼朝に都の情勢と自身の考えを伝えました。
・治承4年(1180)6月27日条
都で大番役を務めていた三浦義澄が、相模の所領に戻る途中に北条を訪れました。ちなみに、しばらくの間、密談をしたようですが、その内容は不明です。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/special/history/azumakagami003.html

《源頼朝略年表》-----------------------------------------------------------------

※第1回と第2回は1175年の話で、第3回は5年後の1180年の話である。

1175年 29歳 長男・千鶴丸、殺される。伊東八重と別れさせられる。
1176年 30歳 北条政子と結婚する。
1177年 31歳
1178年 32歳 長女・大姫誕生。母は北条政子。
1179年 33歳 次男・島津忠久誕生。母は丹後局(比企能員の妹)。
1180年 34歳 「以仁王の乱」の後、挙兵する。
1181年 35歳 「養和の飢饉」(~1183)

★源頼朝の叔父と兄弟

源為義┬義朝┬長男・義平(母:遠江国橋本宿の白拍子?)【死亡】
   │  ├次男・朝長(母:典膳大夫中原久経の娘)【死亡】
   │  ├三男・頼朝(母:熱田大宮司・藤原季範の娘)
   │  ├四男・義門(母:?)【死亡(早逝)】
   │  ├五男・希義(母:熱田大宮司・藤原季範の娘)
   │  ├六男・範頼(母:遠江国池田宿の白拍子)
   │  ├七男・全成(母:常盤御前):醍醐寺→阿波局の夫
   │  ├八男・義円(母:常盤御前):八条宮円恵法親王の坊官
   │  └九男・義経(母:常盤御前):鞍馬寺→奥州平泉
   ├義賢━義仲(室は巴御前)
   ├鎮西八郎為朝
   └新宮十郎行家(「以仁王の令旨」を全国の源氏に配布)

1.「治承三年の政変」と「以仁王の令旨」

第77代後白河天皇┬第一皇子:守仁親王(第78代二条天皇)━79六条天皇
        ├第二皇子:守覚法親王
        ├第三皇子:以仁王(「最勝親王」と自称)
        ├第四皇子:円恵法親王
        ├第五皇子:定恵法親王
        ├第六皇子:僧・恒恵
        ├第七皇子:憲仁親王(第80代高倉天皇→高倉上皇)
        ├第八皇子:静恵法親王     ├━第81代安徳天皇
        ├第九皇子:道法法親王 平清盛━平徳子
        ├第十皇子:承仁法親王
        └第十一皇子:僧・真禎


※以仁王(1151-1180)
 後白河天皇の第3皇子(兄・守覚法親王が早くに出家したため『平家物語』では第2皇子とする)。母は権大納言藤原季成の娘・成子で、幼少から学問や詩歌、特に書や笛に秀でていたが、「親王」になれず、天皇になる資格はなかった。

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前回の露天風呂の源頼朝の台詞
「法皇様をお支えし、この世をあるべき姿に戻す! そのためには政子が、北条が欠かせぬのだ。よいな。事は慎重に運ばねばならぬ。この事は兄にも話すな。小四郎、お前はわしの、頼りになる、弟じゃ」
を受けて、今回のタイトルは「挙兵は慎重に」である。

 治承3年(1179年)11月、平清盛は、クーデター「治承三年の政変」を起こし、後白河法皇を幽閉した。さらに、治承4年(1180年)2月21日、孫・安徳天皇(治承2年11月12日生まれの3歳)を即位させ、平氏の傀儡としての高倉上皇による「高倉院政」が開始された。(この武家(平氏)が朝廷を抑えての平氏政権を、武家政権とするかどうかは、学者の意見が割れ、今のところは「武家政権は鎌倉幕府の成立以降」とされている。)

 平氏一族による独裁政治を阻止しようと、後白河天皇の第3皇子(高倉上皇の異母兄)・以仁王(高倉宮、最勝親王)が源頼政の支援で立ち上がり、全国に散らばる源氏一族に「以仁王の令旨」を出した。北条館の源頼朝へは、治承4年4月27日に山伏姿の叔父・源行家が届けに来た。(「以仁王の令旨」は複数有り、源行家は、「以仁王の令旨」を木曽義仲に渡すため、すぐに旅立った。)

