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山崎吉家

「越前山崎氏」には、
・長門守家(越前国に官吏として赴任した藤原氏の末裔)
・佐々木氏系の河内守家
があり、山崎吉家の長門守家は、元は赤松氏の家臣(山崎家伝承では「村上源氏・赤松氏流の末裔」)だったという。

山崎長吉┬新左衛門尉(長門守)吉家(長之)─吉健【絶家】
    ├吉延(吉清)─庄兵衛(長門守)長徳【山崎庄兵衛家】
    ├半左衛門(了清)
    └珠宝坊

※山崎吉家、弟・山崎吉延、嫡子・山崎吉建ら山崎一族は、織田信長との「刀禰坂の戦い」(天正元年(1573年)8月14日)で、殿(しんがり)を務めて討死した。現在の山崎家は、山崎長徳の末裔である。

山崎吉家(?-1573)について、「有名か、無名か」と言えば、「無名に近い」と思われるが、ゲーム「戦国大戦」のキャラ(髪型はトンスラ。『麒麟がくる』での髪型は、ゲーム「信長の野望」の髪型)、4コママンガ『信長の忍び』のキャラ(髪型はアフロ)、そして、2018年に出版された時代小説、赤神諒『酔象の流儀 朝倉盛衰記』(講談社。「酔象」は、朝倉将棋の駒)の主人公として知る人ぞ知る存在である。

「越前の名門、朝倉家で軍奉行を務める朝倉宗滴は、能登撤退戦で15歳の若者と出会う。のちの山崎吉家だ。吉家は敗戦の中で心が壊れ、言葉を失っていた。責任を感じた宗滴は吉家を手元に置き、親子のように接する。だが吉家24歳のとき、実父の謀反が露見し打ち首に。宗滴は所領半分と引き換えに吉家を救う。時が経ち、命の恩人であり父親代わりであった宗滴が病没する。後事を託された吉家は、朝倉家を守ることを固く誓うが……。」(『酔象の流儀 朝倉盛衰記』紹介文)

天文17年(1548年)3月22日、朝倉孝景が、波着寺への参詣の帰りに急死したため、若干16歳の朝倉義景が家督を相続し、朝倉宗滴が後見人となった。

弘治元年(1555年)、「加賀一向一揆攻め」において、朝倉宗滴が陣中で倒れ、一乗谷に帰還し、9月8日に病死すると、宗滴ismの継承者・山崎吉家が表舞台に登場する。早速、朝倉宗滴が担当してきた越後国の上杉氏との交渉役を引き継ぐなど、朝倉氏の外交面で重要な役割を果たした。

足利義昭が一乗谷に来た永禄10年(1567年)、山崎吉家は「年寄衆」(『朝倉邸御成記』)、朝倉氏の滅亡時は「宿老」──ようするに、朝倉義景の家老である。

・永禄8年(1565年)5月19日 「永禄の変」(足利義輝暗殺) 
・永禄8年(1565年)7月28日 足利義昭、興福寺から脱出。和田城へ。
・永禄8年(1565年)11月日 足利義昭、和田城から矢島御所へ
・永禄9年(1566年)7月13日 足利義昭、若狭武田氏に濃尾和睦を伝える。
・永禄9年(1566年)8月22日 織田信長、矢島御所への出陣失敗
・永禄9年(1566年)8月28日 織田信長、美濃国に侵攻
・永禄9年(1566年)9月日 足利義昭、矢島御所から若狭小浜へ
・永禄9年(1566年)9月8日 足利義昭、若狭小浜から越前敦賀へ
・永禄10年(1566年)8月15日 織田信長、美濃国を平定
・永禄10年(1566年)8月日 織田信長、北勢を平定
・永禄10年(1567年)11月21日 足利義昭、敦賀から一乗御所(安養寺)へ
・永禄11年(1568年)7月25日 足利義昭、一乗御所から美濃立政寺へ
・永禄11年(1568年)9月7日 織田信長上洛軍、岐阜城から出陣
・永禄11年(1568年)9月26日 織田信長、足利義昭を奉じて上洛
・永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に
・元亀元年(1570年)1月23日 織田信長「五ヶ条の条書」
・元亀元年(1570年)4月20日 織田信長、越前国に侵攻
・元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
・天正元年(1573年)8月20日 朝倉義景、一乗谷を攻められ、大野で自刃
(注)月日は史料により、数日のずれがある。

