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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第5回)「兄との約束」

治承4年(1180年) 源頼朝(34歳)略年表》------------------------------

8月17日 挙兵=源平合戦の始まり(山木館と堤館を襲撃)。
8月18日 早朝、北条館で首検分。
8月19日 中原知親の蒲屋御厨支配を停止。
8月20日 源頼朝、鎌倉に向けて出立。(横上に「以仁王の令旨」。)
8月23日 曇り。夜になって豪雨。台風? 「石橋山の戦い」開始。
8月24日 早朝、暴風雨の中、椙山に逃げ込み、堀口に着陣。
      北条時政&義時、甲斐国へ向う。
      北条宗時を紀六久重が射殺。
      工藤(狩野)茂光、自害。
      -----------------------------------------------------今回はここまで
      源頼朝、梶原景時に見つかるも、永実の案内で箱根山へ逃げる。
8月28日 土肥郷真鶴から船で安房国へ逃げる。
10月7日 鎌倉入り。
1185(いい箱作ろう鎌倉幕府) 鎌倉幕府成立まであと5年!!!!!

1.山木兼隆の最期

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                 月岡芳年『月百姿』「山木館の月」  

山木兼隆は、部屋の中で震えていた。
加藤景廉は兜を脱ぎ、源頼朝に拝領した源義朝の長刀(なぎなた)の先に兜をひっかけて、かかげた。部屋の中からは、武者が覗き込んでいるように見えた。山木兼隆は、影を斬ろうと、刀で斬りかかると、刀は鴨居(かもい)に当り、ささって抜けなくなった。加藤景廉は、障子を蹴破って部屋に入り、長刀で山木兼隆を貫き、腰刀で首を斬ると、その首を長刀の先に挿して、
「山木兼隆が首、加藤景廉が取ったり」
と叫んだという。

■『源平盛衰記』
 甲(かぶと)を脱いで長刀の先に懸(か)けて、内へつと指し入りたり。待儲たる兼隆なれば、「敵の入るぞ」と心得て、太刀を入て、はたと切る。余りに強く打つ程に、甲の星二並三並切削、鴨居に鋒打立て、「ぬかん、/\」とする処に、傍の障子を蹈み倒し、長刀の柄を取り直して、腹巻かけに胸より背へ差し貫き、軈(やが)てとらへて頸を掻く。こゝに八牧(やまき)を憑て筆執して有ける古山法師に某の注記と云ひけるが、萌黄糸威の腹巻に、三尺二寸の太刀を抜きて飛んで係りければ、景廉、走り違ひて長刀をしたゝかに打ち懸けたり。左の肩より右の乳の間へ打ちさかれて、其の儘、軈て死にける。即ち、兼隆が頸、片手に提、障子に火吹き付けて、暫く、待って躍り出づ。北条に向ひて「仕りたり」とて、敵の首を捧げたり。佐殿は遥かに焼亡を見給ひて、「景廉、はや兼隆をば打てけり。門出能し」と独言して悦び給ける処に、北条、使ひを立て、「八牧の判官は、景廉に討たれ候ひぬ。高名ゆゝしくこそ」と申したれば、「神妙、神妙」と感じ給へり。
 北条兼隆が頸を見て、
  法華経の序品をだにもしらぬみに八牧が末を見るぞ嬉しき
と、景廉は宵よりの仰せ也ければ、頸をば給たりける長刀に指貫、高らかに指上て参たり。ゆゝしくこそ見えけれ。佐殿、大に悦びて、八牧が首を谷川の水にすゝがせて、長櫃のふたに置かれて、一時、是れをぞ見給ける。謀叛の門出に、さこそ嬉しく御座(おはしまし)けめ。

