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小林秀雄『実朝』 に見る源実朝横死事件

「吾妻鏡」は、実朝横死事件を簡明に記録した後で、次の様に記している。
「抑今日の勝事、兼ねて変異を示す事一に非ず。所謂、御出立の期に及びて、前大膳大夫入道参進して申して云ふ、覚阿成人の後、未だ涙の顔面に浮ぶことを知らず、而るに今昵近奉るの処、落涙禁じ難し、是直也事に非ず、定めて子細有る可きか、東大寺供養の日、右大将軍の御出の例に任せ、御束帯の下に腹巻著けしめ給ふ可しと云々、仲章朝臣申して云ふ、大臣大将に昇るの人、未だ其式有らずと云々、仍つて之を止めらる、又公氏御鬢に候するの処、自ら御鬢一筋を抜き、記念と称して之を賜はる、次に庭の梅を覧て禁忌の和歌を詠じ給ふ、
  出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
 次に南門を御出の時、霊鳩頻りに鳴き囀り、車より下り給ふの刻、雄剣を突き折らると云々」(承久元年正月廿七日)(龍粛氏訳)
「吾妻鏡」には、編纂者等の勝手な創作にかかる文学が多く混入していると見るのは、今日の史家の定説の様である。上の引用も、確かに事の真相ではあるまい。併し、文学には文学の真相というものが、自ら現れるもので、それが、史家の詮索とは関係なく、事実の忠実な記録が誇示する所謂真相なるものを貫き、もっと深いところに行こうとする傾向があるのはどうも致し方ない事なのである。深く行って、何に到ろうとするのであろうか。深く歴史の生きている所以のものに到ろうとするのであろうか。とまれ、文学の現す美の深浅は、この不思議な力の強弱に係わるようである。「吾妻鏡」の文学は無論上等な文学ではない。だが、史家の所謂一等史料「吾妻鏡」の劣等な部分が、かえって歴史の大事を語っていないとも限るまい。
 大江広元は、異変の到来を知っていたと言う。義時は、前の年に予感したという。
「御夢中に、藥師十二神将の内、戌神御枕上に來りて曰く、今年は神拝無事なり。明年拝賀の日は、供奉せしめ給ふ莫かれ者、御夢覚むるの後、尤も奇異をたり、且は其意を得ずと云々」(建保六年七月九日)。拝賀の当日、彼は「俄かに心神御違例」という理由で、仲章に代参させ、仲章は殺された。誰も義時の幸運を信ずるものはあるまい。公暁は、首を抱えて、雪の中を、後見備中阿闍梨の宅に走り、飯を食った。「膳を羞むるの間、猶手に御首を放たず」とあるのは目に見える様だが、その後は、怪しげになる。彼は早速、三浦義村に使を走らせ、「今将軍の闕有り、吾專ら東関の長に当るなり、早く計議を廻らすべきの由」を言い遣る。これは殆ど予ての計画通り事をはこんだ人の当然の報告の様に受取れ、義村を信じ切った公暁の姿が、よく出ていると言えばよく出ている。と思うと、急に、何故公暁は義村に報告したかを訝る様な曖昧な筆致となり、「是義村の息男駒若丸、門弟に列るに依りて、其好を恃まるるの故か」と書いている。実朝殺害は、公暁の出来心でもなかったし、全く意外な事件でもなかった。彼は、長い間、何事か画策するところあり、果ては、人々、その挙動を怪しむに至った事は、当の「吾妻鏡」が記している(建保六年十二月五日)。公暁は、義村が御迎えを差し上げると偽り、討手を差向けたとは露知らず、待ち兼ねて義村宅に出向く途路、討手に会し、格闘して殺された。公暁の急使に接した義村の対応ぶりを叙したところも妙な感じのする文章である。「義村此事を聞き、先君の恩化を忘れざるの間、落涙數行、更に言語に及ばず。少選して、先づ蓬屋に光臨有る可し、且は御迎の兵士を献ず可きの由之を申す」。大雪の夜の椿事に、諸人惘然としているなかで、義村が演じねばならなかった芝居を描くのに「吾妻鏡」編者の頬被りして素知らぬ顔した文章がまことによく似合っている。文章というものは、妙な言い方だが、読もうとばかりしないで眺めていると、いろいろな事を気付かせるものである。書いた人の意図なぞとは、全く関係ない意味合いを沢山持って生き死にしている事がわかる。北条氏の陰謀と「吾妻鏡」編者等の曲筆とは、多くの史家の指摘しているところで、その精細な研究について知らぬ僕が、今更かれこれ言う事はないわけであるが、ただ、僕がここで言いたいのは、特に実朝に関する「吾妻鏡」編者等の舞文潤飾は、編者等の意に反し、義時の陰謀という事実を自ら臭わしているに止まらず、自らもっと深いものを暗示しているという点である。
 広元は知っていたと言う。義時も知っていたと言う。では、何故「吾妻鏡」の編者は実朝自身さえ自分の死をはっきり知っていたと書かねばならなかったか。そればかりではない。今日の死を予知した天才歌人の詠には似付かぬ月並みな歌とは言え、ともかく一首の和歌さえ、何故、案出しなければならなかったか。そういう考え方も、勿論、出来るわけだろう。実朝の死には、恐らく、彼等の心を深く動かすものがあったのである。「出でていなば」の辞世は、「大日本史」にも引かれ、今日では、実朝秀歌の一つとして評釈さえ現れているが、僕には、実朝が、そんな役者とはどうも考えられない。「吾妻鏡」編者達の、実朝の横死に禁忌の歌を手向けんとした心根を思ってみる方が自然であり、又、この歌の裏に、幕府問注所の役人達の無量の想いを想像してみるのは更に興味ある事である。
 鶴岡拝賀の夜の無慙な事件が、どんなに強く異様な印象を当時の人々に与えたか、それを想像してみるのは難かしい。それは、現代に住む僕等が、どんなに誇張して考えようとも、誇張し過ぎるという様な事はまずないものと知らねばならぬ。事件の翌日、百余人の御家人達が、出家を遂げた。「吾妻鏡」には、「薨御の哀傷に堪へず」とあるが、勿論、簡単なのは言葉の上だけであり、彼等の心根には容易に推知を許さぬものがあったであろう。首のない実朝は、彼等の寝所の枕上に立ったかも知れないのである。「吾妻鏡」編者等にしても、彼等からそう隔った世代に生きていたわけではない。実朝の詩魂については知るところはなかったにしても、この人物の当時の歴史に於ける象徴的な意味合いは、口には説明は出来なくても、はっきりと感得していた筈である。義時の為にした曲筆が、実朝の為にした潤色となり終ったのも、彼等の実朝に対する意識した同情という様な浅薄なものが原因ではない。原因は、もっと深い処にかくれて、彼等を動かしていた。僕は、それをはっきりした言葉で言う事が出来ない。併し、そういう事を思い乍ら、実朝の悲劇を記した「吾妻鏡」の文を読んでいると、その幼稚な文体に何か罪悪感めいたものさえ漂っているのを感じ、一種怪しい感興を覚える。僕の思い過ごしであろうか。そうかも知れない。どちらでもよい。僕は、実朝という一思想を追い求めているので、何も実朝という物品を観察しているわけではないのだから。

※「小林秀雄『実朝』」

※「源実朝殺人事件『吾妻鏡』」
https://note.com/sz2020/n/n4c71f7785ff3


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