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未発表記事 明智光秀の家紋と軍旗

 謀反人・明智光秀の遺物は全て焼かれたので、家紋や軍旗の実物は存在せず、詳細は不明であるが、次の3つの系図をもとに、考察してみたい。

①玄琳「明智系図」(以下「明智系図」)
②『明智氏一族宮城家相伝系図書』(以下「宮城系図」)
③『明智氏血脈山岸家相伝系図書』(以下「山岸系図」)

■『森本景一の家紋研究』「家紋用語集」
定紋(じょうもん)
家紋は家の印。一家に一家紋というのが原則であったが、主人筋から賜ったり、敵方から奪い取るなどで、一家でも2つ以上用いるという例も少なくなかった。そこで名字を代表する紋を決めておく必要があった。これが定紋である。その他の紋は替え紋と呼ばれた。
別名:表紋、本紋、正紋
本紋(ほんもん)
定紋の事。
替え紋(かえもん)
主人筋から賜ったり、敵方から奪い取るなど、家紋を数多く持つ事が権力の象徴となった頃、家を代表する家紋として国に届けたものを定紋とし、それ以外を替え紋と呼び、非公式に用いられていた。
「裏紋」「別紋」「控え紋」「副紋」などと言った呼び名もある。
陰紋(かげもん)
白抜きされた紋場に複線の上絵で紋章を表す。
家紋の表現方法で、日向(ひなた)を公式とし陰を略式、または地色との兼ね合いで用いられたり、女紋としても活用される。
総陰(そうかげ)、細中陰(ほそちゅうかげ)、中陰(ちゅうかげ)、太中陰(ちゅうかげ)などがある。
http://www.omiyakamon.co.jp/kamon/dictionary/index.html

1.家紋

(1)本紋

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 土岐明智氏は源氏であるので、本紋(「定紋」ではなく、「本家の紋」)は「笹竜胆」、肖像画の紋は「蔭笹竜胆」だと思われる。
 ところが、肖像画をよく見ると、花が簡略化されている。実は花ではなく、降り積もった雪であり、「雪持ち笹」、もしくは「杵築笹」だという。また、○は日と月である。雪、笹、日、月も塗りつぶされていない「蔭」である。「変り蔭雪持ち笹に蔭日月紋」とでも言おうか。

 「山岸系図」には「家本紋、三階門の中に日月」とある。「三階門」は聞いた事がない。「三階紋」の誤りだろう。「三階笹」は聞いた事がないが、「三階菱」「三階松」「三階笠」は有名である。
 家紋は約25000種あるというが、似た発想の家紋といえば、天野氏の「三階松に三日月」紋くらいか。

 「宮城系図」や「山岸系図」では、明智光秀は明智氏ではなく、山岸氏(藤原南家乙麿流。本貫地は福井県坂井市三国町山岸)だとするが、山岸氏の家紋は「丸に木瓜」「五瓜に唐花」「丸に蔦」「丸の内に二つ引」紋である。(明智光秀は、浪人時代、乳母・竹の案内で、称念寺(時宗の長崎道場)前の長崎城(福井県坂井市丸岡町長崎)にいたという。本貫地の近くである。親類がいたのかもしれない。)

(2)定紋


 土岐明智氏は土岐氏の分家であるので、定紋は「桔梗」だと思われる。

・遠祖・源頼光
・土岐氏初代・土岐光衡
・明智氏初代・明智頼重(頼兼)

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■桔梗紋の由来

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■『見聞諸家紋(写)』
土岐 頼光(童名・文珠〔殊〕丸)正四位下摂津守
頼光四世孫・国房之末孫。国房、頼政之叔父也。
桔梗。但、幕者、無紋水色。
土岐氏木〔本〕出千〔于〕汀〔源〕姓故、其紋者、一変白色乃以為白、水。
昔時、唯用鳥〔焉〕是亦所以貴、其先也。後、有野合戦時、取桔梗花挟て〔于〕其冑以得利矣。為之例。遂置之水色之中以為之実〔定〕紋也。
然、不記其年月、又、不知其何人始而為之。源頼光未〔末〕裔用之為、其説哲所聞以書之。

※最古の家紋集は『見聞諸家紋』(寛正元年(1460年)発行)だとされるが、原本が未発見である。写本は、享保元年(1716年)の新井白石編が有名。この写本は家紋が手書きで、本文も誤写(〔〕内が正)が多い。
https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M1000000000000051051.html