 永禄8年(1565年)5月19日、三好勢が足利義輝を暗殺すると、興福寺の覚慶(足利義輝の弟。後の足利義昭)は、江南(近江国甲賀郡)の和田城を経て江南の矢島御所(守山)へ。(この時、明智光秀は、田中城に詰めたという。一説に、明智光秀の正室(前室)は田中城主の娘だという。)
 足利義昭は矢島御所で、多くの御内書(入洛時の供奉要請書)を出した。(その御内書の裏に『針薬方』。)入洛供奉の要請に、尾張国の織田信長は「美濃国の斉藤竜興と戦ってるから無理」と返事をすると、足利義昭は濃尾和睦を命じた。ところが、「斉藤竜興が六角承禎と結び、織田信長のいない尾張国を斉藤竜興が、上洛中の織田信長を路次で六角承禎が襲う」という密告があったので、織田信長は、第1次上洛をやめ、美濃国へ侵攻した。
 足利義昭は、「江南の矢島御所では、京都の三好氏や、三好氏と結んだ江南の六角氏に襲われる」と考え、深夜、船で琵琶湖を渡り、若狭国小浜へ入るるが、若狭武田家では内乱が起こっていて、とても上洛供奉は出来そうになかったので、越前朝倉氏に上洛供奉を頼むと、越前国敦賀に留まるよう指示された。(一説に、「足利義昭が自分の意志で敦賀に留まり、上杉氏の出陣を待った」という。)上杉氏も上洛供奉は出来そうになかったので、雪が降り積もる前に一乗御所(安養寺)へ移った。そして、織田信長が第2次上洛の供奉をすることになり、足利義昭は、朝倉義景に感状を出し、美濃国の立政寺へ移った。

★織田信長に足利義昭を上洛させたのは誰か?

説①:細川藤孝(足利義昭側近)と明智光秀(細川藤孝家臣)の共謀説
説②:細川藤孝(足利義昭側近)の単独説
説③:山崎吉家(朝倉義景の外交担当の家老)説
説④:【私説】織田信長本人説

細川家伝『綿考輯録』には、細川藤孝が「織田信長に上洛供奉を頼みたいが、織田家には人脈(コネ)がない」と言うと、明智光秀が「縁者がいる」と答えたという。そして、明智光秀が、越前国と尾張国を(指名手配されている美濃国を何度も越えて)何往復もしたという。
 ──嘘である。
織田信長に上洛の供奉を頼むのは2回目だからである。細川藤孝は、1回めの時に打ち合わせした織田家家臣との面識があるのである。

『明智軍記』では、足利義昭が一乗谷に来た時、明智光秀は、既に越前国にはおらず、織田信長の家臣であったとする。つまり、越前国で明智光秀と細川藤孝は会っていないとする。とすると、細川藤孝単独説が史実だと思われてくる。

「足利義昭の上洛に関して、優柔不断な朝倉家を見限り、上杉家、織田家にに絞り、信長との接渉はこの細川藤孝が担当し(和田惟政が補助)、永禄9年3月以来、しばしば義昭の上使として尾張に行っている。一方、上杉家に対する接渉は、大覚寺義俊がしている」(谷口克広『織田信長の外交』)

