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『曽我物語』「伊東氏と北条氏の差」

■原文


 そもそも、兵衛の佐殿、御代を取り給ひては、伊東、北条とて、左右の翼にて、いづれ勝劣あるべきに、北条の末は栄え、伊東の末は絶えける由来を詳しく尋ぬるに、頼朝十三の年、伊豆の国に流されておはしけるに、かの両人を打ち頼み、年月を送り給ひけり。
 しかるに、伊東の次郎に、娘四人あり。一は相模の国の住人三浦の介が妻なり。二には工藤一郎祐経に相具したりしを取り返し、土肥の弥太郎に逢はせけり。三、四は、いまだ伊東が許にぞありける。中にも、三は、美人の聞こえあり。佐殿聞こし召して、潮の干る間の徒然と、忍びて褄を重ね給ふ。頼朝、御心ざし浅からで、年月を送り給ふほどに、若君一人出で来給ふ。
 佐殿、喜び思し召して、御名をば、千鶴御前とぞ付け給ひける。つらつら往事思ふに、旧主が住まひし、古風のかうばしき国なれども、勅勘を被りて、習はぬ鄙の住まひの心地ぞありつるに、この者出で来たる嬉しさよ、十五にならば、秩父、足利の人々、三浦、鎌倉、小山、宇都宮相語らひ、「平家に掛け合はせ、頼朝が果報のほどを試さん」と、もてなし思ひ傅き給ふ。
 かくて、年月を経るほどに、若君三歳になり給ふ春の頃、伊東、京より下りしが、しばし知らざりけり。ある夕暮れに、花園山を見て入りければ、折節、若君、乳母に抱かれ、前栽に遊び給ふ。祐親、これを見て、「かれは誰そ」と問ひけれども、返事にも及ばず、逃げにけり。怪しく思ひて、即ち、内に入り、妻女に会ひ、「三つばかりの子のもの由しきを抱き、前栽にて遊びつるを、『誰そ』と問へば、返り事もせで逃げつるは、誰にや」と問ふ。継母の事なりければ、折を得て、「それこそ、御分の在京の後に、斎き傅き給ふ姫君の、わらはが制するを聞かで、美しき殿して設け給へる君達よ。御為には、めでたき孫御前よ」と、烏滸がましく言ひ成しけるこそ、まことに末も絶え、所領にも離るべき例なり。然れば、「讒臣は国を乱し、妬婦は家を破る」と言ふ言葉、思ひ知られて、浅ましかりける。
 祐親、これを聞き、大きに腹を立て、「親の知らざる婿やある。誰人ぞ。今まで知らぬ不思議さよ」と怒りければ、継母は、訴へ済ましぬるよと嬉しくて、「それこそ、世にありて、まことに頼りまします流人、兵衛佐殿の若君よ」とて、嘲弄しければ、いよいよ腹を立て、「娘持ち余りて、置き所なくは、乞食非人などには取らするとも、今時、源氏の流人婿に取り、平家に咎められては、いかがあるべき。『毒の虫をば、頭を拉ぎて、脳を取り、敵の末をば、胸を裂きて、胆を取れ』とこそ言ひ伝へたれ。詮なし」とて、郎等呼び寄せて、若君誘ひ出だし、伊豆の国松川の奥を尋ね、とどろきの淵に柴漬けにし奉りけり。情けなかりし例なり。
 剰へ、北の御方をも取り返し、同じき国の住人江間の小四郎に合はせけり。名残惜しかりつる衾の下を出で給ひて、思はぬ新枕、かたしく袖に移り変はりし御涙、さこそと思ひ遣られたり。是も、祐親が、平家へ恐れ奉ると思へども、わうきう・董賢ふん、三百たるにも、楊雄・仲舒ふんか、其の門につまびらかにせんにはしかずと見えたり。
 剰へ、佐殿をも、夜討にし奉らんとて、郎等を催しける。此処に、祐親が次男伊東の九郎祐清と言ふもの有り。秘かに佐殿へ参り、申しけるは、「親にて候ふ祐親こそ、物に狂ひ候ひて、君を打ち奉らんと仕り候へ。何処へも御忍び候へ」と申しければ、頼朝聞こし召し、ちやうさい王が、害にあひしも、偽る事は知らでなり、ゑみの内に刀をぬくは、習ひなり、人の心知り難ければ、君臣父子、いを以ておそるべし、況や、打たんとするは、親なり、告げ知らするは、子なり、方々、不審に覚えたり、いかさま、我をたばかるにこそとて、打ちとけ給ふ事も無し。「誠に思ひ掛けられなば、何処へ行きても逃るべきか。然れども、左右無く自害するに及ばず、人手にかからんよりは、汝、早く頼朝が首を取りて、父入道に見せよ」と仰せられければ、祐清承りて、「仰せの如く、語らひ難き人の心にて候ふ。