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頼光 四世孫。国房之末。国房者、頼政之叔父也。童名・文珠丸。正四位下摂津守、鎮守府将軍。
桔梗。但幕者無紋水色。
土岐氏本出于源姓故、其紋者一変白色乃以為水色。昔時、唯用焉是又以貴、其先也、後也、有野戦時、取桔梗花挿于其冑以得利矣。因為之例。遂置之水色之中以為之定紋也。
然、不記其年月、又、不知其何人始而為之。源頼光為紋、末裔用之故、不得堅取其説。暫依其所聞以書写而已。

 清和天皇─貞純親王─経基─満仲─頼光─頼国┬頼綱─仲政─頼政
                      └国房…┬頼基
                        └土岐光衡

(【大意】家紋は桔梗。ただし、幕は紋が無い水色の布である。
 土岐氏は、元々源氏であるので、白色(平家は紅色)であるが、突然、水色に変わった。これは、ある時の野戦の時、桔梗の花を兜の前立に挿して戦ったところ、利を得たことから、桔梗紋を家紋として採用した前後からだという。
 しかし、桔梗を定紋に、いつ、誰がしたかは分からない。(上掲「宮城系図」の源頼光の家紋は桔梗紋である。)「源頼光が桔梗を定紋にした」と末裔が言っているが、その説は採り難い。(史実が分かるまで)暫く、『見聞諸家紋』を書き写しておくのみ。)
⇒史実は、源頼光ではなく、土岐光衡だという。

 土岐氏(美濃源氏)は、清和源氏の一流で、平安時代末に美濃国土岐郡に土着して郡名を氏名とした。「土岐」は鳥の「鴇」(トキ)ではなく、植物の「岡止々支」(オカトトキ)で、「土岐」は岡止々支(今の桔梗)が群生して咲き誇る土地だったようである。
①土岐氏初代・土岐光衡は、ある戦の時、野に咲く水色の桔梗の花を兜の前立に挿して戦ったところ、大勝利を得たことから、桔梗は縁起のいい花だとして、桔梗紋を家紋として採用したという。(美濃源氏発祥之地・土岐氏一日市場館跡(岐阜県瑞浪市土岐町一日市場)の土岐光衡像は桔梗を手にしている。)
②「桔梗」の木へんを取り除くと「更吉(さらによし)」となるので、桔梗は縁起のいい花だとして、桔梗紋を家紋として採用したという。

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①「明智系図」:「家之紋、水色桔梗華」(家の紋は、水色の桔梗の花)
②「宮城系図」:「家の定紋、蔭の桔梗。替紋、丸の内に橘」
③「山岸系図」:「定紋、蔭の桔梗、替紋、丸の内に橘也」

 桔梗には色々あるが、個人的に桔梗といえば紫で、水色ではない。
 紫は高貴な色であるが、紫貝とか、染料が高価なようだ。

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「丹波八上高城山合戦図」(拠旗:白地に黒の桔梗3つ)

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「山崎合戦図屏風」(青地に黒の桔梗1つ、黒の一引。紋は黒の桔梗)

明智光秀の家紋は「水色桔梗」で、
・白地に水色で染付けした水色の桔梗紋
・水色の地に染め抜きした白色の桔梗紋
の2種類があったという。 『常山奇談』の「本能寺の変」の描写に、壁の外に水色の旗が見えたとあるのは、「山崎合戦図屏風」の青地の幟のことか?

■大野信長『戦国武将100 家紋・旗・馬印FILE』
本能寺の変で明智勢の謀反を演出した水色桔梗の旗は、有名な旗のひとつだ。ただ、「水色地の旗」か「水色紋の旗」は説が分かれる。美濃土岐氏について「旗は白地に水色桔梗」「水色の旗を指して」と、どちらの記述も残るからだ。

 土岐家の分家は120家以上。全部の家が桔梗紋を使ったので、戦場では区別できない。そこで明智家は水色にしたという。「水色桔梗」は、家紋というよりも旗紋で、戦場で目立つようにしたというのだ。
 「山岸系図」には「替紋、丸の内に橘也」「四手橘の指物」とある。つまり、家紋は桔梗であるが、戦場では、他の土岐一族と区別するために替紋の「丸に橘」を使ったということである。ところが、合戦絵図を見ると、どれも桔梗紋である。また、合戦絵図には幟のみで、馬印が描かれていない。