■以仁王の令旨
「下 東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所 應早追討淸盛法師并從類叛逆輩事」
(下す 東海、東山、北陸、三道諸国の源氏并びに群兵等の所へ 応えて早く清盛法師并びに従類叛逆の輩を追討の事)

 源頼朝(河内源氏)は挙兵しなかった。「源氏の棟梁」たる自分が、数十人の北条氏の家来を引き連れて、源頼政(摂津源氏)の下につくというのはみじめだという面子もあったからである。
 源頼朝は源行家の「自分は選ばれた人間だ」という高圧的な態度が気に入らなかったのかもしれない。北条時政は、源頼政に芋(自然薯)と山葵を贈った時の態度が気に入らなかったのかもしれない。(栽培技術が発達していなかった当時、あのようなまっすぐな芋はない。また、伊豆国特産の山葵はかなり大きかった。かなり高価だと思う。ただ、源頼政は伊豆国の知行国主であるので、伊豆国の特産物は容易に手に入ったことであろう。)

━━以仁王様の挙兵には加わらぬことにした。頼政卿では無理だ。人はついてこん。(源頼朝)

※頼政卿では無理だ:ドラマでは、北条時政と会った時の様子から、家臣が慕うような人物ではないと考えたとする。だが、それは表向きで、実は自分が先導して挙兵しようと思っているとする。
 ドラマとは関係なく言えば、頼政卿は源氏でありながら、源氏を裏切って平氏側についた人間なので、源氏の諸将は従わない。とはいえ、源氏の諸将は、以仁王様には従う。

━━りくの見立てでは、この度の宮様のお企て、失敗いたします。お使いの方がそんなに仰々しく振舞っていては、遠からず平家の知るところとなりましょう。いずれ必ず、佐殿には立っていただきましょう。その横には、しい様。あなたには、この伊豆は狭すぎます。りくの見立てには、間違いはございません。(りく=牧の方)

※りくの見立て・・・人相占いが得意なのでしょうか?(文覚上人は源頼朝を一目見て「天下人になる」と言ったそうですが。)後に牧の方は、北条家は北条義時にではなく、自分と北条時政の子に継がせようとしたとか。また、将軍・源実朝を殺害し、娘婿の平賀朝雅を新将軍としようとするも、北条政子&義時姉弟にばれて、夫・北条時政と共に出家させられ、伊豆国に流され、平賀朝雅は討たれました(「牧氏事件」)。

 治承4年(1180年)5月26日の宇治の「橋合戦」。源頼政は宇治平等院「扇の芝」で自害し、以仁王は飛騨守景家の兵に光明山鳥居の前で討たれた。こうして以仁王の平氏追討計画「以仁王の乱」は失敗に終わった。

 埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける(源頼政辞世)

 これにより、摂津源氏(源頼政など)は衰退し、河内源氏(源頼朝、木曽義仲、武田信義など)が「源氏の棟梁」候補として全国各地の源氏をまとめる可能性が生まれた。
 今回のタイトル「挙兵は慎重に」は、慎重な源頼朝にではなく、以仁王に対してである。以仁王の敗因は、牧の方が言ってるように、挙兵の前に全国各地の源氏に令旨を送り、クーデターの計画が露見し、準備中に襲われたことである。

 この「以仁王の乱」の顛末を源頼朝は、治承4年6月19日、毎月上旬、中旬、下旬に各1回、使者に京都情勢を説明させている三善康信(母が源頼朝の乳母の妹)の使者から聞いた(『鎌倉殿の13人』では三善康信からの手紙で知ったとする)。三善康信は、全国の源氏追討の計画(「以仁王の令旨」を受け取った者の殺害)が出されているので、早く奥州へ逃げるよう使者を通して伝えた。源頼朝は「「以仁王の令旨」を受け取ったが、挙兵しなかった」と憤るも、奥州へは逃げなかったが、 目代(もくだい。京都にいる国主が現地の管理を任せた代官)の源有綱は逃げた。