蜂を取りて、衣の首に返して、親子の心に違ひしも、偽るたくみなり。君思し召すも、御理、誠の御志とは思し召さずして、いしやうのはう、もつとも御疑ひ、理なり。忝くも、不忠申し候はば、当国二所大明神の御罰を蒙り、弓矢の冥加長く付き、祐清が命、御前にてはて候ひなん」と申しければ、佐殿聞こし召し、大きに御喜び有りて、「斯様に告げ知らする志ならば、如何にもよき様に相はからひ候へ」と仰せければ、祐清承りて、「藤九郎盛長、弥三郎成綱をば、君御座の様にて、暫く是に置かれ候ふべし。君は、大鹿毛に召されて、鬼武ばかり召し具し、北条へ御忍び候へ」と申し置きて、「御討手もや参り候はん、事をのばし候はん」とて、急ぎ御前を立ちにけり。
 佐殿も、秘かにまぎれ出でさせ給ふ。頃は、八月下旬の事なるに、露ふき結ぶ風の音、我が身一つにもの寂しく、野辺にすだく虫の声、折から殊に哀れなり。有明の月だに未だ出でざるに、何処を其処とも知らねども、道をかへて、田面を伝ひ、草を分けつつ、道すがらの御祈誓には、「南無正八幡大菩薩の御記文に、我末世に、源氏の身と成りて、東国に住して、夷をたひらげんとこそ誓ひ坐しませ。然るに、人すたれ、氏滅びて、正統の残り、只頼朝ばかりなり。今度、栄華を開かずは、誰有て、家を起こさんや。世既に澆季にのぞみ、人後胤なし。早く頼朝が運を開かせて、東夷を従へしめ給へ。しからずは、当国の匹夫となし、長く本望を遂げしめ給へ」と、御祈誓、夜もすがらなり。感応にや、幾程無くして、御代につき給ひにけり。さても、北条の四郎時政がもとに御座せし也。一向彼を打ち頼み、年月を送り給ふ。
 又、彼の時政に、娘三人有り。一人は、先腹にて、二十一なり。二、三は、当腹にて、十九、十七にぞなりにける。中にも、先腹二十一は、美人の聞こえ有り。殊に父、不便に思ひければ、妹二人よりは、すぐれてぞ思ひけり。然る程に、其の頃、十九の君、不思議の夢をぞ見たりける。例へば、何処とも無く、高き峰に上り、月日を左右の袂にをさめ、橘の三つなりたる枝をかざすと見て、思ひけるは、男子の身なりとも、自らが、月日を取らん事有るまじ、ましてや、女の身として、思ひもよらず、誠に不思議の夢なり、姉御は知らせ給ふべし、問ひ奉らんとぞ、急ぎ朝日御前の方に移り、こまごまと語り給ふ。姉二十一の君、詳しく聞きて、「誠にめでたき夢なり。我等が先祖は、今に観音を崇め奉る故、月日を左右の袂にをさめたり。又、橘をかざす事は、本説めでたき由来有り」とて、景行天皇の御事をぞ思ひ出だしける。抑、橘と言ふ木実の始まりは、「仁王十一代の御門垂仁天皇の御時よりぞ出で来ける」と、日本紀は見え、然るに、此の橘は、常世の国より、三参らせたり。折節、后懐妊し、彼の橘を用ひ給ひて、懐胎の悩み絶えて、御心すずしかりけり。然れば、斯様の物も有りけるよと、朝夕願ひ給へ共、我が国に無き木実也ければ、力無し。此処に、間守と言ふ大臣有り、此の願ひを聞き、「安き事なり。異国に渡り、取りて参らせん」と言ひて、立ちければ、君、喜び思し召して、「さては、いつの頃に、帰朝すべき」と、宣旨有りければ、「五月には、必ず参るべし」と申して、渡りぬ。其の月をまてども、見えずして、六月になりて、「我は止まりて、人して橘を十参らせ、猶尋ねて参るべし」とて、止まりけれども、橘の参る事を、后、大きに喜び給ひ、用ひ給ふ。其の徳に依りて、皇子御誕生有り。御位を保ち給ふ事、百二十年なり。景行天皇の御事、是なり。其の大臣の袖の香に、橘の移り来たりけるを、猿丸大夫が歌に、五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする と詠みたりけり。我が朝に、たち花うゑ染めける事、此の時よりぞ始まりける。又、橘に、盧橘と言ふ名有り。去年の橘におほひしておけば、今年の夏まで有るなり。其の色、少しくろきなり。「盧」の字を「くろし」とよめばなり。さても、此の二十一の君、女性ながら、才覚人にすぐれしかば、斯様の事を思ひ出だしけるにや。実にも、景行帝、橘を願ひ、誕生有りし事、幾程無くて、若君出で来たり、頼朝の御後を継ぎ、四海を治め奉る。