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『信長公記』にみる「三方ヶ原の戦い」

1.原文と現代語訳

 是者遠州表之事。霜月下旬、「武田信玄、遠州二股之城取巻」之由、注進在之。則、信長公御家老之衆、佐久間右衛門、平手甚左衛門、水野下野守、大将として、御人数、遠州浜松に至、参陣之処に、早、二股之城、攻落し、其競に、武田信玄、堀江之城へ為打回、相働候。

 これは遠江国(静岡県西部地方)のことである。
 11月下旬、「武田信玄が二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)を取り囲んだという報告がきた。それで、織田信長は、家老衆の佐久間信盛、平手汎秀、水野信元を大将とする援軍を遠江国浜松へ送った。しかし、この援軍が浜松に着いた時には、早くも二俣城は陥落しており、その勢いで武田信玄は、堀江城(静岡県浜松市西区舘山寺町堀江)へ回って攻めようとしていた。

 家康も浜松之城より御人数被出、身方が原にて足軽共取合、佐久間、平手 初として懸付、互に人数立合、既に一戦に取向。
 武田信玄、「水股(みずまた)之者」と名付て三百人計、真先にたて、彼等には、つぶてをうたせて、推大鼓を打て、人数かかり来る。一番合戦に、平手甚左衛門、同家臣之者、 家康公の御内衆、成瀬藤蔵、十二月廿二日、身方が原にて数輩討死在之。
 去程に、信長公、幼稚より被召使侯御小姓衆、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨、加賀藤弥三郎、四人、信長公之蒙御勘当、家康公奉頼、遠州に身を隠し居住侯らひし。是又一番合戦に一手にかかり合、手前無比類討死也。

 徳川家康も浜松城から軍勢を出され、三方ヶ原で、足軽たちが戦い始めると、佐久間信盛、平手汎秀らも加わり、互いに対峙して、戦いとなった。
 武田信玄は、「水股の者」と名付けた約300人を先頭にして、石を投げさせ、太鼓をうって進軍した。最初の攻撃で、平手汎秀とその家臣、及び、徳川家康の御内衆の成瀬正義が、12月22日、三方ヶ原で、討ち死にした。
 さて、織田信長の幼少より小姓として使えていた長谷川橋介、佐脇良之、山口飛騨守(実名不明)、加藤弥三郎(実名不明)の四人衆は、織田信長に勘当され、徳川家康を頼って遠江国に隠れ住んでいたのであるが、この戦の緒戦で戦い、見事な討死を遂げた。

 爰に希代之事有様子者、尾州清洲之町人、具足屋玉越三十郎とて、年頃廿四、五之者有。四人衆見舞いとして、遠州浜松へ参侯折節、武田信玄、堀江之城取詰、在陣之時侯。「定て此表可相働侯。左侯はば、可及一戦侯間、早々、罷帰侯へ 」と、四人衆達而異見侯へば、「是迄罷参り侯之処を、はづして罷帰侯はば、以来、口はきかれまじく侯間、四人衆討ち死ならば、同心すべき」と申切、不罷帰。四人衆と一所に切てまはり、枕を並て討死也。

 ここに稀代の事(世にまれな事)が起きた。尾張国清洲の町人で、具足屋を営む玉越三十郎という23、4歳の者がおり、この四人衆(織田信長の元小姓衆の長谷川、佐脇、山口、加藤)の陣中見舞として、遠江国浜松に来た時、武田信玄は、堀江城を取り囲み、在陣していた時であった。「武田軍は、さだめしこの浜松城下へも押し寄せるであろう。そうなれば、われらも一戦に及ぶことになる。早々に清洲に帰りなさい」と意見すると、「ここまで来ておきながら、清洲へ帰れば、今後、口をきくことができなくなるので、四人衆が討死の覚悟ならば、私も共に」と拒否し、清洲へ帰らなかった。こうして四人衆と同じ場所で奮戦し、四人衆と枕を並べて討死した。

 家康公、中筋切り立てられ、軍之中に乱れ入、左へ付て、身方ヶ原のきし道之一騎打を退せられ侯を、御敵、先に待請支へ侯。馬上より御弓にて射倒し、駆抜、御通侯。是ならず、弓之御手柄、不始于今。
 浜松之城堅固に被成御拘。
 信玄者、得勝利、人数打入侯也。

 徳川家康は中央突破を試んで軍の中へ乱れ入り、左に折れ、三方ヶ原の脇の一騎駆けの道を退却していったが、敵は先に待ちうけていた。徳川家康は、馬上から弓を射て敵を倒し、駆け抜けて通った。今回に限らず、徳川家康の弓の手柄は今に始まったことではない。
 徳川家康は、浜松城を堅固に構えた。
 武田信玄は、勝利を得て、軍勢を退却させた。


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