■『吾妻鏡』「治承4年6月19日条」
 治承四年六月小十九日庚子。散位康信使者參着于北條也。武衛於閑所對面給。使者申云。去月廿六日。高倉宮有御事之後。請彼令旨之源氏等。皆以可被追討之旨。有其沙汰。君者正統也。殊可有怖畏歟。早可遁奥州方給之由所存也者。此康信之母者。武衛乳母妹也。依彼好。其志偏有源家。凌山川。毎月進三ケ度(一旬各一度)使者。申洛中子細。而今可被追討源氏之由事。依爲殊重事。相語弟康淸(稱所勞。止出仕)所差進也云々。
(治承4年6月19日、三善康信の使者が北条に来た。「先月26日、以仁王が亡きくなられた後、『令旨を受け取った源氏は全て滅ぼすように』という命令が出た。あなたは正統なので特に危険。早く奥州(東北)に逃げたほうが良い」と言った。三善康信の母は頼朝の乳母の妹なので、その縁で源氏に荷担し、毎月3度、使者を遣って京都朝廷の様子を知らせて来ていた。)

※伊豆国での変化(平氏の力の増大)
知行国主:源頼政【死亡】→平時忠(平清盛の妻・時子の兄)
国守:源仲綱(源頼政の嫡男)【死亡】→平時兼(平時忠の養子)
目代:源有綱(源仲綱の次男)【奥州へ逃亡】→山木平兼隆(伊勢平氏)
※平時兼が「伊豆守」であるが、京都にいるので、現地にいる「目代」の山木兼隆が管理した。堤信遠は、「目代の後見」であるが、『鎌倉殿の13人』では平清盛に任命された「伊豆権守」とする。(「権」は「副(サブ)」の意。)

 三善康信は、平清盛が「諸国の源氏追討を指示した」と源頼朝に伝えたと言うが、当時の平清盛は福原の建設に専念しており、「諸国の源氏追討」まで考える余裕はなく、「伊豆国の源頼政の残党(源有綱)を成敗せよ」と言ったのを、三善康信が間違って伝えたらしい。
 何れにせよ、自身が危機の中にあることを悟った源頼朝は、せっかく得られた家族(北条ファミリー)を捨てて奥州に逃げることなく、挙兵(追討軍との戦)を決意したが、「大義名分」が見つからなった。

2.「後白河法皇の院宣」

 最初の標的は伊豆国目代・平兼隆(山木に住んで山木兼隆)に決まった。山木兼隆が源氏追討軍として襲ってきたわけではない。一説に、「山木兼隆と北条政子との結婚が決まっていたので、北条政子と源頼朝を結婚させるために山木兼隆を襲った」と言う。(『鎌倉殿の13人』では、「北条政子と源頼朝を離縁させて山木兼隆と結婚させる」というのは、「わしが八重と源頼朝を離縁させ、さらに復縁しないよう江間治郎と結婚させたのを見習え」と伊東祐親が考えた北条家を救う手段だったとする。)なお、伊豆国目代・山木兼隆は、伊勢平氏の傍流で、伊豆に流されていた流人である。
 さて、平清盛が「諸国の源氏追討を指示した」として、「先手必勝」で襲うにも、大義名分が欲しい。そこにタイミングよく「後白河法皇の密旨(院宣)」が届けられた。(ただ、これは、『平家物語』のみに掲載されている話で、源頼朝の挙兵を正当化するための創作だと言う。)

※「後白河法皇の密旨」を源頼朝に届けたのは誰?
説①伊豆に流されていた文覚上人(俗説?)
説②三浦義澄と千葉胤頼(『吾妻鏡』の6月27日の談合の時)
説③「後白河法皇の密旨」は無かった。(『吾妻鏡』に掲載無し)

■『吾妻鏡』「治承4年6月27日条」
治承四年六月小廿七日戊申。三浦次郎義澄(義明二男)。千葉六郎大夫胤頼(常胤六男)等參向北條。日來祗候京都。去月中旬之比。欲下向之刻。依宇治合戰等事。爲官兵被抑留之間。于今遲引。爲散數月恐欝。參入之由申之。日來依番役所在京也。武衛對面件兩人給。御閑談移刻。他人不聞之。
(1180年6月27日。三浦義澄(三浦義明の次男)と千葉胤頼(千葉常胤の六男)が北条に来た。「京都に仕えており、先月中旬に帰国しようとしたが、宇治合戦等が原因で、平家軍に捕われており、遅くなった。ここ数ヶ月の恐れや鬱憤を晴らしたくて参った」と言った。これは大番役で京都にいたのである。頼朝様は二人と対面して、何事かを話していたが、他の人は誰も聞いていない「秘密の談合」であった。)

 「後白河法皇の密旨」について書かれているのは『平家物語』のみであり、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には載っていない。

 ━━では、なぜ、源頼朝は挙兵したのか?