然れば、此の夢を言ひおどして、かひ取らばやと思ひければ、「此の夢、返す返す恐ろしき夢なり。よき夢を見ては、三年は語らず。悪しき夢を見ては、七日の内に語りぬれば、大きなるつつしみ有り。如何すべき」とぞおどしける。十九の君は、偽りとは思ひもよらで、「さては、如何せん。よきにはからひてたびてんや」と、大きに恐れけり。「然れば、斯様に、悪しき夢をば転じかへて、難を逃るるとこそ聞きて候へ」「転ずるとは、何とする事ぞや。自ら心得難し。はからひ給へ」と有りければ、「然らば、うりかふと言へば、逃るるなり。うり給へ」と言ふ。かふ者の有りてこそ、うられ候へ、目にも見えず、手にも取られぬ夢の跡、現に誰かかふべしと、思ひわづらふ色見えぬ。「然らば、此の夢をば、童かひ取りて、御身の難をのぞき奉らん」と言ふ。「自らがもとより主、悪しくとても、恨み無し。御為悪しくは、如何」と言ひければ、「然ればこそ、うりかふと言へば、転ずるにて、主も自らも、苦しかるまじ」と、誠しやかにこしらへければ、「然らば」と喜びて、うり渡しけるぞ、後に、悔しくは覚えける。此の言葉につきて、二十一の君、「何にてかかひ奉らん。もとより所望の物なれば」とて、北条の家に伝はる唐の鏡を取り出だし、唐綾の小袖一重ね添へ渡されけり。十九の君、なのめならずに喜びて、我が方に帰り、「日頃の所望適ひぬ。此の鏡の主になりぬ」と喜びけるぞ、愚かなる。此の二十一の君をば、父殊に不便に思ひければ、此の鏡を譲りけるとかや。然る程に、佐殿、時政に娘数多有る由聞こし召し、伊東にてもこり給はず、上の空なるもの思ひを、風の便りにおとづればやと思し召し、内々人に問ひ給へば、「当腹二人は、殊の外悪女なり。先腹二十一の方へ、御文ならば、賜はりて参らせん」と申しける。伊東にて物思ひしも、継母故なり。如何にわろくとも、当腹をと思し召し定められて、十九の方へ、御文をぞ遊ばしける。藤九郎盛長は、是を賜はりて、つくづく思ひけるは、当腹共は、事の外悪女の聞こえ有り、君思し召し遂げん事有るべからず、北条にさへ、御仲違はせ給ひては、いづかたに御入り有るべき、果報こそ、劣り奉るとも、手跡は、如何でか劣り奉るべきとて、御文を二十一の方へとぞかきかへける。さて、少将の局して、参らせたりけり。姫君御覧じて、思し召し合はする事有り、此の暁、白き鳩一つ飛び来たりて、口より金の箱に文を入れてふき出だし、童が膝の上におき、虚空に飛びさりぬ、開きて見れば、佐殿の御文なり、急ぎ箱にをさむると思へば、夢なり、今現に文見る事、不思議さよと思し召して、打ち置きぬ。其の後、文の数重なりければ、夜な夜な忍びて、褄をぞ重ね給ひける。かくて、年月送り給ふ程に、北条の四郎時政、京より下りけるが、道にて此の事を聞き、「ゆゆしき大事出で来たり。平家へ聞こえては如何ならん」と、大きに騒ぎ思ひけり。さりながら、静かに物を案ずるに、時政が先祖上総守なほたかは、伊予殿の関東下向の時、聟に取り奉りて、八幡殿以下の子孫出で来たり、今に繁昌、年久し。
 斯様の昔を案ずるに、悪し様にはあらじと思ひけれども、平家の侍に、山木の判官兼隆と言ふ者を同道して下しけり。道にて、何と無き事のついでに、「御分を時政が聟に取らん」と言ひたりし言葉の違ひなば、「源氏の流人、聟に取りたり」と訴へられては、罪科逃れ難し、如何せんと思ひければ、伊豆の国府に着き、彼の目代兼隆に言ひ合はせ、知らず顔にて、娘取り返し、山木の判官にとらせけり。然れども、佐殿に契りや深かりけん、一夜をもあかさで、其の夜の内に、逃げ出でて、近く召し使ひける女房一人具して、深き叢を分け、足に任せて、あしびきの山路を越え、夜もすがら、伊豆の御山に分け入り給ひぬ。ちぎりくずちは、出雲路の神の誓ひは、妹背の中は変はらじとこそ、守り給ふなれ。頼む恵みのくちせずは、末の世掛けて、諸共に住みはつべしと、祈り給ひけるとかや。
 さて、佐殿へ秘かに人を参らせ、かくと申させ給ひしかば、鞭を上げてぞ、上り給ひける。目代は尋ねけれども、猶山深く入り給ひければ、力及ばず、北条は、知らず顔にて、年月をぞ送りける。伊東が振舞ひには代はりたるにや、果報の致す所なり。