2.軍旗


 軍旗については、「山岸系図」に次のようにある。

家の旗は、水色練三。幅、長一丈二尺。一文字。紅。定紋一つ。白し。
大馬印、金の桔梗に白紙の四手孤綾。
笠符、水色練、四半。
四手橘の指物。
小招き、傘形。

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 家の旗については、大野信長『戦国武将100 家紋・旗・馬印FILE』には「馬印か」として白地に黒の定紋1つの旗が掲載され、「白地の四方旗は白黒写真しか資料が手元になく、所蔵先その他は一切未詳である。旗地・旗紋の色、大きさも推定である」とある。「白地の四方に黒の桔梗」は、旗ではなく、「山崎合戦図屏風」の幕の写真か?

 「山岸系図」によれば、水色の練布(精練して(練って)しなやかにした布)で四方(正方形。縦横共に1丈2尺(約364cm))で「一文字」(徳川家康なら「伍」、武田勝頼なら「大」)と、紅地に白抜きの定紋1つ。紅地の旗は、「明智左馬之介湖水渡」の旗(四方。紅地に白色の桔梗1つ)である。「小馬印」か。

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 馬印については、『総見公武鑑』の「織田信長の八角将」の「惟任光秀」に「白カミノシテシナイ」とある。
 大馬印については、『森家先代実録』の「本能寺の変」の描写に、早くも書院の壁外には、明智光秀の水色の旗奉行、白紙四手の馬印が押し寄せているとある。
 「白紙四手」の「四手」は「(注連縄に垂らす)紙垂」(注連縄は雲で、紙垂は雷だという)である。『総見公武鑑』の「シナイ」は、竿の「撓」、「山岸系図」の「金の桔梗に白紙の四手孤綾」の「孤綾」は、竿の「孤綾紋」であろう。

■八切止夫『信長殺し、光秀ではない』
 さて当時の慣習では、主人が存在することを示すためには馬印をたてる、そして相手方に対してその責任の有無をはっきりさせる筈であり、これが定法である。そこで〈明暦版の「御馬印武鑑」〉によると、
「あけち、ひうかのかみ」は「白紙たて一枚に切れ目を入れた旗もの」とある。
 これが〈総見公武鑑〉にいうところの、
「白紙のしでしない」である。
 これは神棚にあげる神酒の壺にさす、鳥の羽の片側のような物。つまり白紙の左耳を袋にして竿に通し、右側に切れ目をずうっと入れ、風にはためくようにしたもので、風圧をうけるから貼り合わせなしの一枚ものである。
(中略)
〈高橋賢一の「旗指物」〉によると、
「水色に桔梗の紋をつけたる九本旗。四手しなえの馬印。つまり旗の方は『水色桔梗』といって、紋自体が青い水色をもち、むろん旗の地色も水色だった。これは『明智系図』といって、光秀の子で仏門へ入った玄琳が、父の五十回忌に編したものに出ているので間違いない」とある。
https://blog.goo.ne.jp/reiwanihonshi/e/989d8448ff6de7027a3dce4c25e5e58f

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■大野信長『戦国武将100 家紋・旗・馬印FILE』
馬印の「白紙のしでしない」は白い紙製の四手(細かい切裂)で象られた撓旗だろう。撓旗とは上部の横竿を廃し、縦竿も軟らかめの素材を用いた旗で、風を受けても撓って力を逃がし、折れにくいように工夫されている。

 笠符(かさじるし。笠に挿頭した目印(四半(しはん。長方形)の布))は水色の練布。『太平記』の「(土岐悪五郎は)水色の笠符吹流させ」が初見。

■『太平記』(巻31)「八幡合戦事付官軍夜討事」
土岐悪五郎は、其の比天下に名を知れたる大力の早わざ、打物取て達者也ければ、卯の花威の鎧に鍬形打て、水色の笠符吹流させ、五尺六寸の大太刀抜て引側め、射向の袖を振かざいて、遥に遠き山路を只一息に上らんと、猪の懸る様に、莞爾笑上りける

 指物(背中の受筒に差して使う旗)は、橘に四手。

 小招き(旗の上部にもう1つ付けた小型の旗)には傘が描かれている。「明智左馬之介湖水渡」の旗の小招きの絵は交差する傘か?鷹の羽か?

※参考:『戦国武将「肖像・家紋」大辞典』「明智光秀」
http://blog.livedoor.jp/jidai2005/archives/24038305.html



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