源頼政と以仁王による「以仁王の乱」は失敗した。
 ↓
平清盛が「源頼政の残党を討て」と命令した。
源頼政は伊豆国の知行国主であり、伊豆国では特に厳しい捜索が!
 ↓
三善康信の使者が「平清盛が諸国の源氏追討を指示した」と誤報を伝えた。
(あわて者のはやとちりが歴史を動かすこともある。)
 ↓
源頼朝は挙兵せざるを得なくなった。

※「文覚上人に父・源義朝の髑髏を見せられたので挙兵」説はなし。
※「三善康信が源頼朝に挙兵させるために嘘を伝えた」説はあり?

★トンデモ説
①源頼政の挙兵は、安徳天皇(伊藤光之丞)が女性だったから。(安徳天皇女性説)
②北条歳時は、北条家の分家・江間家の人間で、北条時政の嫡男・宗時が討死したので、本家(北条家)の養子になった。
③源頼朝はセックス依存症で、北条政子の妊娠中は他の女性と浮気した。長女・大姫が北条政子のお腹にいる時には、丹後局(比企能員の妹)との間に次男・島津忠久を儲けている。トンデモ説では、北条政子は流産がくせになっており、妊娠すると、源頼朝は他の女性とセックスして孕ませ、北条政子が流産すると、その女性が生んだ子を北条政子が生んだ子としたという。

★今回の感想
①「北条義時は、源頼朝と組んだ。源頼朝の死後は北条政子と組んだ。北条時政は牧の方と組んだ」という姿が見えた回であった。
②夢を信じる。源頼朝が後鳥羽上皇の夢を見たか、後鳥羽上皇の生霊を見たかは知らない。ただ、源実朝は、夢のお告げで未来を見て、何度も的中させたことで知られる。
③八重が北条館に来た時、北条政子が勝ち誇ったように笑顔で手を振ってましたが、あの演出の意味は? 「ハ~イ、佐殿と仲良くやってるよ~」でしょうか? 「バイバイ」でしょうか?(私なら「シッシッ」だな。)
④演出といえば、第1回のラストの矢が当らないように森の中を駈けるシーンはSWにカメラワークでしたね。今回の助けを求める後白河法皇の生霊のシーンは、SWのレイア姫が助けを求めるシーンのパロディだそうです。
⑤このドラマの佐殿は、豪族たちの1段上にいるようです。巻狩の成果を皆で話し合う輪(鹿は獲れず、兎2匹の工藤茂光(狩野茂光)が優勝するというコメディ)の中に佐殿はいません。実際の佐殿は、皆と一緒に巻狩をして、事後の輪の中にもいたと思います。


★呉座勇一 歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第3話「源平合戦の幕開け! なぜ以仁王と源頼政は挙兵するに至ったのか?」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91566

▲本日の「13人の合議制」のメンバー(宿老)

①大江広元(栗原英雄)
②中原親能(?)
③二階堂行政(?)  
④三善康信(小林隆)=京都の情勢を手紙で伝えた。
⑤梶原景時(中村獅童) 
⑥足立遠元(大野泰広)
⑦安達藤九郎盛長(野添義弘)=「後白河法皇の密旨」を保管。
⑧八田知家(?)    
⑨比企能員(佐藤二朗)
⑩北条時政(坂東彌十郎)=主人公と北条政子の父。
⑪北条義時(小栗旬)=主人公(北条時政の次男)。
⑫三浦義澄(佐藤B作)=「後白河法皇の密旨」を渡す。
⑬和田義盛(横田栄司)=賞金を賭けた巻狩で北条館にいた。

▲『鎌倉殿を支えた13人の重臣ガイドブック』
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/taiga/documents/taiga1201katamen1.pdf
▲『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

★関連図書
小杉天外 (為蔵)伊豆乃頼朝 前編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/885402
小杉天外 (為蔵)伊豆乃頼朝 後編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/885403



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