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Recoの君語り ー『光る君へ』(第26回)「いけにえの姫」ー

 主人公は紫式部。 平安時代に、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書き上げた女性。彼女は、藤原道長への思い、そして、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏=光る君のストーリーを紡いでゆく。
 変わりゆく世を、変わらぬ愛を胸に懸命に生きた女性の物語。(NHK)


第一部「青春篇」
康保  3年(966年)     藤原道長、生まれる。
天禄元年(970年)?    紫式部、生まれる。
寛和  2年(986年)6月23日 「寛和の変」(花山天皇の退位と出家)
               一条天皇(7歳)即位
寛和  2年(986年)      「庚申待ちの夜」
第二部「関白争奪篇」
永祚  2年(990年)  7月  2日 藤原兼家、死去。
正暦  4年(993年)  7月29日 源倫子の父・源雅信、死去。享年74。
長徳元年(995年)  4月10日 藤原道隆、病没。享年43。
長徳元年(995年)  5月  8日 「七日関白」藤原道兼、病没。享年35。
長徳元年(995年)  6月19日 藤原道長、右大臣に転任し藤原氏長者宣下。
長徳元年(995年)  8月下旬 朱仁聡、林庭幹ら70余人が若狭国に来航。
長徳  2年(996年) 1月28日 藤原為時、越前守に就任。
長徳  2年(996年) 5月  1日 藤原隆家、捕らえられ出雲国へ左遷。
長徳  2年(996年) 5月15日 藤原伊周、播磨国へ左遷。母の同行不可。
長徳  2年(996年)夏    「月夜の逢瀬」
第三部「越前篇」
長徳  2年(996年)夏     藤原為時&紫式部、越前国へ。
長徳  2年(996年) 10月   高階貴子、死没。
長徳  2年(996年) 12月16日 藤原定子、脩子内親王を出産。
長徳  3年(998年)   1月?  藤原宣孝、紫式部に求婚。
長徳  3年(997年)  4月  5日 東三条院の病気の平癒を願って大赦を執行。
長徳  3年(997年)  4月21日 藤原隆家、大赦で帰京。
長徳  3年(997年)  6月22日 藤原定子、職御曹司へ入る。
長徳  3年(997年)      紫式部、帰京。
長徳  3年(997年)  12月   藤原伊周、大赦で帰京。
第四部「結婚生活篇?」
長徳  4年(998年) 3月3日  藤原道長、腰痛で辞官を請う。(『権記』)
長徳  4年(998年)3月~4月  京都で火事が多発。
長徳  4年(998年)6月~7月  京都で麻疹が大流行。
長徳  4年(998年)  8月27日     藤原宣孝、山城守に就任。(『権記』)
長徳  4年(998年) 9月1日     大雨で、鴨川が氾濫。(『権記』)
長徳  4年(998年) 晩秋(ドラマでは9/30?)紫式部、藤原宣孝と結婚。
長徳  4年(998年)  10月  1日     日食と大地震(『権記』)
長徳  5年(999年)  1月13日  「長保」に改元。
長保元年(999年)  2月  9日  藤原彰子、裳着の儀(『御堂関白記』)
長保元年(999年)  2月末日頃  『枕草子』「二月のつごもりごろに」
長保元年(999年) 「石山寺の夜」
・・・・・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長保元年(999年)       紫式部,、藤原賢子(大貳三位)を出産
長保元年(999年)  11月  7日 藤原定子、敦康親王を出産
                藤原彰子、入内
長保  2年(1000年)12月15日 藤原定子、媄子内親王を出産
長保  2年(1000年)12月16日 藤原定子、死没。享年25。
長保  3年(1001年)  4月25日 藤原宣孝、病没。享年不明。
第五部「『源氏物語』篇?」
長保  3年(1001年) ? 『源氏物語』(全54帖)執筆開始
長保  3年(1002年)閏12月22日 藤原詮子、死没。享年40。
長保  6年(1004年)  7月20日 「寛弘」に改元。
寛弘  2年(1005年)  9月26日 安倍晴明、死没。享年85。
寛弘  5年(1008年)  2月  8日 花山法皇、崩御。享年41。
寛弘  5年(1008年)  『源氏物語』、「源氏物語絵巻」として絵画化
寛弘  7年(1010年)  1月28日 藤原伊周、死没。享年37。
寛弘  8年(1011年)  2月  1日 藤原為時、越後守に就任。
寛弘  8年(1011年)        藤原惟規、越後国で死没。享年38?
寛弘  8年(1011年)  6月22日 一条天皇、崩御。享年32。
寛弘  9年(1012年)12月25日 「長和」に改元。
長和  3年(1014年)  6月17日 藤原為時、任期を残して越後守を辞任。
長和  5年(1016年)  4月29日 藤原為時、三井寺で出家。
第六部「終活篇?」
長和  6年(1017年)  4月23日 「寛仁」に改元。
寛仁  2年(1018年) 10月16日 藤原道長の3女・藤原威子が立后。
                 藤原道長、「この世をば…」と詠む。
寛仁  5年(1019年)  2月  2日 辛亥革命により「治安」に改元。
治安  4年(1024年)  7月13日 「万寿」に改元。
万寿  2年(1025年)?    清少納言、死没。享年61?
万寿  4年(1027年)12月  4日 藤原道長、病没。享年62。
万寿  5年(1028年)  7月25日 「長元」に改元。
長元  2年(1029年)? 藤原為時、死没。享年81?
長元  4年(1031年)? 紫式部、死没。享年62?
永承元年(1046年)1月18日 藤原実資、死没。享年90。
永保  2年(1082年)? 藤原賢子、死没。享年84?