※山木館攻め:「30人で攻めた」ではなく、「30騎で攻めた」であろう。1騎=騎馬の将1人+従者2人=3人であって30騎=90人である。
 『鎌倉殿の13人』でおかしいのは、工藤(狩野)茂光が参陣していたことである。工藤茂光は300の兵を集められる。そして、巻狩りで兎2羽獲って優勝するも、源頼朝には「太りすぎ」と言われ、「山木館攻め」では、堤館の前で倒れ「ふーふー」言ってた。運動不足なのであろう。(『平家物語』には「太き大(おおき)なる男」とある。)
 参陣していない工藤茂光を参陣させたのは、工藤茂光が参陣した「石橋山の戦い」の伏線(工藤茂光は、太っていて逃げられないと思い、自害した)なのだろうと思ったが違った(工藤茂光は、善児に暗殺された)。
 『吾妻鏡』によれば、山木兼隆を討てたのは、山木館の武士たちが、その日、祭りがあった三島宿ではなく、黄瀬川宿で豪遊していたからとある。黄瀬川宿は牧の方の在所である。『鎌倉殿の13人』のストーリーの裏読みをすれば、「17日の夜に山木館の武士たちが黄瀬川宿に泊まる」という情報を得た牧の方が、「襲撃は17日」というくじを作り、「襲撃するなら17日の夜だ」と示唆したのではないだろうか。

2.関東事施行の始まり


 治承4年(1180年)8月19日。山木兼隆の親戚で、顔が長かったために「長面進士(ちょうめんしんじ)」と呼ばれていた中原知親は、蒲屋御厨(かばやのみくりや。静岡県下田市~賀茂郡南伊豆町)にいて、常日頃、非法行為を行い、住民が困っているので、止めるよう、源頼朝が命令した。藤原邦通が奉行した(取り仕切った)。これが、源頼朝による関東での施政(土地に関する沙汰(判断)と下知(命令))の始まりである。
 『鎌倉殿の13人』では、源頼朝が「誰か土地を取り上げてもいい者はいないか?」と聞いていたが、山木兼隆の山木や、堤信遠の多田を取り上げればいい。中原知親は、目代・山木兼隆の書記であり、目代ではないので命は取られなかったが、土地は取られた。
 こういうことを源頼朝が行えたのは、「東国は、諸国一同庄公皆可為御沙汰之旨、親王宣旨状明鏡也」(東国の土地(荘園や公領)について源頼朝が沙汰できるのは「親王宣旨状」(以仁王の令旨)により明白)だからである。

■『吾妻鏡』
治承四年八月小十九日己亥。兼隆親戚史大夫知親、在當國蒲屋御厨。日者張行非法、令悩乱土民之間、可停止其儀之趣、武衛令加下知給。邦道爲奉行。是關東事施行之始也。
其状云。
  下 蒲屋御厨住民等所
    可早停止史大夫知親奉行事
 右、至干東國者、諸國一同庄公皆可爲御沙汰之旨、親王宣旨状明鏡也者、住民等存其旨、可安堵者也。仍所仰。故以下。
  治承四年八月十九日

3.石橋山の戦い

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山木兼隆を討った源頼朝のもとに相模国土肥郷から兵が来て、兵数が伊豆&相模国の300人になった。
源頼朝は、北条政子たちを伊豆山神社へ預け、相模国土肥郷に向う。
土肥郷で三浦軍1000人と合流する予定であった。
(『鎌倉殿の13人』では、合流後、鎌倉へ行く予定だったとする。)
三浦軍は丸子川(現在の酒匂川)の増水で足止めされた。
源頼朝軍300人を大庭景親軍3000人&伊東祐親軍300人が挟み撃ちにしようとした。
源頼朝軍は、近くの石橋山に陣城を築いた。
三浦軍が大庭一党の家屋を焼くと、大庭景親は三浦軍の存在に気づいた。
「三浦軍が加勢する前に攻撃しよう」
夜、大庭景親軍が襲って来た。
まずは「言葉(詞)戦い」である。大庭景親軍を挑発して石橋山に誘い込み、ゲリラ戦に持ち込む予定であったが、言葉戦いに負け(挑発され)、源頼朝軍は、大庭景親軍に突入してしまった。
戦いにおいて源頼朝は100発100中の弓の腕前を披露する(『鎌倉殿の13人』では至近距離で2射2中)が、山内首藤経俊に射られる。
平野部では多勢に無勢で戦況は不利。
源頼朝は、味方を盾にしながら、石橋山の裏の杉山(椙山)の奥の堀口へと逃げ込み、洞窟(伏木の洞?)に隠れた。