山崎吉家の考え=朝倉家の足利義昭の上洛に関する外交方針は、「1度失敗した織田信長に頼むよりも、機を見て朝倉義景が、無理なら上杉謙信に頼む」であったと思われる。

ちなみに、私の説は「織田信長本人説」である。織田信長の美濃国奪取以後の様子を見ると、「天下布武」印の使用開始など、「戦国大名としての整備」をしているというよりは、「上洛に向けての整備」をしているように思われるからである。そして、織田信長本人が「前回は失敗しましたが、今回は周囲警備をしましたので大丈夫です」と足利義昭を誘ったとしか思えないのである。

★後日譚

 永禄11年(1568年)10月18日、足利義昭は、征夷大将軍になるが、いざという時にすぐに駆けつけて助けてくれるのが織田信長だけでは心もとないので、危機管理として、他の戦国大名へ御内書(協力要請書)を送ったが、「自分だけで十分」と思っていた織田信長は不満で、元亀元年(1570年)1月23日、足利義昭に対し、「五ヶ条の条書」を突きつけて承諾させた。ここには「天下静謐については織田信長に任せ、織田信長は独自の判断で成敗できる」とあった。早速、織田信長は、「上洛して新征夷大将軍に挨拶するように」と命令書を各戦国大名に送るが、朝倉義景は「これは織田信長の命令であって、新征夷大将軍の命令ではないから従わない」として上洛しなかったので、織田信長は、「五ヶ条の条書」に従って越前国に侵攻したが、江北の浅井氏の裏切りにより、逃げ帰った(「藤吉郎金ヶ崎の退き口」)。
 織田信長は、すぐに勢力を立て直して「姉川の戦い」に及び、天正元年(1573年)8月20日に一乗谷を焼き払うと、朝倉義景は逃げ延びた先の大野で自刃し、朝倉家は滅亡した。

1.Wiki「山崎吉家」


山崎長吉の子として誕生。享禄4年(1531年)8月の享禄の錯乱に伴う朝倉軍の加賀国出兵の際、朝倉宗滴に従って今湊に着陣した「山崎新左衛門尉」が初見とされ、弘治元年(1555年)の加賀一向一揆攻めで、大将である宗滴が病に倒れると、代わりに大将に指名された朝倉景隆と共に出陣している。

宗滴没後はそれまで宗滴が担当してきた越後国の上杉氏との交渉役を引き継ぎ、後に織田信長との戦いが始まると、美濃国安養寺(郡上市)や遠藤氏を通じて武田信玄とも交渉しており、朝倉氏の外交の分野で特に重要な役割を果たしている。永禄10年(1567年)3月の堀江景忠謀叛の際には、魚住景固と共に討伐軍大将として派遣された。翌永禄11年(1568年)5月の足利義昭の朝倉館訪問時には、年寄衆として挨拶をしている。

元亀元年(1570年)4月の金ヶ崎の戦いでは、朝倉義景本隊の第1陣として一乗谷を進発し、織田軍撤退後の5月11日に総大将朝倉景鏡の下、近江国に出陣、美濃国境まで進出し赤坂・垂井などを放火して姉川の戦い直前の6月15日に帰陣した。同年8月、摂津国中嶋に進出した三好三人衆を討つため信長が岐阜を出立すると、浅井長政の要請を受けて援軍として小谷城に入り、この時、現在、山崎丸と呼ばれる砦を築いたという。そのまま9月に入り近江に進出してきた朝倉軍本隊と合流し、朝倉景健と共に先陣を賜り、浅井軍・一揆勢と共に西近江を南下して、坂本の戦いで織田軍に勝利し、織田家の部将森可成・織田信治・青地茂綱らを討ち取っている(宇佐山城の戦い、志賀の陣)。

元亀3年(1572年)7月から12月にかけての義景の北近江出陣にも従軍、更に翌元亀4年(1573年)3月の義景の敦賀出陣にも従軍し、若狭国に進出して佐柿城に付け城を築いている。天正元年8月14日、刀禰坂の戦いでは退却する朝倉軍の殿軍を任され奮戦したが、織田軍の執拗な追撃の前に力尽き、弟である吉延(吉清)・珠宝坊、子・吉健ら一族のほとんどを含めた多くの将兵と共に戦死した。

♪間違い探しの~、間違いの方はどっち?