■『曽我物語』(国民文庫本)
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■概要


 兵衛権佐殿(源頼朝)が、将軍になった時、御家人では伊東氏と北条氏が双璧を成していたが、伊東氏は滅び、北条氏は栄えた。

 ━━その理由とは?

 源頼朝は、13歳の時に伊豆国に流され、伊東館(伊東市)の「北の小御所」で軟禁された。この時、伊東次郎(伊東祐親。平清盛の嫡男・重盛の家人)には、4人の娘がいた。長女は三浦義澄室、次女は工藤祐経室であったが、土肥実平室となった。三女と四女は未婚で、三女・八重姫は美人であった。
 源頼朝は、八重姫と逢瀬を重ね、遂に長男・千鶴丸を儲けた。
 千鶴丸が3歳になった春頃、任期3年の大番役(京都御所の警固)を終えた伊東祐親が京から戻ってきて、庭で遊ぶ千鶴丸を見た。伊東祐親が「誰じゃ?」と尋ねると、「源頼朝と八重姫の子・千鶴丸だ」という。伊東祐親は、「今のご時勢、源氏の流人を婿に取り、平家に咎められては、どうなることか。『毒虫は頭を踏み潰して脳を取り、敵の子孫は胸を裂いて胆を取れ』と言い伝えられておるものを」と怒り、家来を呼び寄せ、千鶴丸を轟ヶ淵(とどろきがふち)に柴漬け(柴で包んで縛り上げ、錘をつけて水に沈める殺害方法)にして殺害した。
 伊東祐親は、八重姫を取り返して江間小四郎(後の北条義時。『吾妻鏡』に「北条」よりも「江間」として多く登場するのは北条氏に対する忖度だという)に嫁がせた。さらに源頼朝を討つべく家来をさし向けたが、源頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた工藤祐親の次男・工藤祐清が源頼朝に身の危険を知らせると、源頼朝は、馬を走らせて熱海の伊豆山神社に逃げ込み、さらに、工藤祐清の烏帽子親である北条時政の下に逃れた。
 北条時政には、娘が3人いた。1人は、先妻の子で21歳の政子で、美人であった。現在の妻との間に17歳と19歳の娘がいた。北条館の「東の小御所」で暮らすようになった源頼朝は、北条時政の長女・北条政子と結ばれた。
 結果論ではあるが、北条氏が栄えたのは、北条政子と山木兼隆を離縁させて源頼朝と結婚させ、源頼朝が平家を倒して将軍になったからである。伊東祐親が伊東八重と源頼朝の結婚を認めていれば、千鶴丸が2代将軍となり、伊東氏の方が栄えたであろう。

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