■『平家物語』
 九月二日、東国より早馬着きて申しけるは、「伊豆国流人、前兵衛佐源頼朝、一院の院宣并びに高倉宮令旨ありとて、忽ちに謀叛を企て、去んぬる八月十七日夜、同国住人和泉判官兼隆が屋牧の館へ押し寄せて、兼隆を討ち、館に火を懸けて焼き払ふ。伊豆国住人北条四郎時政・土肥次郎実平を先とし、一類伊豆相模両国の住人等、同心与力して三百余騎の兵を率して、石橋と云ふ所に立て籠る。之に依りて、相模国住人大庭三郎景親を大将軍として、大山田三郎重成、糟尾権守盛久、渋谷庄司重国、足利太郎景行、山内三郎経俊、海老名源八季宗等、惣て平家に志ある者三千余人、同廿三日、石橋と云ふ所にて数剋合戦して、頼朝散々に打ち落とされて、纔かに六七騎に成りて、兵衛佐は大童に成りて杉山へ入りぬ。三浦介義澄、和田小太郎義盛等、三百余騎にて頼朝の方へ参りけるが、兵衛佐落ちぬと聞きて、丸子河と云ふ所より引き退きけるを畠山次郎重忠五百余騎にて追ひ懸くる程に、同廿四日、相模国鎌倉湯井の小壺と云ふ所にて合戦して、重忠散々に打ち落とされぬ」と申しけり。

「石橋山の戦い」で第一に注目されるのは、戦闘開始前の「言葉(詞)戦い(ことばたたかい)」である。これは、自分の正当性を主張し、相手を愚弄する悪口合戦である。(山中のゲリラ戦では、兵数の差は問題にならない。平地での戦いは、兵数の多い方が勝つ。源頼朝軍は、大庭景親を挑発して山中に攻めこませ、ゲリラ戦に持ち込んで三浦軍の到着を待ちたかったが、北条時政は、大庭景親の挑発に乗り、山麓(平野部)に出撃させてしまった。)

大庭景親「平家の御世(みよ)を揺るがそうと、合戦を起こしたのは誰だ? 蟷螂が両手をあげて牛車に立ち向かうようなもんだ。名を名乗れ」
北条時政「我が主(あるじ)は、清和天皇が第六の皇子(みこ)、貞純親王の御子(おこ)たる六孫王より七代の後胤、八幡太郎義家様五代の御孫(おんまご)、前(さき)の兵衛権佐、源頼朝様なるぞ。馬上よりつべこべ言うのはけしからん。まずは馬から降りやがれ」
大庭景親「わしら三千騎余り。かたやそちらのなんと少ないことよ。醜態を晒す前に降伏されよ」
北条時政「この裏切り者めが~。そなたは佐殿の御父君、源義朝様に仕えたではないか。何故平家に媚びへつらう」
大庭景親「先の戦で、源氏が朝敵に成り下がった時に、我が命を救ってくれたのは平家である。その恩は、海よりも深く、山よりも高い。まことの勇者は、へつらって見えることもあるのじゃ」
北条時政「一時の恩に浸って、先祖代々の主を捨てるとは、情けなや、情けなや。死すとも後世に残る名こそ惜しむべきものである」
大庭景親「ハ、ハ、ハ、ハ。もはやそなたにかける言葉は無いわ」
北条時政「それはこちらの言うことじゃ~。それ~、かかれ~!」

※「平家の御恩、山よりも高く、海よりも深し」とは、北条政子の「承久の乱」直前の名演説にも繋がる。ようするに、主人と家人の関係は「御恩(領地の安堵)と交換に奉公(戦闘)」なのである。