2.『はじめての織田信長』「山崎吉家」(白泉社)


朝倉家の三代に仕えた名将・朝倉宗滴は、天文24(1555)年に79歳で病死しました。その宗滴亡き後、朝倉家を支えた忠臣が山崎吉家さんでした。

マンガではなぜかアフロ(笑)の吉家さんは、享禄4(1531)年の戦いで史料に初めて名前が載っていることから、信長や秀吉よりも1回り年上の1500~10年代の生まれではないかと考えられます。

1555年の「加賀一向一揆攻め」では総大将である宗滴が病で倒れたため、代理の総大将となった朝倉景隆(朝倉義景の従兄弟)と共に朝倉軍を指揮しています。

また、宗滴が担っていた越後の長尾景虎(後の上杉謙信)との外交を引き継ぎ、織田信長とも交渉を重ねるなど外交官として活躍していきました。

永禄10(1567)年に堀江景忠が起こした反乱を鎮圧し、足利義昭が越前に訪れた際には当主の朝倉義景に従う3人の騎馬衆の1人として出迎えをしています。

このように、吉家さんはネゴシエーター(交渉人)やコマンダー(指揮官)として、主君である朝倉義景を生涯を懸けて支え続けていきました。

元亀元(1570)年に信長が朝倉家を攻めた際には、朝倉家の同盟相手の浅井長政が信長から離反したのを機に、一気に攻勢に転じて織田軍を追い詰めました。世に言う「金ヶ崎の退き口」です。

この時、朝倉軍の先鋒として織田軍を追撃しているので、殿軍を務めていた木下秀吉の軍勢と激しく戦いをしたかもしれません。

同年に起きた「姉川の戦い」には参戦せずに留守を任されていた吉家さんですが、その直後に起きた「宇佐山城の戦い」では朝倉軍の先鋒を務めています。織田方の宇佐山城を激しく攻め、マンガでもおなじみの森可成や織田信治(信長の弟)などを討ち取る武功を挙げました。

また、元亀3(1572)年には浅井家からの要請で小谷城に援軍として入り、「山崎丸」と呼ばれる砦を築いたといいます。この砦跡は、現在も小谷城に残されています。これより47年前に、宗滴が小谷城に援軍として入って「金吾嶽(金吾丸)」を築いたと言われていますので、やはり吉家さんは後継者として宗滴が行ってきたことを模範にしていたように感じられます。

懸命に朝倉家を支えてきた吉家さんですが、時代の流れは朝倉家に不利なものへと変わっておきました。

天正元(1573)年に信長が浅井家・朝倉家を滅ぼすために再び兵を挙げ、浅井家の小谷城に攻め寄せました。朝倉軍は近江へ出陣し、織田軍と対峙しました。

しかし、織田軍の調略により、浅井家にも朝倉家にも内通する者が現れて兵力は大幅に落ちてしまいます。

さらに突然の暴風雨が陣地を襲った際に織田軍の奇襲に遭ったために朝倉家は撤退を始め、激しい追撃に遭ってしまったのです。

後に「刀禰坂の戦い」と呼ばれる激戦において、吉家さんは主君の義景を本拠地の一乗谷城へ落ち延びさせるために殿軍を願い出ました。

激しく追撃してくる織田軍に対して必死に防戦した吉家さんですが、最期は敵陣に斬り込み、弟の山崎吉延や息子の山崎吉健らと共に、壮絶な討ち死にを遂げたといいます。

「軍の大将は前線に立つのが基本である」という宗滴の言葉を実行するかのように、先鋒や殿軍で戦場の前線に立ち続けた朝倉家きっての忠臣でした。

吉家さんの討ち死にから1週間後、義景は自刃して果て、朝倉家は滅亡しました。

(文:歴史ナビゲーター&歴史作家・長谷川ヨシテル=れきしクン)

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