※7月7日(日)「都知事選開票速報」のため放送休止。
※8月11日(日)「パリオリンピック」のため放送休止。

 このドラマの最終回が見えない。
 とにかく、肉体関係ありのソウルメイト・藤原道長と、父・藤原為時は長生きで、紫式部は、2人よりも早く亡くなったと思われる。(紫式部の死亡年説は、1014年説~1031年説まで様々。ドラマでは紫式部1031年死亡説が採用される? 紫式部と仲が良かったという藤原実資は、永承元年(1046年)まで生きている。もっと紫式部について書き残して欲しかった。)
 私が脚本家なら、1014年死亡説を採用し、死を感じた紫式部が藤原賢子に「あなたの本当の父親は藤原道長よ」と告白し、藤原賢子が藤原道長を連れてきて、2人に看取られて死ぬシーンで終わらせるかな。 

<紫式部の墓> ※和泉式部の墓に比べたら数が少ない。
・京都府京都市北区紫野西御所田町
・兵庫県神戸市
・栃木県下野市紫
・千葉県南房総市
・千葉県館山市那古


【今回のあらすじ】

 災害が続く都をまたも大地震が襲った。まひろ(後の紫式部。吉高由里子さん)は、夫となった藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)の財で家を修繕し、生計を立てていた。
 藤原道長(柄本佑さん)は、安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)から、「この天変地異を治めるためには藤原道長の娘・藤原彰子(見上愛さん)を入内させるしかない」と進言される。心労から体調を崩した一条天皇(塩野瑛久さん)は、「譲位して藤原定子(高畑充希さん)と暮らしたい」と藤原行成(渡辺大知さん)に相談。それを聞いた藤原道長はとめた。
 まひろは、夫・藤原宣孝が自分が出した手紙を他人に見せていることを怒り、石山寺へ。そして、そこで偶然にも藤原道長と出逢う。もしかして藤原賢子(紫式部の娘)の父親は・・・?

【サブタイトル】
 「いけにえの姫」とは、藤原道長の娘・藤原彰子のことであった。
 天皇の妻になるとは、これ以上の玉の輿はないわけで、喜ぶはずなのに、「いけにえ」って、これいかに?


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