 大庭三郎景親、鐙ふみはり弓杖つき、立ち上がりて申しけるは、「抑、近代日本国に光を放ち、肩を並ぶる人もなき、平家の御世を傾け奉り、をかし奉らむと結構するは誰人ぞや」。北条四郎時政、あゆませ出だして申して云はく、「汝は知らずや。我が君は、清和天皇の第六の皇子貞純親王の御子六孫王経基よりは七代の後胤、八幡太郎殿には御彦、兵衛佐殿の御坐す也。恭く太上天皇の院宣を賜りて、御頸にかけ給へり。東八ヶ国の輩、誰人か御家人に非ざるや。馬に乗りながら子細を申す条、甚だ奇怪也。速かに下りて申すべし。さて御共には、北条四郎時政を初めとして、子息三郎宗時、同じく四郎義時、佐々木が一党、土肥、土屋を初めとして、伊豆・相模両国の住人、悉く参りたり」。景親又申しけるは、「昔、八幡殿の後三年の軍の御共して、出羽国金沢城を責められし時、十六才にて、先陣かけて右目をいさせて、答の矢を射て、其の敵を取りて、名を後代に留めたりし、鎌倉権五郎景正が末葉、大庭三郎景親を大将軍として兄弟親類三千余騎也。御方の勢こそ無下にみえ候へ。争でか敵対せらるべき」。時政重ねて申しけるは、「抑も、景親は景正が末葉と名乗り申す歟。さては子細は知りたりけり。争か三代相伝の君に向かひ奉りて、弓をも引き、矢を放つべき。速かにひきてのき候へ」。景親又申して云はく、「されば主にあらずとは申さず。但し、昔は主、今は敵。弓矢を取るも取らぬも、恩こそ主よ。当時は平家の御恩、山よりも高く、海よりも深し。昔を存じて降人になるべきに非ず」とぞ申しける。

★『鎌倉殿の13人』と『吾妻鏡』の違い
・『鎌倉殿の13人』では、堤館→山木館と順に攻撃し、堤館で北条時政&北条宗時が、初陣の北条義時にとどめのさし方や首の取り方を教えるかのように堤信遠を討っていたが、『吾妻鏡』では、堤館へは佐々木隊が向い、北条隊は山木館に向っている。
・北条館で木に登り、山木館の火の手を見たのは安達盛長ではなく、江太新平次。
・北条政子を伊豆山神社へ送ったのは北条義時ではなく、住吉昌長と藤原邦通。
・北条宗時は善児が刺殺したのではなく、伊東祐親軍の紀六久重が射殺。
・工藤茂光は善児が刺殺したのではなく、自害。
・北条宗時と工藤茂光が、なぜ源頼朝のそばを離れて別行動をとったのかは不明。『鎌倉殿の13人』では、「片時も源頼朝のそばを離れない」と言っていた北条宗時が源頼朝のそばを離れて別行動をとった理由を「源頼朝の正観音像を北条館に取りに行くため」「源頼朝の自分勝手な言葉に憤慨して、一時離れて頭を冷やすため」とし、工藤茂光は体のサイズに合う鎧を取りに行くためとしている。2人は伊豆国平井郷(静岡県田方郡函南町平井)を経て、早川のあたりで、伊東祐親に闇討ちを命じられた善児に暗殺された。史実は、平家方の伊東祐親軍に包囲され、小平井の名主・紀六久重に射られて討たれたといい、2人の墓は並んでいる。
※宗時神社(静岡県田方郡函南町大竹神戸坂):北条まで5km。元は北条宗時の墳墓堂だったという。

 改訂されてなかった。浜松市にあるのは「蒲御厨」である。


★呉座勇一 歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第5話「北条時政と大庭景親の罵り合いに見る、当時の「現金」な主従関係」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91841

▲本日の「13人の合議制」のメンバー(宿老)

①中原(1216年以降大江)広元(栗原英雄)
②中原親能(?)
③二階堂行政(?)  
④三善康信(小林隆)
⑤梶原景時(中村獅童)=「石橋山の戦い」、敵方(平家方)で参陣。
⑥足立遠元(大野泰広)
⑦安達藤九郎盛長(野添義弘)=「石橋山の戦い」参陣。
⑧八田知家(?)    
⑨比企能員(佐藤二朗)
⑩北条時政(坂東彌十郎)=「石橋山の戦い」参陣。
⑪北条義時(小栗旬)=「石橋山の戦い」参陣。
⑫三浦義澄(佐藤B作)=石橋山へ行こうとするが、川の増水で行けず。
⑬和田小太郎義盛(横田栄司)=三浦軍と共に「石橋山の戦い」参陣。大庭方の家を焼き、三浦義澄が源氏方であることを示した。

▲『鎌倉殿を支えた13人の重臣ガイドブック』
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/taiga/documents/taiga1201katamen1.pdf
▲『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/
▲「鎌倉殿の13人 ロケ地ガイド」
http://loca.ash.jp/show/2022/t2022_kamakura.htm

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